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鏡の中の私は、泣いていた。
また今日も、『お前みたいなのがカフェなんて無理だろ』と笑いながら言われた。
でも――今宵、私は決めた。
この関係を、丁寧に、美味しく、完全に“調理”して終わらせる。
「ご主人様ぁ!お帰りなさいませ!」
その瞬間、私の眉間に皺が寄った。ピンク色のドアがカランと軽やかに鳴って入ってきたのは、私のモラちゃん(もちろん、心の中でだけそう呼んでいる)こと、モラハラ彼氏の大杉幹雄。
相変わらず不機嫌そうな顔で、店内を見回しながら他の客を値踏みするように品定めしている。視線が私に引っかかった瞬間、わずかに口角が上がったけど、それは笑みじゃなくて、獲物を確認したみたいな歪んだ満足感だった。
「邪魔するぜ」
低い声で吐き捨てるように言って、一番奥の、照明が一番暗くて目立たないテーブルにどっかり腰を下ろす。
周りの可愛らしい装飾が、なんだか急に安っぽく見えてくる。赤いハート型のクッション、ピンクのくまちゃんがぶら下がった天井の飾り、壁に貼られたキラキラの星シール……。この店は、お客様が日々の重圧から一瞬でも解放される、甘くてふわふわした癒しの場のはずなのに。彼が入ってきた途端、空気が少し重くなった気がする。
「は……はぁ」
私は反射的に、いつものメイドスマイルを貼り付けて返事をする。声が少し震えたけど、きっと気づかれていないはず。気づかれていたら、またあとで「生意気な態度取ってんじゃねえよ」って小声で詰め寄られるから。
私の年齢じゃ、もうそろそろ「永遠の17歳メイド」なんて無理がある。正直、鏡を見るたびにため息が出る。でも、引退宣言なんてまだまだ早い。ここで貯めたお金で、いつか自分の小さなカフェを持つんだ。
朝からコーヒーの香りが漂って、常連さんがのんびり本を読んで、誰かが「今日も来ちゃったよ」って笑顔で入ってくるような、あたたかい場所。その夢のためなら、もうちょっとだけ、このメイド服の制服を着て、ご主人様たちに「おかえりなさいませ♡」って言い続けられる。
モラちゃんはメニューも見ずに、いつものブラックコーヒーを指差す。無糖で、苦いのが好きだって。私みたいに甘いものは苦手なんだろうな、なんて心の中で毒づきながら、「かしこまりました、ご主人様♡」と頭を下げて厨房へ向かう。
背中で感じる視線が、ねっとり絡みつくみたいで嫌だった。でも、今日も耐える。あと少し、あと少しだけ。このモラちゃんとの関係も、いつかちゃんと終わらせてやるんだから。
一杯1,500円もするインスタントコーヒーを、くまちゃんの顔と尻尾がついたコーヒーカップに注ぐ。カップの底に描かれたピンクのくまが、にこにこ笑ってるけど、私の気分は正反対。これから私は、一年三百六十五日、毎日二十四時間顔を突き合わせている夫に「ラブラブきゅんきゅん♡」の魔法をかけなければならない。
考えただけでもゾッとする。
モラちゃんだってイラっとするだろう。
いや、むしろ彼は「そんな店で働いてんじゃねえよ」って、いつもの調子で小言を垂れてくるに決まってる。
でも来るんだよ、毎日。
来て、座って、コーヒー飲んで、私を監視するみたいに眺めてる。愛情表現のつもりなのか、それともただの支配欲なのか、もうどっちでもいいけど、どっちにしても息苦しい。
「なら、店に来なけりゃいいのに」
心の中で何度も呟いた言葉を、今日もまた飲み込む。
コーヒーカップをトレーに乗せて、厨房から出る。同僚のメイドたちが、キャピキャピした声で寄ってくる。
「弥生さんの彼氏さん、今日もかっこいいですよね~♡」
「毎日お店に来るなんて、めっちゃ愛されてるぅ! 羨ましー!」
「えへへ、どんな感じで告白されたんですか? 教えて教えて~」
頬を突つかれながら、みんなのキラキラした目で見つめられる。私はただ、作り笑いを浮かべて「まぁね~」と曖昧に流すしかない。本当は、なんなら熨斗をつけて差し上げてもいいくらいだよ、このモラちゃんを。
「どうぞ、プレゼントです。24時間監視付きのモラハラ彼氏、よろしくお願いします♡」って。
そしたらみんな、きっと悲鳴を上げて逃げ出すだろうな。
でも、そんなこと言えない。
言ったら、きっとあとで家で「余計なこと喋ってんじゃねえ」って、静かに、でも確実に締め上げられるから。
トレーを両手で持ち直して、奥の暗いテーブルへ向かう。モラちゃんはスマホをいじりながら、ちらっと私を見上げる。その目が、いつものように「遅いぞ」って言ってるみたいで、胃がきゅっと縮む。でも私は、メイドモード全開で、「ご主人様、お待たせいたしました♡ ブラックコーヒーでございます~。今日は特別に、くまちゃんの魔法をかけちゃいましたよぉ♪」って、わざと甘ったるい声で言う。
カップをテーブルに置く瞬間、くまの尻尾が少し揺れて、なんだか自分が滑稽に思えてくる。彼はため息をついて、
「そんなこと言わなくていいから」
と低い声で返す。
本当はそれでいいのかもしれない。でも、店の中では「ラブラブきゅんきゅん♡」を演じなきゃいけない。
それが私の仕事で、
それが、私がまだここにいる理由の1つなんだから。
同僚たちの笑い声が遠くで響く中、私はまた厨房に戻る。背中で感じる視線が、今日も重い。でも、もう少し。資金が貯まるまで、もう少しだけ。
そしたら、このメイド服も、このくまちゃんカップも、このモラハラ結婚生活も、全部捨てて、自分のカフェで本物のコーヒーを淹れるんだ。甘くない、苦くない、ただあたたかいだけのコーヒーを。