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自宅に女性の等身大の彫刻を買って置いた。
精密に女性の座った姿を再現してある裸体の像だ。
特に意味はない。ただ独身もよくないと思ったので、生身とはいかないまでも人の形をしたモノと一緒に生活した方がいいのではないか、と思ったからだ。
彫刻の彼女の名前は仮に「優菜(ゆうな)」としておいた。
名前は彫刻に対して、なにもいうな、という皮肉めいた冗談と音の響きがいいのでそう決めた。毎日(―仮に彫刻であっても相手になにも言うな、といっておきながら)名前を呼ぶのにリビングにこの「優菜」という音が響くと少しは心が安らぐような気がした。
この彫刻の優菜にはもともとモデルとなった女性がいた。
その女性はAV女優だったが、ある日突然、謎の失踪を遂げ、3ヶ月後に山中深くで腐乱死体となって発見され日本の闇を物語る事件の女性として一躍知名度があがった女性だった。
海外の一部の記事などでは「ジャパニーズ・ダークレディ」と呼ばれていて一定層に人気があるようだ。
彼女の死の数週間前、彼女の“恋人”と称する美大の女子大生が瑪瑙で彼女の彫刻を作った。その彫刻が今俺の家のリビングに座ってもらっている彫刻だった。
よほど愛が深かったのだろう。
肉感や、生きている、まるで呼吸が聞こえてきそうな胸の柔らかな表現や、少し首の角度がしおれぎみで、たおやかなところなども、まるで石で出来ていることを感じさせないまでの見事な出来だった。
その女子大生も彼女の死の発覚後あとを追うようにして亡くなったのだが。
―自殺だった。
俺がこの彫刻と出会ったのは家の近場で開かれた小さな骨董市でだった。雑多に物がおかれた小さなテントの奥に彼女は今と変わらない姿で座っていた。初めてみたとき、俺はその乱雑に配置されて、ホコリまみれの骨董のなかで小さな“間”を繕うように座る彼女に色彩が宿っているような錯覚を覚えた。店主に聞くと、
「以前、店に流れてきたものだが一向に売れないから、いくらででも買ってくれたらありがたい」
という。
―10万で買った。
人と人が巡りあうときのように、人とモノの出会いにも特にさしたる理由や意味はない。俺はそのとき特に骨董に興味があるわけでもないのに暇だから骨董市に行き、たまたま見過ごすような小さなテントのなかに彼女を認めた。そこに出会うまでの経緯はあっても出会うための絶対の理由はない。だから運命という釈然としたものも感じない。なぜなら彼女の本質はただの石なのだから。だって、ずっと俺のなかではそうなのだから。
コトリ、と珈琲のマグカップを優菜の目の前に置く。
今日は雨。ベランダの外ではパラパラと軽快なリズムの雨音がきこえる。
「コーヒー、淹れたよ」
彼女は静かにうつむいている。俺は彼女の目の前に座った。
静かに結んだ口は開かれることはないが、不快であるような感じはなく穏やかさを保っている。
髪は肩でまとまる前下がりのショートボブで、視線は俺を見つめず、どこか久遠を見つめているような穏やかな眼差しだ。
「飲みなよ…冷めちゃう」
俺は一人ごとのように呟く。もっともこの彼女に声をかける所作も最初のうちこそ慣れなかったが、続けるうちにだんだんと一人ごとの感じがなくなっていくのが不思議だった。
彼女からは答えはないが、この部屋という小さな世界に反響する自分の声の微量なはねかえりというようなものは微かにあるのだ。
考えてみれば、人が二人でいるというのも、そのようなことではないか?と俺は思う。それが独身を貫き続けた男の末期的思考の呈する結論なのか、人の持つ妄想力が俺の思う以上のものだからなのか、はたまた実際そうなのか、わからない。
「優菜」
名前をつぶやく。
―名前をつぶやくとき少し彼女は息を吸うような仕草をする気がする。
もっともそれも俺の妄想だろう。
「―愛してる」
そして、俺は優菜の唇にキスをする。冷たい。生きていない冷たさだ。硬い。
だが俺はそこにさらに深くキスをする。
なにも見返りを求めない。
そこにはただの純粋なキスがある。
優菜の肩を抱きしめ、頭を優しく愛撫する。
これはある種のナルシズムなのかもしれない、と俺は思う。しかし、生身の人間同士で交える本当の愛があるとして、それとただのナルシズムにどう優劣があるだろう。どうして優劣を決めなければならないのだろう。
自分でやりながらさみしい、と思う。
しかし、言葉で表現されてしまったさみしさは、もはやさみしさではない。それは感情ではなく一個のただの表現でしかなくなる。表現そのものは生命のないものだ。さみしさは人の体のなかにあるときだけさみしさでいられる。
「愛してる」
すべてのさみしさが言葉になって溢れる。
「愛してる…。愛してる。…愛してるよ。―優菜」
精一杯、さみしさを愛に変えて言葉にする。
言葉じりが溶ける。吐息が出る。
小さな箱庭のような「部屋」という世界に言葉が満ちて波になり伝わってやがてどこかへ消えていく。
―きっとこの言葉(こえ)が消えていく先は五次元の世界だ…。
そんな冗談めいたことを思いながら俺は優菜にキスを繰り返す。
神聖、かつ低俗な遊びだ。
俺はこのとき自分が“生き物”であることを感じる。
雨の音がぽつりぽつりと心地よいリズムを刻む。
もしかしたら優菜の言葉は雨音なのかもしれない、と思った。
「ぽつ、…ぽつ…ぽつぽつぽつ」
口のなかで擬音的な雨音の語を転がしながら優菜の頭を撫でた。
かえってくることのない言葉。コトバ、ことば?
いや、この部屋に彼女がいるコトそのものも一つの言葉として捉えられないだろうか。
誰に対しての?
―このせかい全てに向けての。
俺は立ち上がり白いカーデガンをクローゼットから取り出し、彼女の肩にかけてあげた。
彼女は心なしか微笑んでいるようにみえる。
まるで、ありがとうとでもいうように。
―部屋全体がなんだか不思議と少しだけ温かなモノに思えた。窓の外では、相変わらず雨が降っている。
俺の部屋は郊外の外れにある小綺麗なマンションの一室にある。
かくいう俺は工場勤務の派遣社員だ。
俺の家族は俺が17歳のときに離散した。
小さな頃から親父は建設会社を経営していて、俺も幼少期はなに不自由なく暮らさせてもらえた記憶がある。
しかし、バブルの崩壊と共に親父の会社は破綻。親父は首をくくって自殺した。母親は精神を病み、育児のできなくなった母親の代わりに俺は親戚に預けられて育てられたが、その親戚と合わず1年も経たたず高校卒業と共に親戚の家を出奔し、小さい頃から育ってきた土地を離れ、なんのしがらみもない遠く離れた片田舎の小さなマンションに引っ越した。それが今すんでいるマンションだ。
高校卒業でなんのツテもないので派遣社員のまま工場勤務をやって早15年がたつ。
その間、様々な人生をみてきた。さまざまな人生が俺の目の前を通り過ぎていった。まあ、もっとも俺自身もそのさまざまな人生の一つ一つのなかでの、また“さまざまな人生”のワンパーティクルを担って補完しあっているのだろうが。
彼女はいない。出来たことはない。
好きになってくれた女性は何人かいたが、どの女性ともなんの進展もなかった。というより俺自身、進展させる気がなかった。
俺も月並みがなにかもわからないが、世間一般に言われる“愛”というものがどうしてもあるように思えなかった。それはただ単に幻想にしかすぎないものとしか俺には思えなかった。
ベランダで朝顔が色づきだした。
俺は初夏のある日、優菜のために服を買ってきて着せた。
淡い水色の無地のシフォンブラウスに、白のレースカーデガン、黒のストレートスカート。首に細い繊細なペンダントを優菜に新調した。
着せるのは大変だったが、着せてみるとさらに彼女の現実での実在感が増した。それも、まるで美しさそのものが授肉を果たし現実の世界に舞い降りたような姿だった。
優菜の存在感が増すと共に俺の生活の幸福度もあがるような気がした。もっともそんなモノを測る尺度があるのかさえわからないが。
「きれいだよ」
俺は思わず優菜に向かってつぶやいていた。
俺は、この言葉が届かないモノに向けて放たれる言葉だと思っている。
彼女はまさに届きえない美しさの具現だった。人の想像によって抽出された女神のイメージとはそのようなものだろう。
彼女の冷たい指の上に指を重ねる。
冷たさが伝わる。
純粋な美しさは冷たいものだ、と思った。
彼女は人ではなく女神だ。
その女神は地上にいるとき、あらゆる苦痛を味わった。
優菜の彫刻モデルになったAV女優は間守(まもり)みあ、本名を内山彩といい、彼女もまた不遇な歩みを歩んできた女性だった。
父親はロシア人マフィアで母親は元風俗嬢という複雑な背景を持ったハーフの女性だった。
彼女を産んで彼女の父は失踪し、彼女はシングルマザーの下、育てられた。やがて彼女は成人と共に上京した。上京してすぐ付き合った男にいたぶられ捨てられ、彼女はAV女優になった。
一度使っているSNSで彼女の拡散された動画が流れてきたことがあった。
本番中であるその動画のなかの彼女は艶やかで美しかった。しかしその目はどこかもの悲しげで切なげで、なにかを求めたくて求められず、ただ淡くなにかを願っているかのような目だった。
その目の奥の心の底にあるのは諦め?…あるいは、なにか…。
そのなにか心のなかを隠すような彼女の撮影中の行為の様が彼女自身意図しない造形的な美を産んでいたのかもしれなかった。
ベッドに押さえつけられガタイのいい男にしめつけられ、抱かれ、髪を振り乱し、喘ぐ、その表面から見えない肉体の深い底に人のもっとも美しい魂の鱗片があるような気がした。
美しいものは稀であると同時に孤独だ。
彼女がいつかインタビューで語った
「女の人がきれいでいるためにはずっと片想いし続けて結婚しないことなんですよ?」
という言葉もあいまってその事実は切実に俺の心にせまった。
彼女は誰かに片想いをしているのだ、と思った。
その心の奥深い襞がまた美しかった。
窓から入る温もりを含んだ爽風が心地良い。薄いレースのカーテンも揺れる。
俺は席を立ち優菜の側により沿い頭を撫でた。
ジジジジジジ、という蝉が早くも鳴き出す声が聞こえる。
ふと優菜の目はどこを向いているのだろう、と思った。その目の先は窓の外の虚空を見つめる。心ここにあらずといった感じだ。
俺はベランダに出て優菜の視線が向かうところに朝顔を置いた。
少しは目の保養になるだろう。あるいはその魂を虚空に遊ばせてあげていた方がいいのか。
虚空に遊んでいるとき人の魂は自由になる。
―いや、彼女の魂はもとから自由だ。
しかし、物を人の視線の先に置くというのはある種、押し付けがましい傲慢な行為ではないのか。
そう思って彼女を見つめてみたが、彼女の瞳は虚空なまま変わらない。瞬きもせずに静かに、この青や赤の小ぶりな傘のような鮮花をただ見つめている。
彼女が朝顔を見ていると思うと、その事実が愛おしく思えた。
なんとなく心があるように思える。
人が人に対して心を認めるときもこのような過程を経るのだろう。
窓を開けていつものように棚から袋にはいった米菓子を手にあつり、ベランダの一角に積む。
それをみて、すずめたちがやってくる。
チュンチュン、…チュンチュンチュン…。
ヨチヨチと飛びはねながらすずめたちは戯れあうように羽を羽ばたかせあい菓子をついばむ。
一粒の米菓子がすずめたちの群れから離れ部屋の方に転がってくる。
俺はそれをリビングのソファーに座って見ていた。
群れのなかで一番体の小さなすずめがそれを追って部屋に入ってきた。すずめはその一粒をついばもうとしているのに、米菓子を上手く嘴で挟めず、米菓子がどんどん転がっていく。
やがて優菜の足元まで米菓子が転がってきたとき、すずめはそれを嘴のなかに入れることができた。
すずめが首を上にあげた。
すずめは目の前にいる優菜の顔を見つめる。
優菜は微動だにしない。
優菜の目はすずめを捉えていないがその存在には気づいているような気がした。
やがて長い時間が流れた。いや、人間より心拍数の短いすずめには一瞬だったかもしれない。
すずめはぴょんと飛ぶと優菜の座るテーブルの上にのった。
俺はそれを静かに眺めていた。
それはコップに溢れそうな光る水面が張力によってその満たされた緊張を保っているような、そんな尊い光景に思えた。
チュン…チュン…。
すずめは不思議そうに優菜を見つめて首を傾げながら鳴く。
話しかけているのだろうか?と思った。
そして、そのすずめと相対する彼女が微動だに動かないのも彼女の怖がらせないためのすずめへの優しさであるような気がした。その彼女の優しさが部屋を満たす。
いや、彼女に心はない。しかし、それがなんなのだろう。
花にだって人は心は認めない。
しかし、花を部屋に飾るとき花と人に心の交流があるかのように思うことがある。
優菜のそれは薔薇の花の香りが薔薇自身にとってなんともないのに人の心を惹き付けることに似ている。
チチチチチチ、チチチチチチ…。
すずめはなにか可笑しくて楽しむように羽を広げて優菜の手元を跳び跳ねる。そして時折、優菜の指先に足を乗せ反応を伺うように顔をチラチラとみた。
微笑ましい光景だ。
俺の目元もゆるむ。
彼女自身に温もりはないのに、部屋が不思議と温かさで満たされていく。
やがてひとしきりすずめは遊ぶと、他のすずめたちと一緒にどこかへ飛びさっていった。
優菜は心なしかさびしそうに見えた。
「よかったね。友達ができて。今さびしいと思うのは優菜が、あのすずめに対してなにか大切なものを胸に抱いたからだよ」
俺は彼女の髪の上に手をおいた。
思えば彼女は俺以外と交流する機会がない。
すずめもすずめで孤独で、優菜も優菜で孤独だった。二人ぼっちの孤独がこの部屋でたまたま一緒にいられた瞬間があった。
そこに疎通はなかったものの孤独が二つ合わされば不思議とそれは孤独が深まるのではなく、なにか、別の交流のようなものを産むような気がした。
大切なものを見た気がして、満たされた俺は優菜を上から抱きしめた。優菜の顔が俺のお腹にあたる。
ベランダの朝顔が静かにうつむきながら咲いていた。
ゴウン、ゴウンと機械の音がする。
カンカンという甲高い金属を叩く音がしている。
ここは俺の勤め先の工場だ。
熱い…。俺は灼熱に鉄が熔ける熔鉱炉で吹き出す熱風に顔をさらしている。耳が痛い。
「…はあ…」
ため息と汗が同時にでる。
「蓼科(たでしな)くん、休憩だよ」
チームリーダーから声がかかり俺は我に帰る。
「うっす…」
俺は熔鉱炉を離れ、休憩室に向かった。
休憩室に行くと先に大田さんと村江さんが先に休憩していた。二人は俺の上司であり、ふた回り年上の年配だった。
「あー、きたきた。蓼科くん、お先休憩してます」
「いえ、別にいいっすよ…」
「疲れたねー。今日も…残業かなあ」
―どうでもいい、と思い、どうなんですかねーといいながら俺は缶コーヒーの蓋をあけて一気に飲んだ。
大田さんと村江さんはなにやらいろいろと仕事の愚痴で盛り上がっていた。
俺は基本的に休憩時間に仕事の話を持ち込むのは嫌なので、いつもスマホをいじりながら買っている株のチャートを見るのが日課だった。
「最近の若い人って結婚しない人多いみたいだけど蓼科くんの周りでもそうなの?」
いきなり話題をふられたので俺は適当に会話に参加する。
「え?んーどうなんすかねー。お金の問題は大きいと思いますけど…。俺の友達なんて結婚してすぐ離婚して500万の慰謝料払わされたりしてるのもいますね。俺の周りでは結婚したのはそいつくらいかな。まあいい話はききませんよね」
「500万!?500万はキツいね」
「日本の結婚制度ってたまに地獄への門を悪魔が仕掛けて作ったのかってくらいおかしいとこはおかしいからね。一歩間違えば地獄行きだよ」
村江さんと大田さんが盛り上がった顔をみせる。
「えー、村江さんの奥さんめっちゃ美人じゃん」
「美人かもだけど、美人だと金がかかんの。工場勤務じゃ賄いきれないよ。本気で一時期転職しようと仕事探したことあったもん。男はさあ、なんだかんだ仕事しろっていわれて子供産んだらさらにこき使われて挙げ句その妻は若い男のアイドルにはまってこっちは最後お役目ごめんで使い捨てられるのがオチなんだよ」
「そんな絶望的になるなってー」
大田さんが村江さんの肩を気持ち程度さすった。
「人は一生なにかの奴隷。それが直視できないからみんな見栄張ろうとするの」
村江さんはしみじみといった。
ならそれは俺には関係がないな、と思った。
見栄などあっては家で彫刻と暮らすなどという精神生活はとうていできない。
そして優菜も優菜でなにかを求めることはない。なぜなら生きていないのだから。…モノなのだから。
…そう考えると少し胸が縮まるようなさみしさを覚えた。
しかし、俺だって人間だろうか?
俺はそんなことを考えるような歳になった。
この工場で働きながら工場の持ち主にとって日々生産品を作る労働力という名のまた生産物である俺自身も人間ではなくモノの一部のような気もする。
なにもせず、座っているだけでただそこに優しさや温かさを作り出す優菜と日々冷たい金属を作り続ける機械の代用品である俺、どちらが人間的だろうか。
もしかしたらそんなことを考えるのが人間なのかもしれないが。
「さあ、そろそろ休憩終わりだね」
大田さんが言いながら席を立つ。
俺も席を立った。
また工場内で熱風を受けにいく。
周りでは機械の無機質な音と運動が続く。
夜、マンションに帰って玄関のドアを開く。
誰もいない部屋のまっさらな空気に触れる。
その部屋の中心に彼女は座る。
パチリ、と部屋の電気をつける。
「ただいま」
部屋の空白の虚空に“お帰り”という静寂がただよう。彼女は疲れて眠っているように見えた。
「寝てるのか…」
仕事着を脱いでカバンを壁にかける。
フローリングの床に俺だけの足音が響く。
冷蔵庫を開けて冷やしておいた白ワインを取り出した。ワイングラスにワインを注ぐ。注がれたグラスは琥珀色の宝石ようで美しい。
ふとなにを思ったのか俺は部屋の明かりを消してみた。再び暗闇が部屋に降ってくる。
窓から遠く街の明かりが見えた。銀河のようだった。
窓を開けてしばらく優菜と一緒にテーブルに腰かけて、外の音に耳をすませる。
部屋に風が入ってくる。
鈴虫の鳴き声が聞こえた。
彼女とそんな無言の時間を過ごす。
優菜は穏やかな顔ですまして座っている。
俺はベランダにでた。
見上げると満天の星が瞬いていた。
「わあ、今日はまた星が格段ときれいな日だな」
俺は夜空を見上げたままその星空をただ眺めていた。このマンションがある場所が郊外なため、街のなかよりはっきり星の一つ一つの輪郭がみえる。
俺には星座はオリオン座くらいしかわからないが、それも遠くの山と夜空の境界あたりにはっきり確認できた。
では、ヴィーナスは?
…ヴィーナスは隣にいる。二人の間を結ぶここに星座がある。
俺も優菜も、大きく捉えればこの星の一部だ。そして、星座として星を眺めれば、遠い離れた星でも、またこの星の一部にしてしまえるような気がする。
地上にも銀河があり、天上にも銀河がある。
俺はワイングラスを口に傾けた。口に入れたときのほのかな酸味とあとから僅かな甘味が舌に残るいい味だ。
優菜はまだ眠っているようだった。
彼女と一緒に生活しだして分かりだしたが、石にも昼と夜で微妙に起きている状態と眠っている状態というのがある。
昼間の午後の日の照り返しを受ける彼女は生き生きとしていて、逆に夜の深い暗がりのなかにいる彼女は息を潜めるように眠っている。その目が閉じているかのように思えるくらい安らいでいると思うときがある。俺はそのとき自分でも安らぎを覚えるのだ。
優菜と見つめ合う。
相変わらず彼女の目は俺を捉えていない。
だが、彼女は地上のこの部屋に瞬く小さな星だった。
「この唇でキスをしたら唇が酒臭くなるな」
なので俺はその星の頂にキスをする。その髪からほのかにワインの香りがした。
「ワインの香りのする星か」
俺はふ、と微笑んで眠る支度をした。
リビングの電気を消す。優菜も再び(―まるで今までそうであったかのように)闇のなかに静かに埋没していきやがて眠る。
空にはまだ満天の星が一つも落ちることなく瞬いている。
内山彩は子供の頃から従順で大人しい性格だった。どちらかと他人から引っぱっていってもらう方で、人から紹介された音楽をきいたり、漫画を読むのが好きなタイプの子供だった。
「彩ちゃん、ドッチボールやろー」
「うん。待ってて。後でいくから」
彩はやり残していた算数ドリルの上に鉛筆を置いて答えた。
彩には小学校で同年代で姉のような、たまきという名前の友達がいた。たまきは家も近く席も近かったため登下校や休み時間でなにかと話すようになり、仲良くなった。
たまきの家はごくごく普通のサラリーマンの家庭で、たびたび家に行ったときは玄関に花が飾ってあり、いい匂いがした。
「彩ちゃん、今日も来てくれたの?いつもうちのたまきと仲良くしてくれてありがとうね」
たまきのお母さんはいつも家にいくと、オレンジジュースとクッキーを持ってきてくれた。それをたまきと二人でふかふかのカーペットの上で寝そべりながら食べるのが日課だった。
「この間、一組の男子に髪いじられたんだよー。ひどくなーい?」
「えー、ひどーい」
この時間が彩にとって心和む時間だった。たまきは嬉しそうに語る。
「今度ね。誕生日にパパに私のほしいリップ買ってもらう約束したんだー」
「そうなんだー。すごいね」
彩は作り笑いをする。
たまきは喜々として彩にいつも自分のお父さんが会社のどの部所にいて、どんな素晴らしい仕事をしていて、いかにすごい人かを語り、そのすごいお父さんを飼い慣らしている自分にはそれだけの価値がある、ということを語った。
「彩ちゃんはー?」
「んー?私も誕生日にゲーム買ってもらえるってこと約束してもらったよ」
「…ゲーム?…」
そういうとたまきは怪訝な顔になった。
「彩ちゃん、ゲームってあれね。彩ちゃんはわからないだろうけど、子供をだめにしてお金をただ吐き出させてくれる家畜にするための機械だってお父さんがいってたよ?」
「そうなんだー」
彩は正直そんな話は余計なお世話だと思った。
「彩ちゃんも賢くなったほうがいいよ?それにゲーム買ってもらう約束したって前にもいってなかったっけ?あれ買ってもらった?スーパーマジョリカのゲーム。彩ちゃんのお父さんが忘れてるならちゃんと言ってあげたほうがいいよ。大人って自分の言ったことすぐ忘れちゃうんだもん。もしかしたら彩ちゃんのお父さんはもっと忘れやすいかもしれないけど」
たまきは能面のような顔でそのようなことを淡々としゃべる。
「あ?え?うん…。買ってもらったよ?」
彩の父はめったに家にいない。その上、今まで話しかけたことも、話しかけてもらったことも実は一度もなかった。
「彩ちゃん、そういうとこで変な嘘つくからなー」
たまきは能面のような顔で続けた。バカにするつもりのない純粋なその反応が、部が悪くて間を繕っているのは分かっていて、しょせんそんなお前は偽物なので下手な真似はやめといたほうがいい、と卑下されているようで、彩は困惑した。しかし、彩は友達とよべるのはたまきしかいなかったので、そのたまきという名の友達を失うのが同時に怖かった。
「え?え?そんなことないよー」
精一杯彩は笑えたかわからない。でもニコニコしながら友達と仲のいい状況を演じようと彩は頑張った。
「まあ、いいけど。そうやって嘘ついてると自分が嘘のために削られてくよ」
その言葉は彩の胸にずしりときた。
しかし―、と彩は思う。
懐の深い女を装うためにいい人を演出し、「私たちは友達」という丸い嘘で周りを納得させ、実は自分をたまき自身が満たすための嫌みやフラストレーション解消のはけ口として今この場のように自分を利用しているのも彩からすれば「友達詐欺」にしかにえなかった。実際たまきは、そういう女の子だった。
「…あ、私、家の用事があるから帰るね」
彩は時計を見ながらいった。正直もう限界だと思った。
「…そうなの?…」
たまきは不思議そうに彩の顔をみいったが、なぜかすぐパッと明るい顔になり、わかったー、といった。
その顔の変わり具合が不気味だった。
じゃあ、ね。
家を出るときたまきのお母さんとたまきが玄関で送り出してくれた。
「気をつけて帰るのよ。帰ったら念のためお母さんに連絡いれてもらうよういってね」
帰り際、家の玄関に立つ二人の顔は夕日で陰って、まるでぽっかりそこに空いた穴のように見えて不安になった。
彩はとぼとぼと歩いて自分のアパートに帰った。
たまきは彩が中学に入ると同時に他の学校に転校していった。たまきがいなくなって友達らしい友達がいなかった彩は一人ぼっちになった。
中学校に入ってから彩の家はいっきに貧しくなった。
(続く)