テラーノベル
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今日も寝過ごしてしまった。
千歳は下半身に残る重く鈍い余熱を自覚しながら、乱れた寝具の中でゆっくりと身を捩った。
レースのカーテン越しに、日はすっかり高く昇っている。
帝国劇場でオペラを見せてもらった夜から、鷹臣に明け方まで幾度も激しく求められる日々が続いていた。
あの日以来、鷹臣が焦っているように感じるのは気のせいだろうか。
まるで自分の生きた証を刻み込もうとするかのように、執拗なまでに繰り返される密やかな行為は、千歳を愛しむと同時に彼自身の命を捧げているようにも思えた。
「少しでもお役に立ちたいのに」
まだ熱の引かない指先で、鷹臣が横たわっていた場所をそっとなぞると、鷹臣の香りが千歳の鼻腔を微かに掠める。
以前のように、朝食の席で向かい合って穏やかな言葉を交わしたい。
軍服に袖を通す手伝いをし、玄関先で「行ってらっしゃいませ」と背中を見送りたい。
「わがままかしら」
こんなに毎晩情をいただいているのに。
千歳はベッドから起き上がると、おぼつかない足で鏡台の前へと向かった。
鏡の中に映る自分は、斎宮家にいた時とは別人のようだった。
動くと光る水鏡の紋章、赤みを帯びた頬、そして薄衣から覗く首筋には、彼が刻みつけた情愛の痕が痛々しくも鮮やかに散っている。
鷹臣が自分を求めてくれるのは嬉しい。
彼が抱える鬼の疼きを自分が和らげられるのなら、それ以上の喜びはない。
「でも、私の存在価値を見つけないと」
与えられるだけの存在では、いつか熱が冷めたら捨てられてしまうかもしれないから。
斎宮家で「無能」と蔑まれ続けた記憶が、千歳の恐怖を煽る。
でも、どうすればいいのだろう。
千歳は鷹臣が買い与えてくれた柘植の櫛を手に取り、溜息をつきながら髪を梳いた。
しっとりと重みのあるその櫛を髪に通すと、沈香の香りが微かに揺れる。
まだ、自分には何もできない。
だから堂々と彼の隣を歩くための「何か」を手に入れたい。
そしていつか私自身を愛してほしい。
千歳はどんどん欲張りになっていく自分の心を自覚し、こういう気持ちがあやかしを生むのかしらと自嘲した。
髪を簡単にまとめ、モダンな矢絣の銘仙の着物に半幅帯を締めた千歳は、竹籠を手に取り、縁側から庭へと降りた。
神楽坂の広大な庭園には、季節を告げる花々が咲き乱れている。
「鷹臣様みたい」
千歳は凍てつく空気の中で、炎が灯ったように鮮やかな紅を放っている椿の前で足を止めた。
冬の過酷さに屈せず、ただ一輪でその場を支配する強さと孤高。
それは、愛する夫の姿そのものに見えた。
寒椿と合わせるのは、俯き加減の白い水仙がよいだろうか。
千歳は一輪一輪、丁寧に花を選び、そっと花を折り取った。
ふと、さわがしくなった門の方に視線を向けると、見覚えのある今は最も顔を合わせたくない客の姿があった。
豪奢な人力車から優雅に降り立ち、神楽坂邸の門を傲然と見上げているのは、義妹の百合子だ。
「どうしてここに……?」
斎宮の屋敷で自分を「無能」「呪い子」と呼び、冷たい言葉を浴びせ続けた義妹が、なぜこの神楽坂邸を訪れているのか。
「まさか、鷹臣様に惚れて……?」
嫌な予感が千歳の胸を掠める。
義妹の百合子は、目鼻立ちがはっきりとした誰もが振り返るような美貌の持ち主。
今日の装いも、冬の寒さを物ともしない目を剥くような華やかさだ。
百合子は鮮やかな牡丹色の振袖に、毛足の長い真っ白な狐の襟巻き。
地味な銘仙姿で、竹籠を持つ自分とはあまりに違いすぎる。
「まあ、お姉様。相変わらず薄汚れた格好をして庭掃除だなんて、笑わせてくださるわ」
固く閉じられた門の向こう側で高笑いをする百合子に、千歳は自分の身なりを恥じた。
動きやすいからと選んだこの着物は、神楽坂の妻としては不適切だったのだ。
つい先ほど、鷹臣の横に並びたいと願ったばかりなのに、その資格は自分にはないのだと、再び過去の呪縛が首を絞め始める。
「これ、お姉様へ心ばかりのお祝いでしてよ。ぜひ、直接お渡ししたいの」
百合子の手には可愛らしい桃色のリボンがかけられた小箱。
その甘い外装は、今の彼女が放つ刺々しい気配とはあまりに不釣り合いで、不気味な違和感を放っていた。
「どうして急に?」
胸をざわつかせる不信感。
同時に、ひとつの危惧が千歳の脳裏を支配した。
やはり百合子は、鷹臣様に近づくきっかけを欲しているのではないだろうか。
「いりません」
千歳は、絞り出すような声で拒絶した。
お金を持っていない自分が百合子にお礼をするには、鷹臣に頼まなくてはならない。
そうすれば必然的に百合子と鷹臣が顔を合わせることになる。
心が狭いかもしれないけれど、できるだけふたりは会わせたくない。
「なによ! 普段豪華な贈り物をもらっているから、こんなもの受け取れないって言うの?」
百合子は、千歳の拒絶を傲慢と決めつけ、周囲に響き渡るような甲高い声で騒ぎ立てた。
「千歳のくせに、神楽坂の奥方気取りなんて生意気だわ!」
「そういうわけでは……!」
「じゃあ、この門番に預けるわ」
「やめてください! それを持って、すぐに帰ってください!」
門番は怯える千歳と激昂する百合子の板挟みになり、困惑した様子で二人を見比べる。
「申し訳ありませんが、主人の許可がない品はお預かりできかねます。お引き取りを」
門番がぺこりと頭を下げると、百合子の整った顔が屈辱で歪み、ギリッと奥歯が鳴る音が聞こえた。
「ふん、そんなに拒否することないじゃない」
百合子は肩をすくめると、門番の隙を突き、格子門の隙間へ強引に小箱をねじ込もうと手を伸ばす。
その瞬間、空気がバシッと激しく震え、小箱は百合子の手ごと猛烈な力で弾き飛ばされた。
「きゃっ……!」
百合子の身体は無様に後ろにのけぞり、人力車に叩きつけられるように尻餅をついた。
自慢の牡丹色の着物は乱れ、狐の襟巻きが泥混じりの地面に転がる。
「何をしたのよ! このバケモノ!」
百合子は乱れた髪を振り乱し、地面に這いつくばったまま、顔を真っ赤にして千歳を罵った。
「百合子さん、大丈夫ですか?」
思わず門に駆け寄ろうとした千歳だったが、百合子の背後に転がった小箱を目にした瞬間、全身の血が凍りついた。
黒い煙が実体を持つかのように揺らめき、百合子の影に吸い込まれていく。
「……あ」
百合子の瞳から光が消え、陶器のように白かった肌が黒く変わっていった。
まるで鳳公爵夫人の夜会であやかしに変わってしまった父のように。
「逃げて!」
千歳は恐怖を振り絞り、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
ハッとした門番や人力車の車夫は一斉に駆け出す。
「奥方様も早くお屋敷の中に」
花を摘んだ竹籠を奪われ、早く走ってくださいと門番に指示される。
背後から聞こえる何かが砕けるようなおぞましい音に、千歳は必死に駆けた。
「ひっ、あ、あぁ……!」
逃げ惑う車夫の悲鳴が遠ざかる。
千歳は屋敷の玄関へたどり着く直前、一度だけ肩越しに振り返った。
門の外に百合子の姿はない。
ビリビリに破れた鮮やかな牡丹色の着物と、毛足の長い真っ白な狐の襟巻きが、黒いあやかしには不釣り合いだった。
お父様と、同じ……?
どうして?
「千歳様、こちらへ!」
玄関の重い扉が開くと同時に、中から飛び出してきた女中が千歳の腕を掴んで屋敷の中へと引き入れる。
千歳は震える身体を女中の腕に預けながら、どうにか玄関ホールへと滑り込んだ。
「千歳様、お怪我はございませんか?」
「私は……、でも」
千歳は冷たい大理石の床に膝をつき、激しく打ち鳴らされる心臓を抑えた。
「すぐ鷹臣様がお見えになります。それにこのお屋敷は森部様がお守りくださっていますので案ずることはありませんわ」
女中は千歳の震える背中を落ち着かせるように、何度もさすってくれる。
温かいその手のおかげでようやく思考が回って来た千歳は、ふと、ある残酷な真実に思い当たった。
もしあの贈り物を受け取っていたら、あやかしになったのは私……?
もし門番が代わりに受け取っていたら……?
なんの非もない人たちが、突然あやかしに……?
千歳の心臓がどくんと跳ねる。
百合子を襲った悲劇は、本来自分に向けられたものだったのだ。
そう確信した瞬間、めまいが千歳を襲った。
「千歳様、こちらへ! ここは危険です」
切迫した声と共に、廊下の向こうから軍服姿の男性が駆け寄る。
見慣れた帝国陸軍の軍服、鷹臣と同じ金ボタンが薄暗い廊下で鈍く光った。
男性は千歳の細い腕を掴むと、半ば引きずるようにして屋敷の奥へと促す。
「は、離してください……っ。まだみなさんが」
「閣下の命令です、早く!」
閣下……?
男の言葉に違和感を覚えた千歳は目を見開いた。
彼らと会ったのは数回だが、鷹臣のことを隊長と呼んでいなかっただろうか……?
「あなたは誰ですか?」
千歳が渾身の力でその手を振り払うと、軍帽を深く被った男の口元が、歪に吊り上がった。
「おや、意外に鋭い」
軍帽の庇の下で光ったのは、愉悦に満ちた蛇のように冷ややかな眼光だった。
この人は帝国劇場で百合子と一緒にいた……!
悲鳴を上げようとした瞬間、班目の指先が千歳の額に触れる。
「鷹……」
助けて。
どろりとした闇が視界を塗り潰し、千歳の意識は遠のいていく。
力なく崩れ落ちる千歳の身体を抱えた班目は、静かに屋敷から姿を消した。
#溺愛
ゆゆ

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460
#成り上がり
aohana
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コメント
1件
ああ、第14話……読ませていただきました。 千歳さんが「与えられるだけじゃ捨てられる」と怖がるシーン、胸が締め付けられました。それだけ鷹臣さんへの想いが本物で、自分を精一杯持っていこうとする健気さが痛いほど伝わってきます。椿に鷹臣さんを重ねる視点も好きです。そんななかで訪れる百合子の襲来——あの小箱に仕込まれたものの正体、そして「助けて」も届かず連れ去られる最後の一文。もう次の話が気になって仕方ないです……!