テラーノベル
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冷たいのに、焼けるような感覚があった。
逃げたい、しかし逃げたところで撃たれて死ぬのがオチか。
何もできない。
完全に、この男のペースに飲み込まれている。
「ねえ、遼くん。今なら見逃してあげてもいいよ?殺せませんでしたって本部に帰りなよ」
その言葉が、俺の全身を駆け巡った電流のように感じられた。見逃す? 本部に帰る? そんなことが、俺に許されるはずがないだろう。脳裏に、上司の冷酷な声が響き渡る。
『処分するからな』
そうだ。俺には帰る場所なんてない。
殺し損ねた時点で、組織にとって俺は用済みどころか、危険因子になる。
帰れば待っているのは、碧に殺されるよりも残酷な「処分」だ。
それを分かってのことなのか
それとも、単に俺を弄んでいるだけなのか。
どちらにしても、碧の言葉は、俺にとっては一切の救いにならない。
むしろ、逃げ場のない現実を突きつけられたようで、さらに絶望を深めた。
「……帰る場所なんて、ないっての」
か細い声で、俺はそう答えた。
顔は上げられなかった。
碧の瞳に映る自分の惨めな姿を見たくなかったからだ。
「もうバレてんだろ、なのにお前が俺を逃がして生かすってんなら…俺は組織に処分されるだけだ」
絞り出すように、それだけを伝えるのが精一杯だった。これが俺の現実だ。
殺し損ねれば、死ぬよりも恐ろしい末路が待っている。
碧に殺されるか、組織に殺されるか。
所詮、弱い奴は死に方も選べない。
ベテランアサシンを前に俺は何を言ってんだろと思っていたときだ。
「……処分されるくらいならさ、僕のところで飼われてみる、っていうのはどう?」
「……は?」
その言葉の意味が分からず、思わず顔を上げた。
碧は、相変わらず完璧な笑顔を浮かべていた。
しかし、その目の奥には、狂気ともとれる歪んだ輝きがあった。
「僕はね、君のこと気に入っちゃったんだ」
碧の手が、俺の腕に絡みつくように触れた。
冷たい手が、ぞわりと俺の肌を這う。
「だから、僕が飼ってあげる」
「何言ってんだお前……」
俺は混乱して、呟くように言葉を漏らした。
碧は、まるで子供に言い聞かせるように、穏やかな口調で続ける。
「それとも、ここで今すぐ俺にメッタ刺しにされたい?」
碧の指先が、俺の顎を軽く持ち上げた。
無理矢理目を合わせさせられる。
その瞳に映る自分の姿に、俺は息を呑んだ。
何もかも手遅れだった。
どうしようもなく
何もかも。
俺は、全てを悟った。
もはや、抗うことさえ無意味だと。
「……勝手にしろよ」
掠れた声でそう呟くのが精一杯だった。
俺は目を閉じ、諦めとともに体の力を抜いた。
この男の気まぐれな優しさに身を委ねるしかない。
生きるも死ぬもこいつの気分次第だ。
そんな俺の顔を
碧が覗き込む気配があった。
「いい子だね」
優しい声でそう言うと
碧は俺の額にそっとキスを落とした。
それは子供に落とすような軽いキスで
額に彼の息がかかった時
俺はもう終わったのだと悟った。
生きるも死ぬもこの男に握られ
俺に選択肢など最初から無いのだと。
しかしその翌朝────…。
俺は深い眠りから覚め
まず感じたのは信じられないほどの柔らかさだった。
奴隷のように扱われる地獄の日々を覚悟していたのに、なぜか朝目が覚めると
質のいい枕とふかふかのベッドの上で目覚めていたのだ。
昨日の冷たい床とはまるで違う、肌触りの良いシーツに包まれ
一瞬、ここがどこなのかわからなくなる。
その時、視界に入ってきたのは、デニムエプロンをつけた碧の姿だった。
穏やかな笑みを浮かべ、陽光が差し込む窓辺に立っていた。
「おはよ。もう朝食できてるよ」
その声は、昨日の冷酷な暗殺者のそれとはかけ離れていて、まるで長年の友人のようだった。
俺は夢でも見ているのか、混乱と疑念が入り混じった表情で碧を見つめ返した。
怪しみつつリビングに向かうと、そこにはさらに驚くべき光景が広がっていた。
茶碗に入った白飯の他に、ずらりと並べられた料理の数々。
香ばしい匂いを漂わせる鮭の塩焼き
彩り鮮やかな小松菜と油揚げのおひたし
見るからにふっくらとした出汁巻き卵
湯気を立てる豆腐とわかめの味噌汁
そしてミニトマトに、まさかのカフェラテまで。
昨日殺すのに失敗したターゲットと一緒に朝食を食べる
というおかしな状況に俺の警戒心は最高潮に達する。
なにか変なものが入っていないか、ひとつひとつの皿を値踏みするように睨んでいると
碧がふわりと近づいてきた。
「騙されたと思って食べてよ」
そう言うと、俺の警戒を嘲笑うかのように
何の躊躇もなく出汁巻き卵を箸で摘み、強引に俺の口元へ持っていく。
「っ、おい!」
俺は反射的に顔を背けようとするが
時すでに遅し。
ふんわりとした卵が口の中に押し込まれ、抵抗する間もなく
「おまっ、なにすんだ……っ!」
思わずそう叫ぶが、碧はどこ吹く風とばかりに微笑む。
「いいから、噛んで食べてみてよ」
言われるがままに、口に残った卵を咀嚼する。
その瞬間、驚愕が走った。
「は?うま……っ」
言葉にならないほどの美味しさに、俺は思わず絶句する。
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