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区役所に行って欲しいなら仕事を手伝えと言ってきた貴弘は、のどかの顔をじっと見、
「そうか。
思い出したぞ、お前は向かいのビルの企画事業部の奴だ」
と言い出した。
今ですか。
……今思い出しますか、それ。
「確か仕事もそこそこできたろ」
そこそこですか。
「っていうか、お前、会社クビになったんだろ」
バーで、そんな愚痴も言った気がするな。
何故、婚姻届を出すことになったのかだけは思い出せないのだが。
「これからクビになるところで、まだなってません」
「でも、なるんだろ」
うっ。
容赦ないっ。
「じゃあ、とりあえず、今すぐ此処で働け。
バイト代くらい出すから」
「待ってください。こんなときにですか?」
「今、社の一大事だっ。
俺は一度発注された仕事は絶対に成し遂げるっ」
「いや、今、私の一大事でもあるんですけどっ」
さっさと婚姻届を取り下げて、すっきりした気持ちで仕事してくださいっ、
と思いながら、のどかが叫んだとき、誰かがガラス扉を開ける音がした。
「巨乳美女が帰ってきたのか?」
と貴弘がそちらを見たが、やってきたのは、すかしたスーツを着た鼻につくイケメンだった。
「なにしに来た、信也」
と貴弘が言うと、信也と呼ばれた男は、
「お前の仕事の進み具合を見に来たんだよ」
と笑う。
うわ~、成瀬社長、すみません。
悪い笑い方をする人だとか思ってて。
この人の方が数倍悪い感じがする、と思い、のどかは吸い寄せられるようにその男の顔を見た。
なんとなく、恐怖映画から目が離せなくなるのと同じ感じで、目が離せない。
しかも、貴弘の前に居るせいか、高そうなスーツを着ているわりには、小物感満載だ。
細身で色白のその男は、ん? とこちらを見た。
「誰だ? 新しい女子社員、雇ったのか?」
「それは俺の妻だ」
「ツマ?」
と信也が訊き返す。
「お前、結婚したのか。
なんで?」
いや、なんでっておかしいだろう……、と思いながら、のどかは聞いていた。
相手が私だから、成瀬社長と釣り合ってなくて、なんで、なのだろうか、と思ったが、そうではなかった。
「お前は俺と一緒で一生独身だと思っていたのに」
と信也は語り出す。
「考えてみろ。
結婚したら、ひとりの女に決めなきゃいけないんだぞ。
しかも、一生その女に全財産差し押さえられて、家も乗っ取られて」
結婚って、そういうものでしたっけ?
「一生その女を大事にして、その女にかしずいて生きてかなきゃならないんだぞっ。
その覚悟がお前にはできたというのかっ」
……この人、意外といい人かもな、とのどかは思っていた。
普通、そこまで覚悟を決めて結婚しない。
そして、案の定、貴弘は、
「別に覚悟はしてない」
と言った。
「この女がそこまでの女かどうかもまだわからないし」
そんなつれないことを言いながら、貴弘は信也の手に分厚い社史を投げた。
「暇なら、それ読んで三行くらいで要約しろ。明治から昭和初期までだ」
と貴弘は信也に命令する。
軽くめくってみた信也は、
「どうやってこれを三行にするんだっ!
ていうか、うちの会社の社史だろ、これっ」
と叫ぶ。
「そりゃそうだ。
お前のとこの会社のコンペ用の資料を作るコンペだからな」
「コンペのコンペって意味わかりませんよね」
と苦笑いしながら、のどかは言った。
まだコンペの段階なのかと思いながら。
「そして、これがそのための資料の資料だ」
と社史以外の小冊子の束を貴弘は信也の前に投げる。
「待て、混乱してきた」
と言う信也に、貴弘は容赦なく、
「明治から昭和初期な」
と繰り返す。
わあわあとやかましいが、基本、素直なのか、信也は近くのデスクに腰掛け、社史と小冊子を読み始めた。
「お前、俺がやってた続きを打て。
こっち、訂正箇所。
確認して打て」
とまだ引き受けるとも言っていないのに、貴弘は今度はこっちに書類を投げてきた。
「そこ、座れ」
と貴弘がさっきまで座っていた椅子を指差す。
「え、でも……」
「うちは別に何処が社長の席とかないんだ。
資料や機材のそろってるところに行って、仕事する。
ああ、煙草を吸わない奴だけは、あの中に押し込められるが」
と貴弘はあの狭い喫煙しない人ルームを指差した。
なにかが間違っている、この会社は……。
っていうか、吸わない私もそちらに入りたいのですが、と思いながらも、逆らうのも怖いので、言われた通り、さっきまで貴弘が座っていた椅子に腰掛けた。
うわっ。
まだ椅子があったかいっ。
さっきまで座っていた人間のぬくもりが残った椅子というのは、相手によっては、ぞわっと来るものなのかもしれないが。
貴弘の体温が移ったその椅子には、ぞわっとは来ず、緊張した。
言われた通り打っていると、まだ資料を読んでいる信也のデスクに貴弘は書類の束を投げ、
「お前が来てちょうどよかった。
それが今のところの案だ。なにか意見はあるか」
と言う。
「何故、俺に訊く」
と信也は小冊子から目を上げ訊いている。
「言ったろう。
お前の会社のコンペだからだ。
お前んちのふんぞり返ってる親父が気にいるようなプレゼンを考えろ」
「意味がわからないがっ。
だいたい、俺がお前のプレゼンに手を貸したら、癒着だろっ。
俺が手ごころ加えたみたいになるんじゃないかっ。
後ろ足で砂かけるようにして、会社出てった奴にっ」
癒着だっ、談合だっ、とわめく信也に、貴弘は言う。
「いや、どっちかって言うと、お前たちは、うちを落とそうとするだろうから、なんにも癒着じゃないだろ」
そういえば、一族から離脱したとか聞いていたが。
どうやら、同じ一族のこの信也の会社から出て、別に会社を起こしたようだった。
「うちでしばらく社会勉強したら、会社持たせてやるって爺さんに言われてたのに、莫迦じゃないのか、お前。
こんな小さな会社で満足なのか?」
と言いながら、信也は、やっぱり言われた通り、渡された書類を見ている。
「そのしばらくが我慢できなかったんだよ」
と貴弘は言う。
「古臭い体質を変えようともしないおじさんも。
デカイ会社の社長の座が約束されているせいか、なんの努力もしないまま、ふんぞり返ってるドラ息子にも」
「じゃあ、なんの努力もしないで、ふんぞり返ってるドラ息子に手伝わせるなよーっ」
……ごもっともですよ、と苦笑いしながら、のどかはキーを叩いていた。
「でもまあ、それだけでもない」
と貴弘は言う。
「決まり切った仕事だけじゃなくて、いろんなこと仕事がやってみたくなったんだ。
古い大きな会社だと、もう仕事の必勝パターンみたいなのが決まってて、自由度が低いからな。
コンペの資料作りも最初は先輩に押しつけられたんだ。
だが、これがなかなか奥が深くて。
ひとつデザインを変えるだけで、全然相手が受ける印象が変わって。
コンペの元のアイディアはもちろんだが。
資料作りでもコンペが左右されてると気がついた。
そのうち、俺の作る資料が評判を呼び、他の部署からも作ってくれと言われて、本業ほったらかしにやっていたら、上司に怒られて。
喧嘩してやめたんだ」
いや、それはその上司の人の方が正しいような……と思っていると、
「で、私がその喧嘩した上司です」
と言いながら、人の良さそうな小柄なおじさんがビニール袋を手に入ってきた。
「差し入れ持ってきたんですけど、ずいぶん人が増えてるじゃないですか」
と笑うその男は、小林と名乗った。
「おや。
これはまた、見知らぬ可愛らしいお嬢さんと……
信也課長じゃないですか」
と言われ、信也は、
「小林部長……」
とその名を呼び、渋い顔をする。
「なんで、喧嘩した上司の人が此処に居るんですか?」
とのどかが訊くと、小林は笑顔のまま言った。
「私も上司と喧嘩してやめたからです。
それで、成瀬くん……成瀬社長に拾われて」
「みんな上司と喧嘩してやめちゃうんですね。
上に行くほど悪いやつなんですか? ロクな会社じゃないですね」
というのどかの言葉に、貴弘と小林が、のちのち、その上に行くほど悪い奴な会社の社長になるだろう信也を見る。
「ロクな会社じゃないと思ってるんならやるなよ、うちの仕事ーっ」
とわめく信也に、貴弘は、
「世話になった人が口きいてくれたんだ。断れないだろう」
と言いながら、プロジェクター内蔵タブレットから、スクリーンにグラフを映し出して見ている。
「此処位置ずらした方がいいな。
下の文章、これであってるか?
信也、チェックしてくれ。
そっちのノートパソコンに同じの入ってるから」
「外注になってねー!」
と叫ぶ信也に、ごもっとも……とのどかは思っていた。