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彼女のマンションは、レストランからタクシーで20分ほどのところにあった。
「ここです」
「ああ」
そこは豪華でもおしゃれでもない普通のマンション。
学生や単身者向けに作られた1kの狭い部屋。
「どうぞ。狭くて恥ずかしいですけれど、上がってください」
先に部屋に入り、電気を付けたり冷蔵庫を覗いたりしている彼女。
「お邪魔します」
俺も玄関スペースで靴を脱ぎ、中へ入った。
「ソファーなんてありませんから、適当に座ってください」
「ああ」
確かに、部屋の隅にベットがあり残されたスペースに小さなテーブルと本棚が置かれたこぢんまりした部屋。
あまり女性らしさはないが、すっきりと整理されている。
「そんなにジロジロ見たらダメですよ」
トレーいっぱいにお酒を乗せて登場した彼女が、部屋の隅に置いていた洗濯物を片付ける。
「そんなつもりはないんだが・・・」
どこを見ても生活感があって、目のやり場に困る。
「すみませんね、狭い部屋で。でも、実家も近くにあるのでこれで十分なんです」
「へー」
「大学生になったときに、狭くても良いから1人になれる場所が欲しくてここを借りたんです。本当は就職したらもう少し広い部屋に引っ越しをしようと思っていたんですが・・・」
すぐに仕事を辞めたから、そうもいかなくなったわけだ。
「狭いけれど、落ち着く良い部屋だと思うよ」
家なんて大きければ良いってものでもないだろう。
「そうですか?良かった。専務はこんな狭い部屋見たことないんじゃないかって思っていました」
「君は、俺を何だと思っているんだ?」
「お金持ちの御曹司で、仕事もできて、いつも隙がなくて、生まれながらの王子様。でしょうか」
はあ?
あんまりすんなり言われて、驚いた。
酒が入った彼女はいつもより感情が出やすいらしい。
それにしても、彼女の中での俺はそんな風に映っていたんだな。
でも、
「俺は、そんな立派な人間じゃないよ」
***
「すみません、言い過ぎましたか?」
俺の言葉が強く聞こえたらしく、彼女が謝ってきた。
「そんなことない」
言い方がぶっきらぼうだっただけで、意図はない。
「だって、怒ってるでしょ?」
唇を尖らせる彼女。
はあ?
「お前、酔ってるだろう」
レストランでもかなりワインを飲んでいたし、酔っ払っても不思議ではないんだが・・・
「そんなことありません」
嘘つけ。
目はトロンとして、顔は紅潮し、普段の凜々しさは消えている。
この状態の彼女は、危険だ。
無防備すぎる。
こんな姿、他の奴にも見せたことがあるんだろうか?
いや、ないな。
今まで誰とも付き合ったことがないって言っていたし、そもそもこんな状態の彼女を見てなんとも思わない男なんていないはずだ。
「専務はお酒が強いんですね」
何杯目かの水割りを空けながら、俺を見上げる彼女。
「ああ、そうだな。仕事で随分鍛えられたから」
「アメリカ支社、大変だったんですか?」
「結果重視の国だから、社長の息子だろうと関係ないと思う人間が多かったな」
「苦労されたんですね」
苦労ねえ。
あの、アメリカで過ごした時間は苦労とは感じなかった。
「俺にとってアメリカ支社は居心地の良い場所だったよ。返って日本にいたほうが俺は窮屈さを感じている」
「窮屈ですか・・・」
言いながら、パタンと彼女は机に突っ伏した。
こいつはどこまで隙だらけなんだ。
襲うぞっ。
「おい、寝るなら帰ろうか?」
「いいえ。まだ寝ませーん」
「良いからもう寝ろっ」
このままじゃ、俺の忍耐もどこまで持つかわからない。
***
「寝るならベットで寝ろよ」
こんなところで寝れば、いくら寒い季節ではなくても風邪をひいてしまう。
それに、
「なあ、着替えなくていいのか?」
すっかり目を閉じてしまった彼女の肩を叩きながら、声をかける。
明日の朝起きて、シワシワになった服を見て嘆くのはお前だぞ。
バタンッ。
ええ?
急に彼女が動き出した。
「せっかくのワンピースが」
そう叫ぶと、立ち上がり服を脱ぎだした。
え、嘘だろ。
「ちょっと待て。ここで脱ぐな」
とっさに止めた。
しかし、半分目を閉じた状態の彼女は無意識のように服を脱いでいく。
マジか。
これは拷問だ。
しかたなく、俺は彼女に背を向けた。
ガサゴソと服を脱ぎ、着替える気配がしていた。
しばらくして、
バタン。
ベットに倒れ込む音。
フー。
部屋が静かになったところで、後ろを振り返った。
今日着ていたワンピースはハンガーに掛けられ、荷物も綺麗に片づいている。
そして、彼女はベットに横になっていた。
身につけているのはTシャツと短パン。
きっと部屋着なんだろう。
「専務」
えええ?
いきなり彼女が目を開けた。
「お前眠っていたんじゃ」
「いいえ。さすがに寝たまま着替えて、着ていた服を片づけることまではできません」
そりゃあそうかもしれないが。
「じゃあ、」
演技か?
「あの・・・少しだけお話をしてもいいですか?」
「あ、ああ」
頭の中がハテナでいっぱいの俺に、拒否する選択はない。
「あの・・・向こうを向いてもらって良いですか?」
「はあ?」
「お願いします。恥ずかしいので」
こいつは、何か恥ずかしいことを言おうと思っているのか?
「わかった」
何なんだと思いながら、俺は彼女に背中を向けた。
***
「これでいいか?」
「ええ、ありがとうございます」
はっきりと話す声は、いつもの彼女。
「お前、酔ってなかったのか?」
つい問いただすような言い方になった。
「ええ。気持ちよくはなっていましたが、酔ってはいません」
「じゃあ、」
俺をだましたのかと聞きたくて、口にする勇気がなかった。
「すみません。ただ、もう少し専務と話したくて」
そう言われると、大抵の男はこの先の展開を期待するだろう。
それが彼女のような美人ならなおさらだ。
まあいい、話があると言うんなら聞いてやろう。
俺だっておとなしく家に帰りたい気分ではない。
しかし、
「いつもこんなことをするのか?」
やっぱりそこは気になる。
「いいえ、しません」
ブルブルと頭を振る音が聞こえてきた。
「じゃあどうして?」
俺をからかっているのか?
それとも、何か魂胆でもあるのか?
「その前に、一つ教えてください」
少しだけ彼女の声が大きくなった。
「何だ?」
「専務はどうして、私を秘書に誘ってくださったんですか?」
「それは・・・」
正直、言葉にできるような明確な答えはない。
「私の外見を気に入ったからですよね?」
尋ねると言うよりも、確認するような口調。
「そうかもしれない」
あえて否定はしない。
それも彼女を秘書にと望んだ一因ではある。
「やっぱりそうですか」
どこか寂しそうに、呟く声。
「で、こんなことをする理由は?」
今度は俺が聞く番だ。
***
「私、専務の事が好きかもしれません」
「はああ?」
思わず後ろを振り返りそうになった。
だって、うちの会社に来てもらうのも随分強引だったし、仕事中だって横柄な態度をとっていた自覚があるのに。どこに好きになる要素があるって言うんだ。
「私、専務もご存じのように会社勤めはすぐに辞めてしまったので、ちゃんと仕事をしたことがなかったんです。もちろん花屋の仕事も、母さんの店の手伝いも仕事には変わりありませんが、ちゃんと企業に入ってみんなで一つの仕事を進める楽しさは別格でした」
「ふーん」
そんなものかなあ。
俺にとっては当たり前すぎてよくわからないが。
「専務のことだって、最初は俺様でわがままで最悪だって思っていたんです」
「悪かったなあ」
よく思われていないのは分かっていても、こう真っ正面から言われると傷つく。
「でも、一緒に仕事をしているうちに変わりました」
「え?」
「どんな時にも誠実に仕事と向き合う専務を見ていて、この人のために仕事をしたいと思うようになったんです」
へー。
「でもそれは仕事の上だろ?それが俺を好きだってことになるのか?」
「わかりません。私は誰とも付き合ったことがないので」
ああ、そうか。
今まで彼女は自分の気持ちに蓋をして生きてきたんだ。
「ただ、専務のために何かしたいと思ったんです」
「うん」
俺も、そう思った。
だから、今夜連れ出した。
「これ以上専務が困ったところを見たくはありません」
「ああ」
俺も、君が傷つく姿を見たくはない。
そのためなら、大抵のことはできる気がする。
「今日みたいな日には、専務の側にいたかった」
「・・・」
俺も、今側にいたいのは誰でもなく君だ。
***
もう、迷いもためらいもなかった。
俺は振り返り、ベットに横たわる彼女に顔を寄せる。
近くで見れば見るほど、整った綺麗な顔だ。
そっと触れた唇も柔らかく、吸い付いてくるような感覚。
チュッ。
重なった唇が小さな音をたてて一旦離れた。
「キスも初めて?」
「えっ、そんなこと・・・聞かないでください」
恥ずかしそうに、俺から目を離そうとする。
しかし、俺は頬に手を当てて視線を戻した。
「逃げるんじゃない」
その言葉に、彼女の表情が変わった。
俺だって、自分の秘書に手を出そうって言うからにはそれなりの覚悟がいる。
ましてや、彼女は超がつくくらいの美人で、初めて。
いい加減な気持ちでは向かえない。
「本当に良いのか?」
「はい」
「途中でやめてって言っても、止められないかもしれないぞ」
「大丈夫です」
声から真剣さが伝わってきた。
「後悔しないんだな?」
「はい」
「わかった」
俺も覚悟を決めた。
再び重なる唇。
深くなっていく口づけと共に、お互いの感情も流れ込んでくる。
俺は遠慮なく、彼女を抱いた。
初めてで不安だっただろうに、彼女も情熱的に応えてくれた。
きっと俺たちは相性の良い男女なんだろうと思えるほど、心地の良い時間だった。
ただ2人が一つになる瞬間、
「うぅぅー」
うめくような声が彼女の口から漏れ、一筋の涙が流れた。
俺はそのことに気づかないふりをした。
そのことを気遣う素振りを見せれば、彼女が余計に傷つく気がした。
「おやすみ、優しくなくてごめん」
何度目かの行為の後、疲れ果てて気を失うように眠った彼女。
シングルベットの片隅で小さくなって眠る彼女の頬に、俺はそっと口づけをした。
***
朝。
狭いシングルベットに2人で眠ったせいか、体が痛い。
こんな朝の迎え方は学生時代以来かもしれない。
うぅーん。
布団の中で手足を伸ばすと、
あれ?
彼女がいない。
部屋の中を見回すと、キッチンに立つ彼女が目に入った。
えっと、時間は・・・
テーブルの上に置いていた携帯を確認すると、今は6時半。
「随分早起きだな」
背中を向け料理をしている彼女に声をかけた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
Tシャツにジーンズ姿の彼女も、それはそれで美しい。
「良かったらシャワーを使ってください。替えの下着をコンビニで買ってきたので置いておきますね」
「ありがとう」
昨日のことなど何もなかったように普通に振る舞う彼女。
その姿に違和感を感じながらも、何も言わないことにした。
「ありがとう、お陰で目が覚めた」
勧められるままにシャワーを浴び、替えの下着を身につけて用意してあったハーフパンツを履いた。
「朝食、パンで良かったですか?」
コーヒーカップを2つ持ちながら、彼女がキッチンと部屋を行き来する。
「ああ」
「じゃあ、どうぞ」
小さなテーブルの上に、トーストと、.ソーセージエッグと、野菜サラダ。横に置かれたグラスにはトマトジュースが注がれている。
「あり合わせなのでたいしたものはありませんが、召し上がってください。」
「うん、いただきます」
昨日の酒のせいかそんなに食欲があるわけでもないが、俺は手を合わせて朝食に向かった。
***
「このパンうまいね」
きっとそんなには食べられないだろうと思って食べ始めた朝食だったが、思いの外うまかった。
「このパンは近くのベーカリーで作っている天然酵母の無添加食パンです」
へー。
家では母さんがパン作りを趣味にしていたからよそのパンを食べたことがなかったし、アメリカ時代もうまいパンには出会わなかった。
「うまいよ」
「そうですか、良かった。そのトマトジュースは私が作ったんです。トマトとパインを合わせてすっきりさっぱり仕上げたので、飲みやすいと思います」
フーン。
少し甘くて、酸味もあって、パインのせいでトマトの臭みもなくて、
「とってもうまい」
「ありがとうございます」
ニコニコとうれしそうに、彼女もトーストを頬張る。
なんだかとても穏やかな時間だな。
でも、
「体、平気?」
いつも以上に明るく元気に振る舞う姿に、つい聞いてしまった。
途端に、顔を赤くしてうつむく彼女。
「無理させたよな」
本当はもっと、優しくしてあげるべきだったのかもしれない。
「やめてください。私が誘ったんです。ですから、忘れてください」
「はあ?」
忘れてくださいって・・・
「ほら、今日も仕事なんですから、食べちゃってください」
その口調はいつもの彼女。
「君は、なかったことにしたいのか?」
嘘だよな。
昨日は好きだと言ってくれたし、あんなに愛し合ったじゃないか。
「お互い子供じゃないんですから、忘れてください。ね?」
ね?って。
こいつ、本気で言っているのか?
そんなわけないよな?
だって・・・
「そう言えば、私専務にお願いがあるんですが」
え、お願い?
俺は手を止め、彼女を見た。
***
「河野副社長のことなんですが」
はあ?
今この状況で仕事の話かよ。
自分でも、眉間に皺が寄ったのが分かった。
「専務?」
呆然と見つめる俺に、彼女が首をかしげる。
「あぁ?」
思わず不機嫌な声が出てしまった。
「怒ってますか?」
「いや。それで、河野副社長がどうした?」
とりあえず話しを聞こう。
「私達秘書は普段から取締役達のスケジュールを共有しているんですが、最近河野副社長に空白の時間が多いんです」
「空白?」
「ええ。ようはプライベートってことですけれど。でも、その時間も会社のパソコンにはアクセスされていたりして、どこか変なんです」
ふーん。
確かに、仕事をしているんならスケジュールをクローズする必要はないし。
プライベートであれば、会社のシステムにアクセスする必要もない。
「怪しいと思いませんか?」
「まあ・・・そう、だな」
怪しさを感じないと言えば嘘になる。
そもそも俺は河野副社長が嫌いだし、副社長の方も俺のことが嫌いだろうとも思う。
でも、俺たちは同じ会社で働く仲間だ。
それも、会社を動かす立場にいる取締役。滅多なことで、相手を疑うことはできない。
「私、調べてみてもいいですか?」
「え?」
意外な申し出に、ポカンと口を開けたまま固まった。
「ダメですか?」
真っ直ぐに俺を見る彼女。
「何でそこまでするんだ?」
そんなことをしても何も彼女の得にはならないだろう。
そこまでこだわる理由が俺にはわからない。
「たった1ヶ月半ですけれど、鈴森商事で働いて仕事が楽しいって思えたんです。もし、この会社のためにならないことを企む人間が上層部にいるのなら許せませんし、そのことが専務の障害になるのなら私が排除します」
「排除しますって・・・」
昨夜からかわいい一面を見過ぎていて忘れそうになったが、彼女は強い人だった。
一旦こうと思ったら退かない強情さを持った氷の美女。それが青井麗子だ。
***
「お願いします、やらせてください」
はーぁ。
こうなったら彼女は何を言っても聞かないな。
「分かった、でも危ないことはするな」
「はい。じゃあ、会社のアクセス権を上げてもらえますか?」
ああ、そうか。
俺の業務に関することは別として、彼女には徹や取締役達の専属秘書のような上級のアクセス権を与えていなかった。
「今日中に手配する」
「ありがとうございます。あと1ヶ月半でどこまでできるかわかりませんが、できるだけやってみます」
ええ?
「あと1ヶ月半で、辞めるのか?」
自分でも無意識に口にしていた。
「ええ、最初からの約束ですし」
しかし、
「君は俺のことが好きだと言ってくれたよな?」
「ええ」
少し顔を赤くして彼女が頷く。
「仕事も楽しいって」
「ええ。とっても楽しいです」
「じゃあ」
なぜそんなことを言うんだ。
「気持ちは気持ち、立場は立場です。私はいつまでも専務の側にいるべきではないんです。ふさわしくないと思いますし、きっと自分が苦しくなると思いますから」
「そんなこと」
やってみないとわからないだろう。
そもそも、お前の気持ちはその程度なのか?
俺はこんなにお前の事で一杯なのに、お前は違うのか?
そう聞きたくて言葉にできない。
『はい、そうです』なんて言われたら立ち直れそうにないからな。
「専務、本当に時間がありませんから食べちゃってください」
不機嫌そうな顔になった俺を避けるためか、彼女はまた朝食の話に戻す。
この女、やっぱり簡単には落ちないらしい。