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車内でも沈黙することなくいつものように笑顔で言葉を掛けてくるリオンに同じようにいつも通りに言葉を返していたウーヴェだったが、胸の奥では心臓が早鐘のように鳴り響いて煩いほどだった。
平静さを保っている-と自分で思い込んでいる-ウーヴェは、自宅では無くリオンの家に向かっていることに気付いて今日は部屋は散らかっていないのかと問えば、散らかっているのがいつもの俺の部屋だと自慢されてじろりと横顔を睨む。
「だってそうだろ?」
「少しは片付けようとは思わないのか?」
「うーん、無理、だな。それに俺の部屋が綺麗になれば俺の部屋じゃないし」
「・・・・・・・・・」
仕方がないと苦笑し、いつしか来慣れてしまった老朽化の激しいアパート前に止まった車から降り立ち、リオンに続いて階段を登っていく。
前を行く背中は広く大きく、きっと自分が過去をぶつけたとしても揺らぐことはないと思える強さを感じさせている。
それをいとも容易く想像させるその背中を見つめながら階段を上り、辿り着いたフロアの二つめのドアを軋ませながら開け、自分がやってくるのを待っているリオンに気付いて足を速めると静かにドアが閉められる。
来る度に口酸っぱく部屋を片付けろと言っているが、雑多なもので溢れかえるこの部屋の空気が何処よりも、もしかすると自宅の寝室よりも落ち着けるものである事を初めて訪れたときに気付いていた。
ただそれを口に出す事も出来ずに少しは部屋を片付けろと煩く言っていたが、片付けられた部屋など想像も出来ないし、また小綺麗になった部屋で時を過ごす事など想像の遙か彼方の出来事だった。
室内の空気を胸一杯吸い込むように呼吸をした時、そっと背中から抱きしめられたことに気付いて顔を振り向けようとするが、身体を締め付けるような腕の強さに身動ぐことが出来なくなってしまう。
「リオン・・・っ、苦しいから力を緩めてくれないか」
「────言えよ、オーヴェ」
苦痛を訴えた声に被るように真摯な声が響き、ウーヴェが腕の中で身を竦めると同じ言葉を語気を荒げて告げられる。
「何を・・・言えと言うんだ?」
何時かのようにこの胸に抱えた嫉妬を吐き出せと言うのかと冷笑交じりに吐き捨ててしまったウーヴェだったが、次の瞬間には己の視界に映り込む世界が一変している事に気付き、眼鏡の下でターコイズを最大限に見開いてしまう。
今まで窓に映った自分と恋人の姿を見ていた筈の目が、歳月と埃に汚れた天井を映し出していたのだ。
抵抗らしい抵抗も出来ない間に己の背中がベッドのシーツに押しつけられている事に気付き、慌てて起き上がろうとするがそれを阻止する強い力で肩を押さえつけられて痛みに顔を顰めると、眼鏡が奪い取られて顔を背ける。
「オーヴェ」
「・・・っ!!手を離せ・・・っ」
「嫌だね。お前が洗い浚い吐けば離してやる」
まるで何時かも経験した錯覚を起こさせる遣り取りにウーヴェが唇を噛みしめた為にかさぶたを剥がしてしまったようで、新たな血がぷつりと浮かび上がる。
脳裏に浮かぶ光景を、20余年も夢に見るその景色を、そしてそれらの原因を告げる勇気など持てないウーヴェが何を言えと言うんだともう一度苦しげに告げると、肩を押さえていた力が不意に消え去り、変わって全身を包む様な温もりと愛してやまない重さがやって来る。
「────お前はずるい」
「リオ・・・ン?」
リオンの大きな身体に抱きしめられて身を竦めたウーヴェの耳、奥歯を噛みしめるような音とその隙間を縫って悔しそうな声が流れ出し、顔の傍にある頬を横目で見つめて名を呼べば、お前はずるいと断言されて口を閉ざす。
「俺には信じろとか話してくれとか言う癖に・・・お前は何も教えてくれねぇもんなぁ・・・」
いつか教えるから待ってくれとも言われるが、自分は一体いつまで待てばいいんだとも言われ、告げられた言葉がゆっくりと胸の奥に落ちると同時にその場で弾け、その痛みにウーヴェがきつく目を閉じる。
いつか言われると予想していた言葉だった。そして、最も恐れていた言葉でもあった。
恋人の過去をつぶさに知る女性に嫉妬し、その過去を教えろと怒鳴りつけた癖に、自らの過去は話せなかった。
己を信じてぽつぽつと教えてくれるようになったリオンを信じ、また自身も辛い過去を話す事が出来ればどれ程良かっただろうか。
偏に己の弱さからそれが出来ずに悩んでいたが、断罪する強さで責められてしまえば当然反論など出来ず、ただ血の浮く唇を噛みしめる事しか出来なかった。
「なぁ、一体何があったんだよ・・・?」
頼むからお前が抱えた過去の一端だけでも教えてくれと悔しさを滲ませた声で告げられ、その声につられるように口を開くが、震える唇の間から流れ出したのは己の意思とは関係なく条件反射の様に身体が勝手に流す震えるか細い悲鳴じみた声だけだった。
「そんなに俺が信用できねぇ?・・・仕方ねぇか。お前と違って俺は立派とは言えない出身だしなぁ」
上流階級には下々の者に言えねぇ悩みというのがあるのだろう。
ウーヴェを蔑むと言うよりは自らを見下げる様な口調にウーヴェが目を瞠り、そんな事はないと震える声で必死に否定する。
言葉でもって己の意思を伝え相手とコミュニケーションを取ろうと、不安を抱えて訪れる患者にその言葉を何度となく告げ、人は言葉を持っているのだからそれを使わない手はないとも諭してきたが、自らを省みたとき、リオンに対して本当に己の思いを伝えていたのかと問われれば自信を持ってその通りだとは言えなかった。
リオンを信じられない訳ではなかった。話したいと言う思いは喉を圧迫するほど溢れているが、それを遙かに上回る強さで過去の声が押し止めるのだ。
お前が思ったことを口にすればどんな事が起こるのか、忘れた訳ではないだろう、と。
「仕方ねぇよなぁ・・・ごめんな?」
もし俺がお前と同じように金も地位も持っていれば、きっとお前の悩みや苦しみを理解することが出来ただろうが、俺には全く想像も付かないと自嘲された刹那、呪縛が解けたようにウーヴェの口から否定の声が流れ出す。
「止めろ、リオン!頼む・・・っ。止めてくれ・・・っ」
「何を止める?言わなきゃ分からねぇよ。────言えよ!!」
狭いシングルベッドの上で鼻先がくっつく距離で睨み合うように顔を合わせ、互いの胸の奥に抱えられていた思いをぶつけ合うように怒鳴れば、ウーヴェがリオンの肩を強い力で握りしめ、歯痒さと己の心と身体の齟齬感からぎりりと歯を鳴らす。
いつも闊達で陽気なリオンに己の出自を悔やませる事など言わせたくなかった、その後悔も入り混じった思いに歯を噛みしめてしまうウーヴェだったが、その彼を見下ろすリオンもまた見せられた表情に呆然と目を瞠りそうになる。
こんなにも感情を剥き出しにするウーヴェなど今まで見た事が無かった。その事実に驚愕しかけるがせっかくの機会を逃す程リオンも馬鹿ではなく、ごく自然と挑発するように目を細めて言わなきゃ分かんねぇだろと鼻で笑うと、肩を握った手に力が入って歯と歯が擦れ合う音が流れ出す。
「前もそうだったけどさ、自分が思ってる事も言えねぇの?学校で何を習ったんだよ?」
自らの思いを自らの言葉で伝え、相手と議論する術を学んできたんじゃないのかと冷笑した直後、ウーヴェのターコイズが限界まで見開かれたかと思うと、信じられない事が起きる。
リオンの肩を握りしめ、奥歯を噛みしめながら瞳孔が開ききったように深い緑の目を瞠ったウーヴェの眦から赤い涙が一筋だけ流れ落ちて白っぽい髪に染み込んだのだ。
「オーヴェ・・・!?」
初めて見る血の涙に狼狽えそうになったリオンだが、ここで狼狽えてどうすると己を叱咤し、ウーヴェの白いまるで蝋のような頬を両手で包んで息を呑む。
「言えば・・・っ・・・」
血の気が失せて体温すら失ったような冷たい頬を温めるように手を宛がうリオンの耳、掠れて聞き取る事が困難な声が流れ込み、良く聞き取ろうと耳を寄せると驚くような言葉が震える舌と唇の間から流れ出す。
「言えば・・・お前が・・・死ぬ・・・」
「オーヴェ!?」
ターコイズを覗き込んだリオンだったが、幾ら見下ろしても視線が重なる事は無く、自分を見つめながらもその背後を見ているウーヴェに一瞬にして血の気を失ったリオンは、もう良いと叫んでウーヴェの身体を抱き起こす。
「・・・・・・嫌だ・・・お前が死ぬのは・・・見たくな────っ!!」
それがウーヴェの限界だったらしく、ふっと意識を失いリオンにもたれ掛かってくる。
それをしっかりと受け止め、赤い涙の跡が付いた眦を指の腹で拭ったリオンは、己の力不足を心の底から反省しながらも、ここまで追い詰められてしまうウーヴェの過去に一体何があったのかがより一層気になってしまい、失神したウーヴェの身体を支えて白っぽい髪を撫で続ける事しか出来ないのだった。
嫌だ、殺さないでと無表情に泣く子供の姿が見え、それが己である事に気付いた彼だが、身が竦んで一歩を踏み出すことが出来なくなっていた。
その場から早く逃げなければこの後どんな事が起きるのか、今の彼ならば良く分かっていた。
だから膝を抱えて泣く子供に逃げろと伝えたかったが、口も足も動かなくなってしまい、何とか一歩を踏み出そうと足を持ち上げるが、まるで強力な接着剤が足の裏に張り付いたかのようで全く持ち上げる事すら出来なかった。
そんなもどかしい一瞬が過ぎ去った時、泣いている子供がやって来た男に無理矢理立たされ、首に巻かれた赤い革のベルトに繋がった鎖で引っ立てられていく。
「────っ!!」
頼むから止めてくれと、その先を子供にも自分にも見せないでくれと真っ青な顔で手を伸ばすが、無情にも子供は鎖で引っ張られていき、そして耳を塞いでしまいたくなるような悲鳴が響き渡る。
どうあっても変える事の出来ない過去で、表情を良く変えた茶色の目と黒い巻き毛の少年がまた殺されてしまったのだ。
幼い彼が殺さないでと言ってしまった為に。
その思いが溢れかえったかと思うと視界が一瞬にして入れ替わり、床に力なく横たわる幼い自分と同じ視線で目の前に転がるものを見ていることに気付く。
幼い彼とそう年の差のない黒い巻き毛の少年が物言わぬ変わり果てた姿で手を伸ばせば届く場所で横たわっていたが、特徴的な茶色い瞳があった場所はただ昏い眼窩がぽっかりと空いているだけだった。
また止められなかった、見てしまったと唇を噛みしめて目を閉ざすが、いつもとは何かが違う感覚に囚われて恐る恐る閉ざした視線を元に戻すと、飛び込んできた光景が一瞬にして身体中に震えを走らせる。
今までの夢ならば目の前には幼い彼とともに事件に巻き込まれた少年が横たわっているはずだったが、今目の前に横たわるのはくすんだ金髪を一つに束ね、両耳にはいくつものピアス穴を開けた青年だった。
そんなまさかと全力で否定する脳味噌と心だったが、ゆっくりと大きな身体が見えない手で姿勢を変えられたように寝返りを打った時、弾みでころりと何かが転げ落ちる。
「────ひ・・・っ・・・!」
ころころと彼の前に転がってきたのは、彼が愛してやまないロイヤルブルーの虹彩を持つ二つの眼球だった。
目の前の光景に息をすることも忘れて目と口を見開いた彼は、がたがたと震える手を伸ばして横たわる身体に触れようとするが、後少しで手が届くと思った瞬間、強い力で後方へと引っ張られてしまい、喉に巻かれた革が首を絞める苦しさに息を詰まらせる。
何故かあっという間に恋人の身体が朽ち果てていく様を見せつけられ、窒息しそうな苦しさを遙かに凌駕する苦痛の下で狂ったように、それだけしか知らないというように名を呼び続ける。
やはり自らの思いを口に出した為に殺されてしまったのだ。
己が思いを堪えればこんな最期を迎える事は無かっただろう。
彼を自責の念が襲いかかり、痛みすら麻痺するような苦痛の中でそれが唯一の救いだと言うように一つの思いに囚われる。
今すぐ殺して欲しかった。
己の思いを告げただけで仲良くなった子供を殺され、そして今、最も愛するリオンをも無残にも殺されてしまったのだ。
自分も彼らと同じように殺して欲しかった。
だが彼の思いを遙かに上回る悪意から殴られ蹴られ、せっかくの金づるを手放すかと嘲られてしまい、彼に残されたものは諦める事だけになる。
思いを口にすることも、友を亡くして悲しむことも、また恋人を己の言葉で喪う絶望から命を絶って欲しいと願うことも諦めるしかなかった。
すっかりと骨だけになったリオンをガラス玉で見つめ続け、いつかそちらに行くがその時は迎えに来てくれるだろうかと問い掛けるが、自分を殺した男を迎えになど来てくれないだろうと気付き、最後の救いの様な思いすらも諦めなければならないと肩を揺らす。
生きて地獄に投げ込まれた方が遙かにマシだと思える苦痛に雁字搦めになった彼は、死ぬことも逃げることも出来ず、肩を揺らして調子の外れた笑い声を上げ続ける事しか出来ないでいたが、それもいつしか諦め、ただ静かに人形か何かのように横たわるだけだった。
ぼんやりと目を開けたウーヴェは、のろのろと震える手を挙げて首元に宛がい、夢の残滓が重くたゆたっているだけで現実には赤い革の戒めは無い事に気付いて震える呼気を吐き出す。
何度か深呼吸を繰り返して漸く震えが納まったのを見計らってそっと顔を動かすと、何かが視界に入り込んでくる。
「オーヴェ、気付いたか?」
「・・・リ・・・オン・・・?」
「気分は悪くないか?」
ベッドに上体を伏せるように寄り掛かりながら沈んだ声で問い掛けられ、大丈夫だと唇の端を軽く持ち上げるが、蒼い眼が瞬きによって一度姿を隠し再度姿を見せた時、ぽっかりと昏い眼窩で見つめてくる顔と重なったかと思うと、不意に視界が滲み出す。
今こうして心配そうに見つめ、優しい声と温もりで思いを伝えてくるリオンだが、己のせいで死んでしまうのだ。思いを、胸の奥底に秘めた想いを伝えた為に。
「リオン・・・っ、リオ・・ンっ・・・!」
頼むから死なないでくれと、どうか許してくれと湿り気を帯びた声で懇願し、頬に宛がわれていた手を掴んできつく目を閉じる。
「オーヴェ、大丈夫だ」
俺は殺されない、大丈夫だと安心させるように強く断言し、掌に押し当てられる頬を何度も撫でて横臥する肩を撫でていると、肩が微かに震えて同じ震える呼気が流れ出す。
まるで幼い子供のように掌に顔を擦り寄せ、涙が滲んだ顔で何度も何度もただ許してくれと繰り返す為、リオンがその度に大丈夫だと根気よく返していくと、小さく安堵したような笑みを浮かべた後、程なくして小さな穏やかな寝息が流れてくる。
己の手を握りしめたまま再度眠りに落ちたウーヴェを無言で見つめ、涙が滲んだ眦を指の腹で拭ってやったリオンは、常の恋人からは想像も出来ない様子に頭を抱え込んで奥歯が砕けそうなほど噛みしめる。
苦しめる為に思いを吐露しろと言った訳ではないが、その結果穏やかな冷静な顔など想像出来ない、まるで魂を喪った様な表情を浮かべさせてしまったのだ。
己の不甲斐なさにただただ自嘲し、穏やかに眠るウーヴェの頬に触れていた手をゆっくりと抜き取って横臥する細い身体に薄いコンフォーターを被せてやり、冷蔵庫からビールを取り出して代わりに持って帰ってきたラクレットを仕舞い込む。
情けないと自らを嘲るのはいつでも出来るが、次に恋人が目を覚ました時に自分は何を伝えられるのか、何をすることが出来るのかと自問しつつビールを飲み干す。
無理矢理過去を聞き出そうとした結果、ウーヴェに涙を流させる事になったのだ。
立派な肩書きも社会的地位も持つ男が、まるで脅えきった子供のように泣いて意味の分からない謝罪まで繰り返す。その原因となった過去とはどんなに辛く苦しいものだったのだろうかと思いを馳せると同時に己の力のなさを痛感してしまう。
いつかもそうだったが、己にはそれを上手く引き出すだけの力は無かった。
まずはその事を詫びようと決め、ウーヴェが惚れて止まない前向きさで顔を上げて頬を両手で一つ叩いてシンクで勢い良く水を出して顔を洗う。
もしもその過去が例えどんなものであったとしても、リオンはウーヴェと別れるつもりも、またベルトランに告げたように独りにするつもりも毛頭無かった。
ウーヴェが独りで抱え込んだ過去という荷物を、もし許されるのならばともに背負い、これからも二人で歩いていきたいのだ。
改めて気付いた己の心に嘘は吐けない為、これからも二人一緒に笑って手を繋ぎキスをし、そして抱きしめあえる関係でいる為に避けて通れないのならば、今ここで苦痛を与えてしまう事を避けるつもりはなかった。
痛みを乗り越えた先で二人傍で笑いあう、その為の痛みならば何があろうとも堪えてみせる。それをウーヴェに強要する事だけは心苦しいが、必ず乗り越えられるのだと、二人ならば越えていけると信じて欲しかった。
その決意を秘めたリオンは、ひっそりとだが誰にも逆らえない強さでその思いを口の端に乗せると、誰もが信頼する太い笑みと強い光を蒼い目に浮かべる。
濡れた顔をタオルで大雑把に拭いた後、穏やかに眠る恋人に目をやり、狭いシングルベッドではあるが寄り添って眠る事が出来ていた為、今夜もまたいつものようにベッドに潜り込んで痩躯に腕を回してベッドから落ちないように気をつける。
腕の中で先程の狂乱振りを微塵も感じさせない顔で眠るウーヴェの髪に口付け、お休みと告げたリオンは、あっという間に深い眠りに落ちていくのだった。
まだ薄暗い早朝-と言うよりは夜明け前、ゆっくりと目を開けたウーヴェは間近で肌にかかる寝息の主へと視線を向け、穏やかに眠る恋人を見つけて目を細める。
他の誰でもない、今静かに眠る恋人にだけ過去を洗いざらい話してしまいたかったが、自分が巻き込まれた事件の話をした結果、離れていってしまうのではないかという恐怖は拭い去れず、重い口を更に重くさせていた。
護るように載せられていた腕をそっと持ち上げて狭いベッドに身を起こすと、あちらこちらに跳ねているくすんだ金髪をそっと撫でる。
20余年を経てもまだ整理できないでいる過去。それが未だに重くのし掛かってくる事に唇を噛み、手の中で柔らかな感触を伝えてくる髪をそっと握って身を屈めて頬に口付けると、思いを振り切るように頭を振って静かにベッドから抜け出す。
もしかするともうここに来ることは無いかも知れない。雑然としながらも自分にとっては限りなく暖かで居心地の良いこの空気に包まれる事も無いかも知れない。
自らそれを手放す事への後悔も未練も胸から溢れ出すほどあったが、それを遙かに上回る痛みと恐怖で何とか押し止め、子供のように眠るリオンの顔を覗き込むようにベッドサイドに膝を突く。
「────リーオ」
俺の太陽。
もしこのまま別れる事になったとしても、どうかいつまでもそのままでいてくれと心の底から願って薄く開く唇にそっと口付け、サイドテーブルにあった己の眼鏡ではなく使い込まれて持ち主の手にすっかり馴染んでいるだろうシンプルなジッポーを手に取ると、足音を立てないようにベッドサイドを離れていき、古くて軋むドアを最小限の静けさを保ったまま開けた時僅かに躊躇するように足を止めてしまうが、いつまでも留まっていたい空気を振り払うように出て行く。
夜明け前の最も暗い空の下、愛車に乗り込んだウーヴェは、リオンの部屋をちらりと見上げた後、初めて出逢った頃のように無表情にエンジンを掛けてスパイダーを走らせ、少しでも早く独りきりの冷たい世界に身を慣らそうとするかのように眠りの底に沈む街を走り抜けるのだった。
だからウーヴェは気付くことはなかった。
静かに出て行くウーヴェの背中を奥歯を噛み締めたような顔で見送るリオンが、何度も手を伸ばそうとするのを抑え込む姿や、キャレラホワイトのスパイダーが闇の中に走り去るのを窓からただ見守っていた事にも気付くことはないのだった。