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「有夏……」
名前を囁かれ、顔を近付けられる。
そうすると目を閉じて、少し顎を傾けて待つのが常になっていた。
姉たちの余りもののように付けられたこの名前は、昔から嫌いだった。
可愛らしい名前だと揶揄いの種になったから。
でも、今は違う。
好きな相手に呼ばれる名の、何と愛おしいこと。
唇を優しく座れ、あとは愛撫に身体をまかせる──はずなのだが。
そう。夕食も入浴も済ませた。幾ヶ瀬は明日は休みである。
確実に、そういう流れの──ハズなのだが?
近付く息づかいがちっとも感じられないことに、訝しんだ有夏。
ちらり。
薄目を開けた瞬間のこと。
『ピロッ♪ ピロリ~ン♪』
苛つく電子音が眼前で鳴った。
ついで幾ヶ瀬の嬌声。
「やった! 撮れた! あっ、ちょっと目ぇ開いてる。でも、イイっ! 逆にセクシー! いいよ!」
「………………」
電子音以上にイラッとくるこの感じ。
ぱちくりと開かれた有夏の大きな目は、次の瞬間、険悪に細められた。
「何やってんだよ!」
手を伸ばすと、幾ヶ瀬は「アアッ!」と大袈裟に叫んで身をよじる。
その悲鳴に、有夏のイライラはさらに募ったようだ。
水色のストライプ模様のパジャマを、それはそれはきちんと着こんだ幾ヶ瀬はスマホを胸に抱きしめている。
通話とメールができりゃ良い。あとは時計と目覚ましになりゃそれで良いと豪語する幾ヶ瀬が、スマホを触っているのは珍しい。
嫌な予感に襲われた。
「幾ヶ瀬、それ貸せって!」
有夏の上体が伸びた。
左手で相手の両手首をつかみ、右手をスマホにのばす。
「イヤだぁぁっ」と、耳にキンと響く大声で悲鳴をあげながらも、幾ヶ瀬も抵抗する。
料理人の力は侮れない。
立ち仕事であり、重い物を運ぶことも多々あるので、彼は見た目以上に体力も筋力もあるのだ。
職業・ひきこもりの有夏に敵うよしもない。
「ちょっとーやめてよー。ありかー。やだなぁ、有夏に襲われちゃった。へへっ」
「へへっ」のあとに「☆」マークでもついていそうな軽い口調である。
余裕の体で両手を抑え込まれ、有夏としては呻くしかない。
いつもならばそのまま冒頭の続きに突入して、揉めごとなど忘れてしまうところだが、今夜の有夏は違った。
一瞬の隙をついて平手で幾ヶ瀬の頬を張る。
「アデッ? ひどいっ!」
パンッと小気味良い音が鳴ると同時に、さすがに怯んだ相手の手からスマホを取り上げてやった。
待ち受けが目に入り、ゾッとする。
「何これっ!」
日付とアナログ時計の表示の下に、半目をとじて口を突き出した自分の間抜け面を見たからだ。
「ちょっと、有夏。返してよ」
スマホをひょいと取り上げて袖口で画面を拭く幾ヶ瀬に、悪びれた様子はない。
張られた頬が赤くなっているが、さしたるダメージもなさそうだ。
「おま……、それ、さっき! やっぱり写真とって……消せよっ!」
案の定というか、当然というか。
幾ヶ瀬は首を振る。
「いいじゃないの。別に誰に見せるでもないんだし。休憩時間に有夏のキス顔見て癒されたいんだって。いいでしょ?」
「いくないわッ!」
それもそんな顔っ、と叫んで有夏は懸命に手を伸ばすも、今度はあっさり躱されてしまう。
勢い余って床にベタッと倒れ込んでから、おもむろに有夏は上体を起こした。
「そんな顔……そんなヘンな顔はイヤだ!」
「そっち? 別に変じゃないよ。可愛いし、格好良いよ?」
「かわいくないし、かっこよくないし! 目ぇ半開きでバカっぽいし!?」
論点が少しズレている気もするのだが、有夏にだって美意識があるということか。
「撮り直せ!」
えっ、と幾ヶ瀬が高い声をあげる。
「撮り直していいの? うっわ……有夏さん、馬鹿なのかな?」
率直な返答は、さすがに後半は小声であった。
とにかくそれは消せ、有夏が見てる前で消せと喚くところをみると、余程この写真が気に入らなかったと見える。
撮り直していいんなら消すけどねとスマホを操作する幾ヶ瀬の手元をガン見している。
削除の文字を見て、有夏はようやく小さく息をついた。
「んじゃ、有夏。撮るよ? はい、チーズ」
「はいチーズって、何でそんなん言うんだ? チーズって食べるチーズだろ。なぁ、何でそんなん言うんだ?」
「…………じゃあ、撮るからね。ハイッ」
「幾ヶ瀬、写真撮るとき何でチーズって……」
「……お写真、撮りますよ?」
「なぁ、何でチーズ……」
「ガッ! ワッ! わーっ!」
突然叫びだした幾ヶ瀬を、有夏が横目で見ている。
眉間にシワを寄せて、厳しい表情だ。
「……幾ヶ瀬、頭は平気か?」