テラーノベル
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彼女からのメッセージは大概夕方になると送られて来る。返信するとあっと言う間に既読が付くのは昔からだ。仕事終わりに電車の中でスマホをいじっているのだろう。みんな同じなんだなと思う。
僕だってそうだ。
電車に乗ってまずする事。それはスマホを開く事。
『明日会えない?』
彼女からのメッセージを受け取って、僕はアプリを起動した。
タスク管理帳に入れたスケジュールを確認して返信する。
『明日ならOK、20時くらいに家にいてよ』
すぐさま既読が付いて返事が来た。
『大事な話があるから、家じゃなくてマノンにしようよ』
マノンと言うのは二人の馴染みの喫茶店で、そこのクロックムッシュは絶品だ。だけど最近は全く行っていない。
僕が了解すると、彼女からは『ありがとう』の文字だけが送られて来た。スタンプも顔文字もなくて、ちょっとした違和感に僕は困惑した。
終電の満員電車。
いつも通りの曖昧な景色が僕の前を通り過ぎて行く。掌のスマホをポケットにしまい込んで、僕は目を閉じた。
週明けは何かと忙しく、書類の整理や定例会機、各店舗の訪問。予算案の打ち合わせ等々、時間がいくらあっても足らないくらいだ。
1日が48時間だったらなと思う。
親父の口癖だったけど、まさか自分も同じ考えをする様になるなんて驚きだ。
イタリアンレストランを全国に展開する僕の会社は、今流行りのブラック企業で、けれど賃金はそれなりに貰っている。
お金の為に働いているのか、自分の為に働いているのかは僕には判らなかった。
18時に仕事を終えてマノンに向かうと、すでに彼女はカウンターの隅の席に座っていた。
いつものカフェラテといつもの飾り気のない化粧で、笑いながら手を振っている。
だけどその表情は何処か無理がある。
僕は彼女の隣に座って炭火珈琲を注文した。
「クロックムッシュ食べる?」
と僕が言うと、彼女は首を横に振った。
「じゃあ、軽いものとかにしようか? パンケーキなんかどお?」
僕の提案に、彼女は笑顔で頷いた。
本題に入るまでの時間は気まずくて、でもその雰囲気で彼女の言いたい事は察しがついた。
『別れ話』を切り出す勇気がないのだろう。
彼女はパンケーキをちびちび食べながら、仕事の話をしている。
今までにそんな話なんてした事もなかったから、僕は彼女を気の毒に思ってこう言った。
「ほんとはもっと大事な話をしたいんでしょ?」
と。
彼女はうつむいて、しばらくしてから呟いた。
「清人はなんでも出来ちゃうから、、、」
「うん、よく言われる、、、」
「ひとりでなんでも出来ちゃうから、、、」
「そうでもないんだけどね、、、」
顔を上げた彼女の瞳が潤んでいた。
僕も別れを考えていた。
だけど、切り出すタイミングが判らなかった。
彼女の真っ直ぐな瞳が 『卑怯者』と僕を罵っている。だけど怒りや哀しみはなくて、淡々と聞いていられる自分が『冷酷なニンゲン』に成り下がってしまった事実に虚しくなってしまった。
彼女は言った。
「あたしなんていなくても大丈夫だよね?」
その真っ赤な鼻頭。
潤んだ瞳。
震える唇が僕を責めている。
「好きな人とか出来たの?」
僕の問いに、彼女は寂しそうに笑った。
どれくらいぶりにこの喫茶店へ来たんだろう。
付き合い当初は毎日の様に訪れて、2人で笑いながらクロックムッシュを食べていた。
あの頃は時間も心の余裕あった。
いつからこうなってしまったんだろう。
彼女は僕を知らない。
ひとりで何でも出来る訳がない。
僕だって無理していたんだ。
淋しくてやり切れない日も、人肌恋しくなる夜もあった。だけどそんな事は言えない。
たくさんの想いが駆け巡る。
僕の隣の空いた席に、彼女の痕跡はもはや見つからない。
探し出そうとしても、その手は空を切るばかりだ。
その時、ふと感じた。
『僕だって、彼女の事を知らなかったのかも知れない』
ノラジョーンズの歌声が、ひとりぼっちにされた空間に響いている。
パンケーキの味は今の僕には甘過ぎる。
そんな気がした。
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