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(どうして僕が、こんな目に──⋯)
鏡に映った己の姿を思い出すたび
胸の奥にかすかな敗北の痛みが走る。
紅を差された唇は
息をするたびに微かに艶を宿し
頬を撫でる白粉の下では
血が滲むように熱がこもっていた。
結い上げ整えられた髪は
光の下で黒檀のように滑らかに輝き
その美しさがいっそう
彼自身を窮屈に縛りつける。
煌めく会場の中心で
時也は美しく仕立て上げられた
仮面のような微笑を保ちながら
ほんのわずかに俯いた。
睫毛の影が頬をかすめ
光の粒がそこに一瞬とどまる。
その仕草ひとつで
周囲の空気が柔らかく揺れ
近くにいた者たちは息を止めたまま
その静かな嘆息のような美に魅入られた──
「おや?
緊張でもしてるのかい?──〝モナムール〟」
低く、愉悦を含んだ声が耳元で囁かれる。
その瞬間、時也の腰が強く引き寄せられた。
指先が触れたところから
冷たい電流のような感覚が駆け抜ける。
柔らかい布地越しに伝わる熱、息の近さ
香水と酒の混ざる甘い香。
それは彼にとって
耐え難いほどの侮辱であり
何より──アラインの悪戯に満ちた意図が
言葉を介さずとも痛いほど伝わってくる。
心の声を読まずとも、見ればわかる。
その冷たい微笑の裏に潜む
悪意と愉悦のきらめき。
時也は、粟立つ肌の感覚を胸の奥に押し込め
喉の奥から溢れそうになる声を必死に封じた
今ここで拒絶すれば、全てが崩れる。
ここは舞台、そして自分は──演者だ。
静かに息を整え
彼はアラインの胸元にそっと手を添える。
鳶色の瞳が、灯の反射を受けて淡く輝いた。
その視線を上げた時
微笑は完璧に整っていた。
まるで恋人を見上げる
淑やかな貴婦人のように。
──だが、その微笑の奥には
確かな殺意にも似た冷たい光が宿っていた。
⸻
──遡ること、数時間前。
喫茶桜、居住スペースのリビング。
朝の陽がまだ柔らかく
硝子越しに射し込む光が
白いカーテンを透かして
床に淡い模様を描いていた。
桜の枝が窓辺を撫でる音と
遠くで時間通りに米が炊き上がったことを
知らせる機械音のかすかな音が交じる。
今日の戦場への決意こそ普段とは違うが
この静けさこそ
時也が一日の始まりに愛する
穏やかな時間であった。
だが──
今日に限って
その静寂は奇妙なものへと変わっていた。
「⋯⋯おや?
ずいぶん早起きですね、お二人とも」
いつもより早く起きた時也が
リビングに降り立つと
そこには既に
レイチェルとアビゲイルの姿があった。
ふたりはテーブルいっぱいに
何かを広げており
その光景は、朝食の支度とは到底思えぬ
異様な熱気を孕んでいた。
硝子の瓶、小さな筆、パレットのような板
そして無数の色粉。
それらの並びを見た瞬間
二人の思考を読心術が掬い上げ
時也の背筋を冷たい予感が走る。
「ま、まさか⋯⋯」
彼の呟きに
レイチェルがにやりと唇を吊り上げた。
「ええ。その〝まさか〟よ──時也さん♡」
そして、隣に座るアビゲイルが
両手を胸の前で組み
まるで祈りを捧げるかのように告げる。
「昨日は一日中
時也様に思考を読まれぬよう
心の中を空にして過ごしましたの。
ええ、アライン様から賜った──
〝天命〟のためでございますわ!!!」
「お、お二人とも、待ってください!
なぜ僕が化粧を!?今日、僕は──」
言葉を継ぐより早く
時也の内に運ばれてくるのは、一昨日の夜──
アビゲイルの携帯に届いた
一通のメッセージの思考。
文面は
まるで香水の香りまで漂ってきそうな
アラインの常套的な気障さを
そのまま写し取ったようなものであった。
⸻
親愛なるアビゲイルへ。
明後日、キミもすでに知っているだろうが
潜入捜査において、時也を
〝見目麗しき淑女〟に仕立てる必要がある。
この至難の任務を遂行できるのは
キミをおいて他にいない。
彼をどれだけ魅惑的に装わせるかが
作戦の成否を分ける鍵になるだろう。
くれぐれも
読心術を掻い潜る工夫を忘れずに──
それでは、舞台を整えておいておくれ。
ボクの愛しい小鳥たち
キミたちにすべてを託すよ?
⸻
流麗な文体に紛れた、芝居がかった調子。
だが、アビゲイルには神託のように響き
レイチェルには悪戯のように火を点けた。
ふたりはその夜
メイクと装飾の資料を机いっぱいに広げ
連日打ち合わせを続けていたのだ。
そうして今朝──すべてが整ったのである。
「心に何も考えを浮かばせないようにするの
⋯⋯めっちゃ疲れた〜!
やっと普通にしてられるわ!」
レイチェルが笑いながら肩をほぐす。
時也は呆然と立ち尽くした。
脳裏に、昨日の奇妙な一日が次々と甦る。
営業中
レイチェルは一度も彼と視線を交わさず
アビゲイルは声をかけても微笑みだけを返し
すぐに背を向けた。
夜になれば、二人は言葉もなく
部屋へ引きこもってしまった。
あの冷たい距離は、まさか──
(僕に悟られないため──だったのですね)
しかし、思考を整理する暇もなく
レイチェルが手を叩いた。
「さぁさぁ、時也さん?
とびっきり〝可愛く〟なってもらうわよ!」
「この日のために
時也様に似合うお化粧とヘアメイクを
お姉様と夜通し相談しておりましたの!」
テーブルの上では筆やパフが小さく鳴り
化粧品の香りが空気を満たす。
その甘く濃密な香りが、朝の光と混ざり
リビングはまるで
舞台裏のような熱気に包まれた。
「ま、待ってください!何かの間違いです!
そんな装いの必要など──」
時也のたじろぐ声を遮るように
扉が軽やかに開いた。
「やぁやぁ、おはよう!
絶好の作戦決行日和だねぇ?」
颯爽と現れたアラインは
両腕に大きな紙袋を抱え
まるで舞踏会にでも行くような軽さで
立っている。
「アラインさん!
貴方、彼女たちに一体何を言っ──」
「んっふっふ〜♡
時也さん、つっかまっえた!」
「はい、時也様。
おとなしくお座りくださいませね?」
抵抗する間もなく
レイチェルとアビゲイルが
左右から押さえ込む。
彼女たちの目はまるで職人のように真剣で
逃げ場などどこにもなかった。
「悪いねぇ、時也?」
アラインは笑みを浮かべながら
ゆるやかに袋を床に置く。
「なんとか手に入れた招待状
本来は〝ある夫婦〟に
渡るはずだったものでね。
つまり、潜入には
夫婦の偽装が必要ってわけさ。
だから、前もって
彼女たちにお願いしてたんだ」
「な、なら⋯⋯!
貴方がご婦人の装いをされたら
いいじゃないですか!?
そのお顔立ちなら誰よりも──」
「ふふ、照れるねぇ?」
アラインは指先で髪を撫でる。
「でもね、考えてごらん?
キミより高身長で肩幅の広い妻⋯⋯
実に無理があるだろう?
それにキミは──
代わりに〝二人のどちらか〟を
そんな悪趣味で危険な催しに
連れて行けるってのかい?」
その一言で、時也は息を詰まらせた。
返す言葉を探しても
理屈はすべて、彼の掌の上だった。
「それに、もうキミのためのドレスも
超特急で仕立ててもらっちゃった♡」
「ちょっと、アライン!?
ドレスが決まってたなら
なんで言わないのよ!!」
「そうですわ!
早く見せてくださいませ、アライン様!
デザインによっては
メイクを練り直さねば──っ!」
一気に沸き立つ二人の声に
リビングの空気は完全に華やぎへと転じた。
アラインは愉快そうに笑いながら
袋の口を開き
そこから取り出されたのは──
早朝には似つかわしくない
月光のように淡く輝く、生地の波だった。
その一瞬、部屋中の空気がふわりと変わる。
光を孕んだ布が広げられると
まるで夜明け前の花弁がひらくように
静謐な美が漂った。
「これが、キミの〝衣〟さ。
神々しく、そして少しばかり⋯⋯
艶やかにね?」
彼女たちが美しさに息を呑み
逆に時也の喉は小さく鳴り、息が止まる。
もう、彼はただ──立ち尽くすしかなかった。
(まさか⋯⋯
寝具店で何故か採寸されたのは──
ドレスの為ですか!?)
そして、運命の幕は──
静かに上がろうとしていた。