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上陸してすぐ、リオは“音”の違いに気づいた。
波のはずなのに、遠い。風のはずなのに、届かない。
島の中だけ、世界が分厚い布で包まれているみたいだった。
黒い岩肌を伝うように進む。靴底が濡れた苔を踏み、粘る。
アデルの左腕の腕輪が、ときどき淡く脈打った。 そのたび、周囲の霧がわずかに退く――気がする。
「……方向は合ってる」
アデルが低く言い、地面に残った痕を指でなぞった。
泥に刻まれた足跡。軍靴の跡が三つ、重なり合って続いている。
「カシウスの部下だな」
「……あいつら、先に来てる」
リオは脇腹を押さえたまま、息を整える。
痛みはまだ鈍く残っていたが、歩ける。歩かなきゃいけない。
さらに数歩。
今度は、細い靴跡が斜めに走っていた。軽い。小柄な人間の足。
リオの視線がぴくりと動く。
「……レアもいる」
アデルの口元が固くなる。
「急ぐ。ただし、走るな。ここは焦った者から飲まれる」
飲まれる――その意味が、すぐに分かった。
◆ ◆ ◆
森へ入った瞬間、匂いが変わった。
潮の匂いが途切れ、代わりに“乾いた埃”みたいな匂いが鼻を刺す。
ここは海の島なのに、まるで長い廃墟の中みたいだ。
木々の根元に、ありえないものが転がっていた。
潰れた透明の瓶。軽い素材。
表面には、見慣れた記号の並び――現実世界の文字にしか見えない。
リオがしゃがみ込み、瓶のラベルを指でこする。
「……これ、日本の字だ」
アデルが眉を寄せる。
「……そちらの世界の物だな。」
読めば読むほど、胸の奥がざらつく。
異世界の島に、現実のゴミが“当たり前みたいに”ある。
境界が薄い、ってこういうことか――。
次の瞬間。
木陰がゆらりと揺れて、人の形になった。
「……っ!」
霧の塊が、首から上だけぼんやりと切り取られた影になる。
顔は無いのに、叫び声だけが“耳の内側”で鳴った。
《……助けて……》
《……帰りたい……》
《……消える……》
リオは思わず一歩引く。
アデルが剣を抜いた。刃が霧を切っても、影は裂けない。
「観測亡霊……!」
アデルの声に苦さが混じる。
「ここまで濃いとは……!」
影が一つ、ふらりと近づいた。
触れられたら危ない。
触れられた瞬間、体の“熱”が持っていかれる――そんな感覚が肌に張りつく。
リオが短く息を吐く。
「アデル、捕縛で止められるか」
「物理拘束は効かない。ただ――“形”を固定する術なら通る」
アデルが片手を開き、空中に紋を描く。
銀の線が三重に重なり、輪になる。
「〈拘束式・鎖環〉――展開!」
霧の影に光の輪が絡みつき、一瞬だけ動きが止まった。
だが次の影が、別方向から滑るように迫る。
リオが腕輪に触れ、低く言う。
「じゃあ、こっちは……“弾く”」
腕輪の欠片が青白く光り、霧の粒がぱっと散った。
影が“記録の粒”にほどけ、空に溶けていく。
残りも同じだ。
アデルが固定し、リオが弾く。
連携は短く、速い。言葉はいらなかった。
最後の影が消える直前――
かすれた声が、はっきりと形を持った。
《涼……?》
リオの背中が凍りつく。
その声は、確かに。
「……ユナ?」
思わず前へ出かけて、アデルの手が肩を掴んだ。
「追うな、リオ。今のは“声の残像”かもしれない」
「……わかってる。でも……」
「でも、行く。そうだろ」
アデルの目が鋭く細まる。
「だからこそ、罠に落ちるな」
霧の奥で、何かが笑った気がした。
気のせいじゃない。その“気配”が残る。
◆ ◆ ◆
森を抜けると、地形が急に変わった。
岩場が割れ、谷が口を開けている。
谷の底から霧が湧き上がり、逆に“吸い込まれている”ようにも見える。
ここが――ホロウ。
ミラージュ・ホロウ。
谷の縁に、異質な建造物があった。
半分は古い石の壁。半分は滑らかな灰色の壁。
素材が違うのに、同じ建物として繋がっている。
石と“コンクリート”が、継ぎ目で溶け合っていた。
リオの腕輪が、熱を持つ。
アデルの腕輪も同時に光り、空気が一瞬だけ薄くなる。
「……入口だ」
アデルが呟く。
扉は鉄。錆びているのに、壊れていない。
鍵穴の横に、見慣れない小さな板――数字の並び。現実の装置だ。
リオが唇を噛む。
「ここ、完全に混ざってる……」
「だから封印された」アデルが言う。
「そして、誰かがまた開けようとしている」
扉の前の地面に、新しい跡があった。
軍靴が三つ。
そして、細い靴跡が踊っている。
アデルの声が低くなる。
「先に入ったな」
リオは痛む脇腹を無視して、扉に手をかけた。
冷たいはずの鉄が、妙にぬるい。
その瞬間――
カタン、と内側で何かが鳴った。
扉の隙間から、白い光が細く漏れる。蛍光灯の色。
そして、かすかな振動音。スマホが鳴る時の、あの短い震え。
《……涼……》
今度は、残像じゃない。
霧越しじゃない。
扉の向こうから、はっきり聞こえた。
リオの喉が鳴いた。
「……ユナ」
アデルが剣を構え直す。
「入るぞ。背後も警戒しろ。レアは、ここで待つタイプじゃない」
扉が、ゆっくりと開く。
谷の霧が吸い込まれるように内側へ流れ、
“現実の匂い”と“異世界の冷気”が、同時に二人の顔を撫でた。
ミラージュ・ホロウの内部は、静かに明るかった。
逃げ道を消すみたいな、無機質な明るさで。