|田辺 明穂《たなべあきほ》は生まれながらの弱視、手に取った林檎の赤や輪郭は《《見える》》がテーブルで向かい合った人の顔はすりガラスに阻まれ面差しを《《感じる》》事が出来る程度だった。ただし相手の僅かな表情の変化や感情には敏感でそれは嗅覚や聴覚にも優れていた。
「吉高さん、学校でなにかあったの?」
「ーーーーー」
「また教科書が無いの?」
「無かった」
明穂の目にはその少年の戸惑いと落胆が見て取れた。
「ごめんね、一緒に探してあげられなくて」
「もう一度探してくるよ」
「気を付けてね」
「うん」
明穂の隣家には3歳年上の幼馴染が住んでいた。|仙石 吉高《せんごくよしたか》は生真面目で融通が利かない性格、そして孤独を好んだ。吉高は同級生の男子生徒が下世話な話に夢中になる傍ら教室の窓辺で小説を読んでいるような少年だった。
「また御本を読んでいらっしゃるんですかぁ?」
「なになに、かぎりなく透明なブルーって水だろ、水!」
そして同級生は吉高の手から小説本を取り上げると容赦無く教室の窓から投げ捨てた。
「あっ!」
「ごめんごめん、手ぇ滑ったわ」
小遣いを貯めて購入した小説本はポプラ樹の枝葉をすり抜けて|灯台躑躅《どうだんつつじ》の植え込みに落ちた。
「痛っ!」
その植え込みの陰には電子たばこを咥えて座り込む数人の男子生徒の姿があった。|屯《たむろ》する中には《《もうひとりの仙石吉高》》が眉間に皺を寄せていた。
「くそ兄貴!なにしやがんだ!」
「ぼっ、僕はなにもしていないんだ!」
仙石吉高と瓜二つな男子生徒は|仙石 大智《せんごくだいち》、周囲から(まぁまぁ落ち着け)と|諫《いさ》められた。ところが大地は長い前髪を掻き上げると小説本を掴み植え込みから立ち上がった。
「あっ!馬鹿!」
丁度そこに居合わせた体育教師に|咎《とが》められた大智とその仲間たちは1週間高等学校を謹慎、自宅で反省文を書かされた。
「大智、すごい沢山ーーこれは宿題のプリント?」
明穂は指先で床に散らばった紙をかき集めた。
「なんだよ、勝手に入って来んなよ」
「ごめん、おばさんがお茶を持って行ってって」
「ふーーーん」
白紙の答案用紙が彼方此方に散らばりその中に押し倒された明穂とその姿を見下ろす大智の姿があった。明穂の絹糸に似た薄茶の髪はフローリングの上で波打った。細い手首を掴む手のひらに汗が滲んだ。ゆっくりと長いまつげが閉じた。
「おふくろも適当だな」
「なにが」
「もう幼稚園児じゃねぇんだよ」
「そうね」
大智はゆっくり屈むと壊れ物を扱う様に口付けた。
「大智、なんだか悲しそうな顔」
「見えんのか」
「分かる」
「《《吉高さん》》と違って俺は出来損ないだからな」
「そんな事ないわ」
2人は抱き締めあった。すると階下から大智の母親が大声で呼んだ。
「あんたたちーーー!なんかしてるんじゃ無いでしょうね!」
「ざっ、ざけんなよババァ!」
「明穂ちゃーーん!夕ご飯食べて行きなさい!」
「は、はーーーい!」
明穂は胸元のボタンをふたつ留めると「それじゃ、反省文頑張ってね」と階段を降りて行った。その時、玄関の引き戸が開く音がした。
「あ、吉高さんおかえりなさい」
「明穂ちゃん来てたの」
「うん、畑のトマトをお裾分けに持って来たの」
「危ないよ!LINEくれれば僕が取りに行ったのに」
「大袈裟だよ」
それは仙石兄弟が高等学校3年生、明穂が中学校3生の夏の盛りの事だった。
田辺明穂は仙石家の双子の兄である吉高を《《吉高さん》》と呼び、弟の大智は《《大智》》と呼び捨てにした。年齢を重ねるごとに四角四面で過保護な吉高とは距離感が生じていた。
「明穂ちゃん、何処でも勝手に行っちゃ駄目だよ」
「如何して駄目なの」
「何処に行っているのか心配だよ」
「何処って、学校に行ったり公園に寄ったりするだけよ」
「公園に変な人がいたらどうするの」
吉高は幼い頃から明穂の行動範囲を把握しようとした。明穂可愛さ故の言動だと頭では理解出来たがそれは水に沈められる様な窒息感を覚えた。
(ーーーーふぅ)
大智は日々繰り返す2人の遣り取りを見て呆れ失笑した。
「吉高は心配しすぎ、明穂も(放っておいて!)とか言えば良いのに」
「でもそんな事言えないし」
「明穂にそんな事言われたらあいつ立ち直れないだろうな」
「そうだよね」
然し乍ら大智も年頃を迎えた明穂の身の回りを気遣った。良い案を思い付いた大智はお年玉と小遣いをかき集めてデジタルカメラを購入し明穂の手に握らせた。
「なにこれ、四角くて小さい、それに冷たい」
「デジタルカメラ」
「カメラなら携帯電話に付いているよ」
「これは明穂の目、その日何処に行ったか何を見たのか俺も知りたい」
「私の、目」
明穂はデジタルカメラの電源の入れ方を教わった。大智の熱く火照った指先が明穂の手を握ると互いに息遣いを感じた。
「これを押して」
「赤いボタン」
ボタンを押すと反応があり微かな起動音がした。
「これで毎日同じ男が写っていたら俺が警察に突き出してやる」
「突き出すなんて」
「明穂を狙った変質者かもしれないだろ」
「ーーーーあ、それは困る」
大智は明穂を背中から抱き締め呟いた。
「明穂がなにを見ているのか知りたい」
「じゃあ記念すべき1枚目」
パシャ
「な、なんだよ!」
「大智が一番よ、凄く恥ずかしそうな顔、顔も真っ赤」
「やめろよ」
そこへ明穂の母親が顔を出した。
「あら、デジカメ、大智くんの?」
「ううん、貰ったの」
「貰った!ええ!?大智くん大丈夫なの!」
「中古だから大丈夫」
けれど開封した箱には折れや擦れもなくデジタルカメラには傷一つ無かった。傾きかけた夕日に明穂の母親は笑みを溢した。
「畑のトマトがデジカメになるなんて驚き、明穂、良かったわね」
「うん、大智ありがとう」
「止めてくれよ恥ずかしいから」
「毎日、《《見た景色》》を写真に撮るね」
「楽しみにしてるよ」
それから明穂の学生服のブレザーのポケットには膨らみが出来た。心地良い重みが明穂に笑顔をもたらした。教室の風景、話し掛けて来る級友、毎日の弁当、登下校時に《《見た風景》》、散歩中の小型犬の鳴き声に「写真、撮っても良いですか」「どうぞ」とその道すがらに会話も増えた。
「今日はなにを見たの」
「可愛い犬が居てね」
「可愛い?顔が垂れてるじゃん」
「フレンチブルドッグなの?」
「そうそう、それそれ」
「だからツルツルした身体だったのね」
明穂は大智にもたれ掛かりながらデジタルカメラに収められたその日を振り返った。毎日が楽しかった。
(ーーーー明穂)
そんな中、面白くないのは吉高だった。明穂を心配しながらもそれは口先だけで終わっていた。行動力の有る弟の隣で無邪気に笑う明穂の姿が居た堪れなかった。
(ーーーークソっ、俺の方が学力は上だ!)
高等学校3年進路指導で吉高は国公立大学への進学を希望した。片や、謹慎処分を受けていた大智は大学進学は諦め地元の中小企業への就職が決まった。
(絶対、絶対医者になってやる!)
明穂と結ばれる未来を思い描いていた吉高はそれなりの地位、安定した生活基盤を手に入れるべくで大学医学部で医師免許を取得する為に勉学に励んだ。ところが高等学校に入学した明穂が親公認で大智と交際を始めてしまった。
(なんで、なんで大智が!)
高等学校卒で中小企業に就職した大智に明穂を掻っ攫われてしまった事で吉高の人生設計は大幅に狂ってしまった。
「おまえじゃ明穂を幸せに出来ない!」
「なんでだよ!」
「手取り18万円で明穂を養えるのか!」
「|賞与《ボーナス》だって出るさ!」
「おまえの会社の株は急下落、賞与なんて当てになるものか!」
ある日、些細な口論が発端となり吉高と大智は生まれて初めて殴り合いの喧嘩をした。その数ヶ月後に大智は突拍子のない事を口にした。
「俺、海外に行くわ」
「お金は如何するの!」
「貯金も少しあるし何とかなる」
「ビザは!」
「就労ビザかワーキングホリデーでもなんとかなる」
「なんとかなるって、そんないい加減な!」
「俺は《《吉高さん》》とは違うからな」
大智が海外に行く事を知った明穂は泣いて|縋《すが》った。然し乍ら大智の決意は変わらず明穂の両手にはSDカードが握らされた。
「SDカード使って」
「こんな物要らない、大智に此処に居て欲しい!」
「こんな物ってこれ結構高かったんだぞ」
「これをどうしろって言うの!」
「また見に戻るから」
「嫌だ!嫌だ!」
明穂はその腕を掴んで前後に激しく振った。
「SDカードの容量が一杯になったら交換して」
「大智が居なきゃ分からない」
「田辺のおばさんか吉高に確認して貰って」
「大智が良い!」
明穂の叫びも虚しく大智を乗せたジャンボジェット機は小松空港を飛び立ち成田空港へと向かった。後を追い掛ける事が出来ない明穂はその背中をデジタルカメラの中に収めた。それ以来大智の消息は途絶えた。ただ《《生きている》》証として時折絵葉書が送られて来た。
「明穂ちゃん、結婚して下さい」
「ーーーえ」
「僕じゃ明穂ちゃんを幸せに出来ないかな」
吉高は大学医学部を卒業し医師免許を手にした。田辺家と仙石家の間では吉高と大智どちらかの息子と明穂を縁付かせようという話が持ち上がっていた。その事を知っていた吉高は大智不在の折、これ幸いにと明穂に求婚をした。
「え、と」
明穂の中には大地への淡い恋心が|燻《くすぶ》っていたが、特に断る理由も無くその求婚を受け入れた。
「大切にするよ」
「よろしくお願いします」
明穂23歳、吉高25歳の事だった。
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