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リフェアリー
128
三年後。
土師要は、中山道を、歩いていた。
春だった。山の斜面に、桃の花が咲いていた。道は、五年前と同じだった。砂利と、土と、空き家。
でも、空き家は、減っていた。
宿場町ごとに、小屋があった。丸太と、トタン屋根。中に、机と、椅子と、三冊のノート。壁に、板。掟。相場。
掟は、小屋ごとに、違った。五条の小屋。十条の小屋。十三条の小屋。相場も、小屋ごとに、違った。米の値段。塩の値段。薪の値段。山の上では、米が高く、薪が安かった。谷の底では、米が安く、薪が高かった。
要は、一つの小屋の前で、立ち止まった。
板に、字が書いてあった。
『三人で見ろ。三冊に書け。顔を覚えろ。川を忘れるな。同じ形にするな』
五条。十二条でも、十三条でもなかった。この宿場町の人が、この宿場町に合わせて、書いた掟。
要の名前は、どこにもなかった。
小屋の中から、若い女が、出てきた。二十代。要を見て、首を傾げた。
「どちらから」
「東京から」
「どちらへ」
「木曽へ」
女は、要の顔を、じっと見た。それから、三冊のノートを開いた。めくった。
「……初めての方ですね。台帳に、顔がない」
「初めてです」
「じゃあ、割符を、作りましょうか。次に通るとき、速いですよ」
要は、少し、笑った。
「お願いします」
女は、枝を一本、拾った。縦に、割った。片方を、要に渡した。
「名前は」
「土師」
女は、三冊に、書いた。『土師。東京から木曽へ。眉に傷。割符、一』。
その名前を、女は知らなかった。知らなくて、よかった。
*
塩尻峠には、関所はなかった。白い旗も、黒い作業着も、なかった。
代わりに、市があった。峠の上の、広い場所。五年前、権田の百人が野営した場所。今は、露店が、三十。塩尻の薪。諏訪の魚。木曽の米。甲府の葡萄。
甲府の市は、二年前、戻っていた。会長は、亡くなっていた。でも、諏訪と木曽に預けた二冊を、若い者たちが取りに来て、甲府の市を、作り直していた。
要は、峠の市を、歩いた。
知っている顔は、なかった。五年で、人は、入れ替わっていた。でも、掟は、同じだった。三人で見る。三冊に書く。顔を覚える。
一つの露店で、要は、足を止めた。
酒を売っていた。塩尻の酒。売っているのは、五十代の男だった。黒い作業着ではなかった。でも、立ち方が、少し、権田に似ていた。
「……隊長さん」
男は、要を見た。長い間、見ていた。
「……三冊の、兄ちゃんか」
「はい」
「老けたな」
「隊長さんも」
男は、笑った。薪を割った、太い手で。
「もう、隊長じゃない。塩尻の、酒屋だ。市の台帳に、丸が、二百ある」
「権田さんは」
「二年前に、亡くなった。東京で。最後まで、右目で、商店街の銀行の窓を、見てたそうだ」
要は、何も言わなかった。
男は、酒を一本、要に渡した。
「持っていけ。木曽に。妹さんに」
「証は」
「要らん。あんたには、五年前、薪を割らせてもらった。その利子だ」
*
木曽の峠に、小屋があった。
五年前、要が、大畑の家の納屋の二階で書き始めた帳面は、今、峠の小屋の棚に、二十一冊。七年分。三人の字。そのうちの一人は、もう、要ではなかった。
壁の板に、十二条の掟が、残っていた。四人の長の印。紙は、茶色くなっていた。
その横に、新しい板が、一枚。孫の字で。
『十三、同じ形にするな。各地で、各地の人が、各地の形で、作れ』
小屋の中に、ひかりがいた。
二十四歳になっていた。髪を、短く切っていた。机の上に、三冊の台帳。水車の図面。五つ目の水車の。
ひかりは、要を見た。長い間、見ていた。
「……遅い」
「遅いな」
「三年だよ」
「三年だ」
ひかりは、立ち上がった。要の前に来た。それから、要の胸を、拳で、一度、叩いた。
「お帰り」
「ただいま」
つむぎが、後ろに立っていた。一緒に、歩いてきた。
ひかりは、つむぎを見た。
「……つむぎさんも、お帰り」
「ただいま」つむぎは言った。「ひかりちゃん、顔が、変わった」
「どう変わった」
「貸す人の顔」
ひかりは、笑った。
*
夜、要は、峠の小屋の外に、座っていた。
谷の下で、水車が、回っていた。五つ。川沿いに、灯りが、点々と。
要は、懐から、ノートを出した。ロードマップ。〇から十三。
十四段目は、書かなかった。書くのは、要じゃない。
代わりに、表紙の裏に、一行だけ、書いた。
一ノ瀬に、頼まれていた名前。三年、考えていた名前。
『真正の国。真正な情報がなくても、回る国』
要は、ノートを閉じた。
水車の音が、谷に響いていた。誰も見ていなくても。
(完)
コメント
1件
第80話「真正の国」(完)、読了しました。三年ぶりの再会の「遅い」と「お帰り」に、言葉にできない思いが詰まっていてじんわりきました。小屋の掟が各地で刻まれ、人が代わっても回り続ける仕組み。そして最後にノートに書かれた『真正の国』の定義――水車の音が誰も見ていなくても響く、その静かな強さがとても好きです。素敵な最終話でした🌷