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#溺愛
ゆゆ

45
460
#成り上がり
aohana
1,436
轟音と共に、神楽坂邸の門は幾度となくあやかしの攻撃を受けた。
裂けた牡丹色の着物をぶら下げながら狂乱の声を上げる百合子の成れの果ては、壁に爪痕を残していく。
見えない壁に弾かれながら、あやかしは一心不乱に門を傷つけ続けた。
「そこまでだ」
冬の空気を切り裂く、氷のように冷徹な声が響く。
軍服を翻し、軍刀を構えた鷹臣は一瞬であやかしを塵へと変える。
後に残ったのは、地面に落ちた無惨に破れた牡丹色の布切れだけだった。
赤く腫れあがる紋章に顔を歪ませながら、鷹臣は屋敷へと駆け込む。
「千歳! 無事か? 千歳はどこだ?」
「先ほど部下の方が奥様を安全な場所へと連れて行ってくださいました」
柱の陰で震えていた女中が鷹臣に答えると、門番も周りの者たちも頷いた。
「……部下?」
「軍帽を深く被っておりましたが、金ボタンの軍服を……」
金ボタン。それは帝国陸軍において、選ばれし『対魔特務部隊』のみに許された矜持の象徴。
鷹臣は背後に影のように控える森部を鋭く射抜いた。
「森部」
「配備しておりません」
屋敷の中に隊員を入れているはずがないと、森部は冷静に否定する。
その瞬間、鷹臣の脳裏に蛇のような執念深さを持つ男・班目の歪んだ笑みが過った。
鷹臣の鬼の紋章が赤黒く脈打ち、愛する者を奪われた怒りが理性を焼き尽くさんとばかりに全身の血を沸騰させる。
「今ここで貴方が『鬼』に呑まれれば、帝都は一夜にして焦土と化します。班目の狙いは貴方の理性を奪い、自壊させることです」
肩を掴んで制止する森部を、鷹臣は獣のような獰猛さで振り払う。
だが、荒れ狂う鷹臣を、足元に転がっていたひとつの「竹籠」が止めた。
籠から零れ落ちたのは折れた寒椿と、か細い水仙の花。
おそらく、千歳が摘んだものだろう。
鷹臣は血の気の引いた指先で、真っ白な水仙を拾い上げた。
手折られたその花は千歳そのもののように清廉で、そして今にも消えてしまいそうなほど心細い香りを放っている。
「全隊員に告げろ。帝都の全検問を即刻封鎖。班目を逃がすな」
鷹臣は水仙を懐に収めながら「無事でいてくれ」と祈らずにはいられなかった。
「……もっと早くいろいろな場所に連れて行ってやればよかった」
春になったら桜を、夏の盛りには、避暑地の青い湖を。
秋には紅葉を求めて少し遠出でもしようかと、褥で眠る千歳を見つめながら夢想をしていた。
「俺は、あいつの誕生日すら一度も祝ってやれぬのだな」
不甲斐ない夫だという呟きは、軍用車の荒々しいエンジン音にかき消される。
鷹臣は軍刀を握りしめながら、森部が運転する車へと乗りこんだ。
◇
寒い。
肌を刺すような鋭い冷気に、千歳は震えながら意識を取り戻した。
薄暗い視界の中に、ひとりの男が影のように佇んでいる。
千歳は己の異変に息を呑んだ。
動けない……!
自由を奪われた手首にザラついた麻縄が無慈悲に食い込み、うまく起き上がることができない。
「気が付いたか」
男性は手持ち無沙汰に軍帽を弄びながら、千歳の顔を覗き込む。
その顔はやはり帝国劇場で百合子と一緒にいたあの蛇のような眼光の男性だった。
「あなたは誰ですか?」
千歳は震える声で問いかけ、奥歯がガチガチと鳴るのを必死に抑える。
男は怯えきった獲物の反応を楽しむかのように、薄い唇を吊り上げニタッと笑った。
「俺は班目」
「……あ」
以前、一度だけ鷹臣に聞かれたことがある。
珍しい名だと思ったが、それはこの人のことだったのだ。
「聞いたことがあるようだな」
「……お名前だけ」
「そうか。まあ、無理もない。この帝都で『英雄・班目勲』の名を知らぬ者など……」
班目は、自らの父が築き上げた輝かしい功績を、呪いの言葉のように吐き捨てた。
だが、千歳は当惑したように瞬きを繰り返し、震える唇を開く。
「あの、申し訳ございません。その方は存じておりません」
「……は?」
班目の動きはピタリと止まり、凍りついたように千歳を見つめる。
「鷹臣様から『班目という男を知っているか?』と問われただけで、その方はまったく……」
「知らない……? 知らないだと? この俺の父を、知らないというのか!」
千歳の胸ぐらを掴み上げる指先に、ぎりぎりと力がこもる。
「班目勲は帝国陸軍・対魔特務部隊を作り上げた偉大な軍人だぞ」
「……無知で、申し訳ありません」
千歳は、苦しさに喘ぎながらも静かに答えた。
特務部隊の隊長が鷹臣であることは知っている。
だが、副隊長の森部以外は名前すらわからない。
ましてや創設者のことなど、物置暮らしをしていた千歳が知る由もない。
「あいつは……神楽坂は、自分を庇って死んだ男のことを一度も話していないというのか?」
「……何も、うかがっておりません」
班目は千歳を突き飛ばすと、狂ったように笑い声を上げた。
その乾いた笑いは、洞窟の奥底へと虚しく反響していく。
「あははっ……! 隠していたのか、あの男は」
班目は地面に這いつくばる千歳を見下ろし、その瞳に宿る絶望をさらに深い闇で塗りつぶそうと顔を近づけた。
「いいか、よく聞け。あいつはな、俺の親父を身代わりにして生き延びた『化け物』なんだよ」
班目は千歳に向かって堰を切ったように語り出した。
「俺は、班目勲が娼館の女に産ませた不義の子だ」
母が亡くなり、あのお方の力でようやく父に会えた。
だが、その傍らにいたのは自分ではなく神楽坂鷹臣だったのだ。
「俺が泥水を啜って生き延びていた間、あいつは親父の隣で『息子』のように笑っていた。誰からも認められず、愛されず、ただ捨て置かれた俺の絶望がおまえにわかるか!」
班目勲は死ぬまで自分のことを息子とは認めなかったと、班目は悔しそうに壁を殴りつけた。
この方も、愛されたかったのだわ。
それは千歳にも身に覚えのある痛みだった。
斎宮家で誰からも愛されず、誰にも必要とされなかった日々。
暗い物置の中で膝を抱え、自分という存在が消えてしまわないように必死に息をしていた夜。
私も願った。
『誰かに優しく抱きしめられたい』
『ここにいていいのだと、誰かに言ってほしい』
自分は鷹臣という唯一無二の光に救い上げられた。
だがこの男は、手を差し伸べてくれる誰にも出会えぬまま、凍てつく冬に取り残されてしまったのだ。
「俺から親父を、愛情を奪ったあいつを俺と同じ地獄に引きずり下ろさなきゃ、俺の人生は救われないんだよ!」
もし輿入れの日に、私も鷹臣様に拒否されていたら、彼と同じような歪んだ気持ちを持ってしまっただろうか?
千歳は班目の憎悪に燃えるその目の奥に、独り取り残されて泣きじゃくる子どものような孤独が透けて見えた気がした。
「あんたみたいにな、温かい飯を食い、羽毛の布団に包まれて大事に育てられたお嬢様には……俺の絶望なんて、これっぽっちも解りゃしないだろうが!」
班目は千歳の絹のような髪を乱暴に掴み上げると、その顔を強引に引き寄せた。
「俺はな、認知すらされず帝都の裏路地を這いつくばって生きてきたんだ。残飯を漁り、冬の夜は凍え死なないように泥水の溜まった溝で身を寄せ合って」
そんな惨めな暮らしなんて想像もつかないだろうと班目は千歳を睨む。
「……私は、物置で育ちました」
「あぁ?」
「妾の子ですので……。でも、雨風をしのぐ場所があって、家族の残り物とはいえ、毎日食べ物をいただけておりました」
百合子のように美しい服を纏い、家族に愛されて過ごすことができればどれほど幸せだろうかと、暗い物置の中で考えたことは何度もある。
だが、己の不幸に閉じこもっていた自分は、目の前の彼が味わってきた「地獄」の深さなど、想像すらしたことがなかった。
「あなたのような凄惨な苦労を、私は何も知りませんでした。……ごめんなさい」
「すまない」でも「申し訳ない」でもない、千歳のたどたどしくも心の底から紡がれた「ごめんなさい」。
その清廉な言葉の暴力に、班目は毒気を抜かれたように言葉を失った。
「……あんた、あの女と全然違うんだな」
班目の手が、呆然としたまま千歳の髪から離れていく。
「あんたの妹は俺に縋ったよ。あんたを不幸にしてくれるなら、なんだってするってな」
班目は吐き捨てるように言葉を続けた。
「あんたもあの女が憎かっただろう? 」
「……羨ましいとは思っていましたが、憎んではいません」
千歳は俯いたまま、静かに答える。
「私は呪われた娘なので、生きていけはいけないと言われながら育ちましたから」
薄暗い洞窟の湿った空気に千歳の震える声が染み込んでいく。
「でも鷹臣様が居場所をくださったんです。生きていて良いと、こんな私でも役に立つと言ってくださったんです」
千歳は顔を上げ、班目の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「班目様。あなたのお父様の仇は、鷹臣様ではなく、あやかしではないのでしょうか?」
「……っ!」
千歳のあまりに真っ当な正論に、班目の顔に剥き出しの狼狽が走る。
「だから、鷹臣様を憎むのではなく……」
「黙れ!」
班目の叫びが洞窟の壁に反響した瞬間、洞窟の入り口から軍靴の規則正しい足音が響き渡る。
「千歳を返せ」
地を這うような低温の怒声に、千歳は弾かれたように顔を向けた。
コメント
1件
ああ、第15話、すごく良かったです。 何より印象的だったのは千歳の「ごめんなさい」の場面ですね。班目の壮絶な過去に、自分の境遇を引き合いに出して同情するのでもなく、ただ「知らなかった」と謝る。あの清廉さが逆に班目の毒気を抜いてしまう、静かな暴力になっているのが見事でした。 それと鷹臣が「不甲斐ない夫だ」と呟くシーン。あの水仙の花を懐にしまう描写が、千歳への想いと焦燥を如実に伝えていて、グッと来ました。 班目の歪みのルーツも丁寧に描かれていて、「愛されたかっただけの子ども」が見えるからこそ、単純な悪役に見えない奥行きがありますね。次の展開が気になる…!