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講義が終わる少し前、隣の学生がふと呟いた。
「……あれ、陽翔って、あいつじゃない?」
その音は、まるでガラスに走る亀裂のようだった。
手にしていたノートの端を、無意識にぎゅっと握っていた。
黒板の文字が歪んで見えるのは、視界の奥が揺れていたからだ。
隣の学生は、誰にともなく続ける。
「高校のとき、やばいやつがいたんだよ、陽翔って。めっちゃ頭よくて、顔も良くて……でも、裏で何やってるか分かんないって噂だった。大学来てるって聞いたけど……」
「……」
悠翔の指先から、少しずつ温度が抜けていく。
違う人かもしれない。
同じ名前の別人、そう思い込もうとする心と、すでに凍りついた内側が、真逆の反応を起こしていた。
――名前を聞いただけで、呼吸が浅くなる。
講義が終わる頃には、手のひらに汗が滲んでいた。
椅子の背に凭れようとしても、背中がひどく冷たかった。
外は小雨だった。
ビルのガラスに映った自分の顔が、別人のように思えた。
帰り道、足取りは自然と遠回りを選んでいた。
学生で賑わう道を避け、裏手の細い坂を上る。
濡れた葉の匂い、どこかから響くピアノの音――そのすべてが、無関係なはずの風景の中に、“過去”を運んでくる。
「見間違いだ」
「名前だけだ」
そう言い聞かせても、胸の奥には、かすかに違う感情が湧いていた。
――もし、また会ったらどうする?
その問いが、初めて輪郭を持って心に浮かんだ。
答えは、まだない。
ただ、胸の奥で何かがひりついた。