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第2話 二本の赤い線と、皇帝の涙
(2話ですけどこれが最初のストーリーです。)
世界最高峰のクラブチームで「皇帝」の名を欲しいままにする男、ミヒャエル・カイザー。ピッチの上で王座に君臨する彼の右足は、あらゆる理不尽をねじ伏せ、数多の凡才を絶望の淵へと突き落としてきた。
そして私、アレクシス・ネスは、その絶対的な王の隣を許された唯一の理解者であり、彼の私生活のすべてを甘やかに支配し、支える最愛の妻だった。
「ミヒャ…、今日のハーブティーは少しブレンドを変えてみたんだ。筋肉の疲労回復に特化したやつだよ」
「ふん……。お前の淹れるものは、相変わらず俺の身体に完璧に馴染む」
それが私たちの日常だった。カイザーが王として輝くためのすべてを私が先回りして用意し、彼は私の捧げるマギア(魔法)を当然のように浴びて、さらに強くなる。私たちは、完璧に噛み合った一つの歯車だった。しかし、その年の春。私たちの完璧な歯車に、目に見えないほどの小さな「ズレ」が生じ始めていた。
*
しかし、その年の春。私たちの完璧な歯車に、目に見えないほどの小さな「ズレ」が生じ始めていた。
(……おかしい。どうして、こんなに頭が重いんだろう)
朝、カーテンから差し込む光が、いつもより酷く眩しく感じられた。ベッドから起き上がろうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、強烈な立ちくらみが私を襲う。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、指先からじわじわと体温が奪われていくような、恐ろしい感覚。どれだけ寝ても、内側から全エネルギーが吸い取られていくような、得体の知れない疲労感。
(だめだ。早く起きなきゃ。ミヒャの朝食の管理、今日のトレーニングメニューのチェック、私がやらなきゃいけないのに……身体が、言うことを聞かない……っ)
不安で涙が滲む。
私がカイの足枷になるなんて、そんなこと、あってはならないのに。
ベッドの中で小さく震える私の異変を、隣で着替えていたカイザーの鋭い視線が見逃すはずはなかった。
「ネス。まだ眠いのか? 無理をするな。今日の朝食は俺が適当に済ませる」
トレーニングウェアに着替えたカイザーが、ベッドの脇に腰を下ろして私の額に手を当てた。彼の大きな手のひらは、いつもより少し冷たくて心地いい。けれど、私の額に触れた瞬間、カイザーの眉がピクリと跳ねた。
「ごめんね、カイ……。最近、なんだかずっと身体が重くて……」
「……お前のその顔、どこか見覚えがあるな。それに、数日前からコーヒーの匂いも避けている。キッチンに立つお前の手元が、微かに狂っていたのを知らないとでも思ったか?」
カイザーは鋭い青い瞳をわずかに細め、私の顔をじっと見つめた。その瞳の奥には、いつも私に向ける独占欲とは質の違う、何かを確信したような、そして同時にひどく揺れ動くような強い熱が宿っていた。
「今日、練習の後にクリニックを予約しておく。大人しく寝ていろ。お前が少しでも曇った顔をしているのは、俺の神経を逆撫でする」
有無を言わせない冷徹な声。けれど、その指先が私の髪を驚くほど優しく梳いたのを、私は見逃さなかった。
*
その日の夕方。完全予約制のプライベートクリニックの、静謐な診察室。私は診察台の上で、冷たいジェルを腹部に塗られながら息を潜めていた。隣には、周囲の空気ごと氷結させるような威圧感を放つカイザーが、私の右手を強く握り締めて立っている。
『おめでとうございます、ネスさん。妊娠六週目ですね。ここに小さな心臓が動いているのが見えますか?』
医師が指差した超音波検査のモニター。そこには、まだ一センチにも満たない、小さな小さな黒い影――「胎嚢」があった。そしてその中心で、チカチカと、けれど驚くほど規則正しく点滅する光。トクトクトク、と力強く響く心音 。
それを聞いた瞬間、私の右手を握り締めていたカイザーの手の力が、骨が軋むほどに強くなった。
(カイと、私の、赤ちゃん……? 嘘みたいだ。私の身体の中に、カイの血を引く新しい命が宿っている。彼を世界一の王として輝かせることだけが私の人生だったのに、私たちが新しい『親』になるなんて……)
あまりの衝撃と、内側から湧き上がる名前のない感情に、私の目からボロボロと涙が溢れ出した。
カイザーは言葉もなく、ただモニターの光をじっと見つめていた。その横顔は、ピッチの上で見せるどんな冷酷な表情よりも強張っていて、けれど、彼の綺麗な瞳にはみるみるうちに涙がたまっていった。
*
帰りの車の中に乗り込んだ瞬間。カイザーはエンジンをかけることもせず、ハンドルに両手を置いたまま静かに息を吐いた。そして、ゆっくりとこちらを振り向くと、私のシートベルトの上から、壊れ物を扱うようにそっと私を抱きしめた。彼の身体が、世界最強のストライカーの身体が、子供のように微かに震えている。
「ありがとう、ネス。お前は本当に……俺に、想像もしなかったような奇跡をくれる。俺の人生にお前が現れただけでも奇跡なのに、俺たちの血を引く命まで……。俺はお前を誰にも渡さないし、お前が産むその命も、俺のすべてを賭けて支配し、守り抜いてやる。愛している、狂うほどに」
彼の声は、歓喜と、これから始まる未知の日々への強い決意で震えていた。私の首筋に落とされる彼の涙の熱さに、私は 「ああ、私はこの人のためなら、本当に何だってできる」
と、深い多幸感の中で強く誓ったのだった。