テラーノベル
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文化祭の準備が本格化して、毎日が徐々に慌ただしくなってきた。窓の外では、紅葉の葉がゆっくりと色づき始めていて、秋が深まっていくのを感じさせる。
班で集まる放課後、俺と氷室は自然に作業を分担して、いつの間にか息の合った動きを見せるようになった。少なくとも、俺はそう思っていた。気づけば隣にいる時間が増えていて——それが本当に“距離が縮まった”証拠なのかどうか、自信はなかったけれど、そう信じたかった。
けれど、ある日。教室に向かう扉の前で、氷室が他のクラスの男子と肩を並べ、楽しげに笑っている姿を見かけた。
無防備に笑う氷室。俺の知っている“完璧で近寄りがたい氷室”とはまるで別人みたいで、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「氷室って、あんな顔もするんだ……」
思わず漏れた独り言に、近くの生徒が軽い調子で答えた。
「前の中学からの友達だろ? 氷室、アイツにはよく喋るんだよ」
氷室は外部受験でこの学園に来た。なので俺の知らない“過去の顔”が、確かに存在している。そう考えると、胸に冷たい風が吹き抜けた気がした。
(……じゃあ、俺に見せてくれたほほ笑みは、特別なんかじゃなかったのかもしれない。勝手に舞いあがって、バカみたいじゃないか――)
そんな思いが頭を掠めたせいで、放課後の作業中も言葉がうまく出てこなかった。
「葉月、それ……見ている資料が上下が逆になってる」
「……あ、ごめん。すぐに直す」
氷室の冷静な指摘に、ただ素直に謝ることしかできない自分が悔しかった。
活動が終わりかけたとき、氷室がふいに俺を見た。
「葉月、どうした。今日は……なんだか元気がなかったな」
短い言葉だったけれど、その声音は確かに俺の心を射抜いた。氷室に見抜かれている、うまくごまかせない。そう思った瞬間、心臓が乱れて、答えを探しても二の句を継げることができなかった。
「だっ……大丈夫」
やっと絞り出したそのひと言は、自分でも頼りなく聞こえた。笑ってごまかすことしかできなかった。
けれど氷室は目を逸らさずに、じっと俺を見つめた。その視線は強すぎて、心の奥の奥まで届いてしまうみたいで。
(——本当は、ちゃんと伝えたいのに)
近づきたいのに、理由すら言えない。指先なら触れられる距離にいるのに、実際は心だけが遠くに置き去りにされている。
それが、一番苦しかった。
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