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あの雪の日から3年、湊31歳の初夏。
蝉時雨が降り注ぐ。沈丁花が匂い立つ緑の庭に、鹿威しの音が響き渡った。曲がりくねった赤松が陰を作る表門には、白い提灯の蕾が垣根を成していた。
カコーン
「湊!湊、見て!」
「どうしたの、大きな声を出して」
菜月が、縁側の柱に息子を立たせ、鉛筆と定規を持って興奮している。
「ひゃ、101cmよ!」
「なに、3歳で101cmだと大興奮しちゃうの?」
「そうよ!平均身長は95cmから98cm!」
「ちょっとしか変わらないじゃない」
「きっと湊より大きくなるわ!」
菜月は、柱に書いた鉛筆の印に沿って小刀で線を付けた。
「あぁ、菜月、怪我しちゃうから」
「大丈夫よ!」
「ほら、危ないから」
湊が両腕を広げると、小さな足がトタトタと縁側を走って来た。その面持ちは色白で丸顔、けれど切長の目尻や鼻筋、唇の薄さは湊を感じさせた。
「おいで、秋斗」
湊は息子を高く抱き上げた。
「パパ」
「なに?」
「パパより僕、大きくなるんだ!」
「そうかぁ、すごいね!」
「大きくなって、ママと結婚するの!」
菜月は悪戯めいた笑顔で秋斗の頬に口付けた。
「どうしよう!秋斗にプロポーズされちゃった!」
「それは困るなぁ」
「ママは僕の!」
「ママはパパの!」
菜月は背伸びをして、湊に口付けた。
「僕も僕も!」
菜月と湊は、秋斗の柔らかな頬に口付けて微笑んだ。
カコーン
そして湊が32歳の誕生日を迎える秋。庭の向日葵が頭を垂れ、静かに次の夏を待っていた。灯台躑躅の垣根に吊るされた白い提灯はすべて枯れ落ち、地面に散らばる。アメリカ楓は鮮やかな黄色に色付き、秋風にそよぐ。
「あー、待て待てー!」
幾つものシャボン玉が、芝生の上を転げ回り、秋の陽光にきらめく。ストローを持った秋斗が、それを追いかけながら、声を上げて無邪気に笑っている。軒先のハンギングチェアに座った湊は、痩せた身体を毛布に包み、息子の純粋な喜びに目を細めた。風がそよぐたび、アメリカ楓の黄色い葉が舞い、庭の向日葵の枯れた花弁が静かに揺れる。湊の心は、菜月との懐かしい記憶へと滑り込む。
(あれは菜月と一緒に、賢治さんとの離婚届を提出した日だ)
*****
「なにしてるの」
「四葉のクローバーを探してるの」
「幸せの四葉のクローバー?」
「うん」
「そんなに簡単に見つからないわよ」
「湊」
「なに」
「湊がいれば四葉のクローバーは要らないわ」
「ーあー!ママ!男の人がチューしてる!」
髪を短く切った菜月と、湊の口付けを見た子どもが、酷く驚いた声を上げた。シャボン玉が空高く舞い上がったあの日。
*****
愛おしい日々がハンギングチェアーにゆっくりと揺れ、湊の口元に小さな笑みが溢れる。秋の陽光が芝生を照らし、秋斗がシャボン玉を追いかけて弾ける笑い声が響く。庭の向日葵は頭を垂れ、アメリカ楓の黄色い葉が風に舞う。湊は毛布に包まれた痩せた身体をそっと揺らし、菜月の温かな手を思い出す。
「湊、ねぇ湊」
赤いタータンチェックのストールを持った菜月が、その横顔に声を掛けた。
「湊、寒いでしょ」
湊の華奢な肩に、ストールを羽織らせる。
「湊」
菜月がその細い指先を、そっと握った。
「湊、眠ったの」
静かに瞼を閉じた湊、高く舞い上がったシャボン玉は秋の陽光にきらめき、弾けて消えた。ハンギングチェアーが軒先で揺れ、湊の口元に小さな笑みが残る。
それから15年、湊の胃癌は一進一退を繰り返した。当初は特別な治療や入院を避けたいと頑なだった湊だが、秋斗の成長を見るにつれ、1日でも長く生きたいと願うようになっていた。胃癌の痛みは時折湊を襲うが、秋斗の無邪気さが希望を灯す。菜月の声が心に響く。「湊、いるよ」。鹿威しのリズムが、過ぎた15年を静かに刻む。
「菜月」
白い灯台躑躅の垣根。秋の暖かい日差しに包まれながら、グレージュヘアの菜月が、軒先に揺れるハンギングチェアで微睡んでいた。シワが目立つ手のひらの下には、擦り切れた臙脂色の本があった。風に吹かれてはらりとページが捲れた。
「菜月、起きて菜月」
「…うん」
「起きて、菜月」
湊が、その名前を優しく呼んだ。
「菜月、起きて」
「あ、湊、おはよう」
「ここで寝ちゃ駄目だよ、また咳がでるよ」
「そうね」
一人息子の秋斗は成人し、立派な青年へと成長した。郷士もゆきもこの世を去り、綾野の家は静かになった。今では年を重ねた菜月と湊が、ひっそりと暮らしている。秋の庭では、向日葵が頭を垂れ、アメリカ楓の黄色い葉が風に舞う。ハンギングチェアーが軒先で揺れ、鹿威しの澄んだ音が静寂を刻む。
「そうだ、これ玄関に落ちていたよ」
「あっ!」
湊は、色褪せた三つ葉のクローバーを、菜月の手のひらへと乗せた。
「あっ!いやだ、ありがとう」
菜月は、慌てて臙脂色の本のページを捲り、それをそっと挟んだ。
「僕からのプレゼントを無くして気が付かないなんて、悲しいなぁ」
「わざとじゃないのよ」
「わざとだったら怒るよ」
「ごめんなさい」
縁側に腰掛けた湊は、大きなため息を吐いた。
「それは、額縁に飾ったらどうかな」
「あっ!それ良いかも!」
「良いかもって、今まで気が付かなかったの」
「うん」
湊は、呆れて物も言えないという面持ちで立ち上がると、臙脂色の本の上に、四つ葉のクローバーをそっと置いた。
「えっ!あったの!」
「うん」
「すごい!すごいわ、湊!」
「僕からの、四個目の結婚指輪だよ、もう無くさないでね」
「うん」
菜月は、少女のように微笑んだ。
「ありがとう、湊」
「どういたしまして」
菜月の左の薬指には、クローバーの指輪が光を弾いている。白い灯台躑躅の垣根、ゆりかごに揺られながら老夫婦は優しく口付けた。
「湊、ありがとう」
————どういたしまして
了