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土曜の午後。音楽ホールの小さな練習室に、遼と美琴の二重奏が響いていた。
「……やっぱり、こういうのよ。あなたと私で作る音が、私は一番好き。」
美琴は満足げに微笑んだが、遼の顔はどこか浮かない。
(……陽斗なら、どう弾くだろう)
音楽は確かに合っている。でも、そこに「熱」はなかった。
それに気づいているはずなのに、美琴は無理に笑顔を作っていた。
練習が終わると、美琴が唐突に言った。
「ねえ遼、今日はこのあと、ちょっと時間ある?」
「……どうして?」
「久しぶりに、ふたりで話したいの。昔みたいに。」
「……ごめん。今日は、予定ある。」
「……もしかして、高橋くん?」
遼は目を逸らした。
その一瞬で、美琴の表情がはっきりと変わった。
「……ふうん。わかってたけど。あの子のこと、好きなんだ?」
「……まだ、わからない。でも——」
「でも何? あなた、私と組んでたとき、音がすべてだって言ってたよね。感情なんて、邪魔だって。」
「変わったんだよ、俺。」
美琴は、低く笑った。
「いいわ。その感情、どこまで続くか、試してあげる。」
⸻
その頃、陽斗は音楽ホールの外で遼を待っていた。
スマホには「あと10分くらいで終わる」のメッセージ。けれど、それから30分経っても、遼は現れなかった。
(……練習、長引いてんのか? それとも)
心の奥でざわつく不安。
そして──
「……やっぱり、来てたんだ」
振り向くと、そこには遼。
だが、すぐ後ろから美琴も現れた。
「高橋くん、遼を待ってたんだ?」
「……ああ」
「残念ね、あなたとは違って、私と遼には“何年分”もの積み重ねがあるの」
「関係ない。今の遼は、俺のこと見てる」
「そう思い込んでるだけじゃないの?」
「やめろ、美琴!」
遼が強く言い放った。その声ははっきりと、響いていた。
「お前といると、確かに音は揃う。でも、俺の心はどこにも動かない。ただの正確な演奏。それだけだ」
「……嘘、言わないで」
「陽斗の前じゃ、心が乱れる。音が揺れる。……でも、それが怖いけど、心地いいんだ」
美琴は目を見開いた。
「……本気なの?」
「俺は、陽斗に惹かれてる。音じゃなく、人として」
陽斗の目も、見開かれていた。
不安も、嫉妬も、痛みも。全部を超えて、今その言葉が届いていた。
美琴は唇を噛んで一歩遼に詰め寄る。
「じゃあ、最後の演奏はどうするの!? 私だけ置いて、終わらせるの!?」
「……俺はもう、過去には戻らない。お前にも、嘘はつかない。」
一瞬の静寂。
美琴はその場に立ち尽くし、やがて、苦笑するように言った。
「……これで、本当にあの子に“弾き切れる”のか、楽しみにしてる」
そして、音もなくその場を去っていった。
⸻
遼と陽斗、ふたりだけが残された。
「……さっきの、本当?」
「……全部、本当」
陽斗の胸が、熱く締め付けられた。
「じゃあ、ちゃんと答えて。俺の気持ちに」
遼は少しの沈黙のあと、陽斗の手を取った。
「俺も、ちゃんと向き合う。だからもう少しだけ、そばにいて」
「ずっといるよ。どんなに揺れても、お前の音が聞きたい」
ふたりの手が重なったとき、そこにはもう、過去ではなく“今”の感情だけがあった。