テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
氷室とうまく喋れない日が数日続いた。どうしたらこの微妙な距離が縮まるだろうかと、頭を悩ませていた昼休み、突然窓の外で雨音が響いた。
つい先ほどまで秋晴れの陽光が差しこんでいたのに、今は鉛色の雲が空を覆いつくして、大きな雨粒がグラウンドを容赦なく濡らしていく。校庭でサッカーをしていた生徒たちが、騒ぎながら校舎に駆け込んでいくのが見えた。
(……予報じゃ晴れだったのに)
当然、傘なんて持ってきていない。午後の授業のあいだに止んでくれ、と心の中で祈ったけれど——その願いは届かなかった。
放課後。灰色の空からは大粒の雨がまだ降り続いていて、俺は渡り廊下の屋根の下で足止めを食らっていた。
冷たい雨の匂いと湿った風が肌にまとわりつく。秋の夕暮れはもう十分に寒くて、薄着の制服では心許ない。
(まさか、またこんな形で空を見上げることになるなんて……)
ガックリと肩を落とした俺の視界の端で、足音が止まった。
「……葉月。やっぱり傘、持ってないんだな」
かけられた声に振り返ると、そこには氷室がいた。片手に紺色の折りたたみ傘、もう片方の手を俺の前に差し出して。
「入れ」
「え……?」
呆けた俺に、氷室は眉を潜めてため息をついた。
「このままだと風邪ひくぞ。早く」
その一言に背中を押されて、俺は慌てて傘の中へ滑り込む。肩と肩が触れそうで、息が詰まった。
歩幅を合わせてくれているのか、氷室の歩調はいつもよりゆっくりだった。なのに俺の胸の鼓動は速すぎて、雨音に隠れてほしいと願う。
「氷室さ……なんで、こんなに優しくしてくれるんだよ」
小さく零した言葉は、雨に飲まれて消えてしまった。氷室に届いたのかもわからない。届かなかったと思うと、胸がちくりと痛んだ。
家の近くの角で、氷室が立ち止まる。
「ここでいいか」
「……うん。ありがとう」
差し出された紺色の傘を受け取ると、氷室は自分のバッグからもう一本の黒い傘を取り出し、迷いなく開いた。
「じゃあな。また明日」
その声は雨音に溶けて、静かに消えていった。
ひとりになった俺は、手に残された傘の持ち手を見つめる。そこに、小さな付箋が貼られていた。
『風邪ひくなよ 氷室』
少し歪んだ字が、どうしようもなく優しく見えた。
(……こんなところにまで気遣いを忍ばせるなんて。氷室ってば……いつからこんなものを準備してたんだよ)
胸の奥がじんわりと熱くなり、雨に濡れた空がほんの少しだけ明るく見えた。
俺は傘をぎゅっと握りしめる。氷室が残した声が、耳の奥で繰り返し響いていた。
「氷室……また明日」
雨音の向こうにまだ彼の気配が残っている気がして、心臓がきゅっと締めつけられる。明日になれば、また会える。そう思うだけで、胸の奥が苦しいほどに熱くなったのだった。