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次の日
いつもの時間に朝食のために食堂へ向かうと、そこには驚くべき光景があった。
いつもは仕事優先で、私が席に着く頃にはとっくに視察へ出ているはずのベル様が、珍しく既に席についていたのだ。
窓辺から差し込む柔らかな朝日が、彼の艶やかな黒髪を輝かせている。
その横顔は、絵画のように静謐で美しい。
「おはようございます、ベル様」
私が努めて明るく挨拶すると、彼は読みかけの新聞からゆっくりと視線を上げた。
いつもなら「ああ」と短く、事務的な返事が返ってくるだけなのに、今日は違った。
「……おはよう」
その声音は、朝の光に溶け込むようにいつもより少しだけ柔らかい気がした。
そして、彼は何かを躊躇うように視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「なあ、昨日の……夜食のことだが」
彼は新聞紙をパサリと閉じてテーブルに置くと、真っ直ぐに視線を私に向けた。
その瞳には、昨夜の気まずさはもうない。
「あれは、キミが作ったのか」
「えっ……? はい、そうですが……お口に合いませんでしたか?」
心臓が跳ねた。
まさか、伯爵家の口に合うような高尚な味ではなくて、お叱りを受けるのではないかと内心ビクビクしながら顔を覗き込む。
すると、彼は視線を斜め下へと逸らし、
「いや……」
と、どこか歯切れ悪く言った。
「いつもは忙しすぎて、食事なんて適当に済ませているから……特に考えずに食べていたんだが」
言葉を選びながらそう告げるベル様の頬が、ほんのり朱に染まっているのが分かった。
ごにょごにょと言い淀むベル様の姿は、まるで少年が初めて美味しいお菓子を食べて
その感動をどうにか母親に報告しようとしているみたいで、胸が締め付けられるほど愛らしい。
そして最後に、彼は消え入りそうな声でポソっと言ったのだ。
「その、ありがとう……美味かった」
「!!!」
彼から発せられた『美味かった』という、飾り気のない、けれど何よりの賛辞。
その言葉の破壊力に、私の中で何かが弾けた。
「お気に召されたようで良かったです」
私は安堵から胸をなでおろしながらも、込み上げてくる「ふふっ」という笑みを抑えることができなかった。
あの冷酷伯爵が、私の作った質素な夜食をそんなに喜んでくれるなんて。
心の中でくすくすと笑いが止まらない。
そんな私の様子を見て、ベル様はバツが悪そうに眉根を寄せた。
「だから、その……また、作ってくれないか」
「え、今日もですか?」
「いや、出来たらでいい。……無理にとは」
「いいですよ、それぐらい。今日もお部屋にお夜食、持って行きますね」
「ああ」
約束を取り付けると、彼は少しだけ満足げに頷いた。
「……にしても、そんなに気に入っていただけるとは思わなかったので…嬉しいです」
私が包み隠さず正直に伝えると
彼は一瞬、沸騰したかのように顔を紅潮させ、勢いよく顔を背けた。
「……ベル様……顔が赤いですが、大丈夫ですか?」
心配になって小首を傾げて訊ねると、ベル様はさらに真っ赤になり、耳まで染め上げて
「なんでもない、気にするな」
とだけ吐き捨てるように言うと、そのままガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、逃げるように自室へと戻っていってしまった。
(思い上がりかもしれないけれど……)
なんだか今の反応が、あまりにも分かりやすい「照れ隠し」のようにも思えて
一人残された食堂で私の頬は緩みっぱなしだった。
◆◇◆◇
それからというもの
屋敷を包む空気は、私がここへ来たばかりの頃のあの張り詰めた緊張感が嘘のように、見違えるほど柔らかくなっていた。
私は密かに、名付けて「溺愛大作戦」を決行していた。
ベル様が長年、誰にも言えずに隠し続けてきた「甘いもの」や「可愛いもの」への純粋な愛着。
それを、この屋敷では誰にも否定されない、決しておかしいことじゃないんだと証明するために。
彼が鎧を脱ぎ捨てて、心から安らげる居場所を私が作ろうと決めたのだ。
そんなある日のこと───…
掃除の合間にベル様の部屋にお邪魔すると、ベッド脇に置かれたあのクマのぬいぐるみに目が止まった。
以前、彼が必死に隠そうとして抱いて眠っていた、あの古びた子だ。
最近では私が部屋に入っても、彼はそれを慌てて隠したりしなくなった。
少しずつ、私に心を開いてくれている証拠のように思えて、それだけで胸が熱くなる。
しかし、よく見るとぬいぐるみの右腕の付け根が、今にも取れそうにほつれていた。
「あら……ベル様、その子の腕の糸、少しほつれてしまっていますね」
私がそっと指を差して教えると、ベル様はバツが悪そうに視線を彷徨わせた。
「……」
彼は大きな体で、守るようにぬいぐるみを隠すように抱き直した。
「……本当だ。もう、随分と古いからな」
諦めたように、どこか寂しげな笑みを浮かべる彼。
その、今にも泣き出しそうな子供のような表情を見て、私は居ても立ってもいられなくなった。
「ベル様、私にお任せください。すぐに直せますわ」
私は自室から使い慣れた裁縫道具を取り出してきた。
戸惑う彼から預かったぬいぐるみは、近くで見ると本当に大切にされてきたことが伝わってくる。
ベル様の目の前で、私は一針ずつ、心を込めて針を進めた。
「…………」
時折、強い視線を感じて顔を上げると
ベル様が瞬きも忘れたような顔で、私の手元を
そして私の顔をじっと見つめていることに気づく。
その、あまりに純粋で真剣な眼差しに見つめられて、私の心臓の方が少し早鐘を打ってしまった。
「はい、直りました! これでもう大丈夫ですよ」
「……すごい、器用なのだな。……恩に着る」
手渡したぬいぐるみを、彼は壊れ物を扱うように、そして愛おしそうに胸に抱きしめた。
その姿を見て、またひとつ、私の中にある「庇護欲」の炎が勢いを増した。
(大事にしたいな……この笑顔を、この穏やかな時間を)
そんな風に日々を過ごすうち
私たちの間にあった高い壁は取り払われ、距離は確実に縮まっていった。
変化は私たちだけではなかった。
最近ではメイドさんたちまで
「ベル様があんな穏やかな表情を見せるなんて!」
「最近、旦那様のお部屋から笑い声が聞こえるんです」
と、信じられないものを見るような目で驚いている。
私の「溺愛大作戦」は、間違いなく成功の兆しを見せていて、私は心の中でガッツポーズをするのだった。