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大我は、午前中にはビーチに出て爽やかな空気を吸うのが日課になっていた。
でもこの日は、夕方にも出たくなった。というか、することがあまりないというのも理由だ。
スリッパを履いて外に出た。
「気持ちいい」
途端に空気が変わり、まさに美味しいという表現がぴったりかもしれない。大我はたっぷりと深呼吸をする。
今日はいつもより、海の透明度が高い気がした。凪いだ水面は透き通り、奥にいくにつれて青色が濃くなっていく。
ここに立って目を閉じ耳を澄ますと、心が海でいっぱいになるような気がする。
聴こえるのは、小さなさざ波だけ。
穏やかな海に共鳴して、自分の中の自分という部分がきれいさっぱり洗われる。
いつも自分の部屋の前くらいの範囲しかいないから、たまにはあっちのほうまで行ってみようか、と大我は歩き出す。
すると、ある部屋から出てきた男性に気づいた。北斗だった。優しくほほ笑む。「どうも」
大我も笑い返す。「こんにちは」
「ここの部屋の人ですか?」
北斗に問いかけられ、
「えーっと、もうちょっとあっちのほうなんですけど」
指をさして答える。
「あまりこっちまで来たことないので」
「そうなんですか。俺ここです。松村北斗っていうんで、よろしくお願いします」
ほほ笑んだままぺこりと頭を下げる。
大我は口を開いた。
「あの、僕……京本…大我、っていいます」
自分で言って、びっくりした。名前がすんなりと出てきたことに驚いた。しかし、それを聞いた北斗の目も見開かれた。
「え、京本大我さん?」
「あ…はい」
合ってたかな、なんて腕のリストバンドを見やる。そこにはもちろん、「京本大我」の文字。
だが、北斗は嬉々とした声で言った。
「俺知ってます! ロックバンドですよね。『ミスターリート』のボーカルじゃないですか」
大我の頭の中で、一瞬で今までの記憶が駆け巡る。
「そう…です。そのバンドのボーカルでした」
「やっぱり! どこかで見たことあるような方で…。曲聴いてました」
今度は大我が目を張った。
「えっ…、まだ知名度もほとんどないインディーズだったのに」
「いやいや。うちの会社の人も褒めてましたよ。ロックっぽくない声なのに、めっちゃサウンドにぴったりだって」
ほろりと笑みがこぼれた。
「嬉しい…ありがとうございます。……え、でもうちの会社って」
「ああ、所属してたレコード会社です。ちょっとだけ、作曲家の端くれやってて。途中でがんになったんで全部辞めたんですけどね」
「へえ、すごい。僕らのバンドは、僕が作詞作曲してたので外部に頼んだことがなくて…。そっち方面に人脈がないんですよ。だからもし誰かに依頼してたら、松村さんにも会えたかも」
自然と口もとが緩む。昔話も楽しいな、と大我は思った。
「そうかもですね。曲、京本さんが作ってたんですか。いや、ほんと音がいいんですよね。こだわりを持って作られてる感じがして」
「僕だけじゃないですけど…嬉しいです。でも楽しかったですね、活動してたときは。病気……白血病になって、全てが変わって…。音楽を嫌いにならなかったってことだけが、なんか良かったです」
「そうですね」
砂浜にしゃがんだ2人を、茜の斜陽が照らす。
2人の声は、静かに打ち寄せる風波に溶けていった。
続く