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『かーごめぇ、かーごめぇ…………』
今日も今日とて、神楽は同じ歌を歌う。誰もいない家の中に、神楽の歌声だけが虚しく響き渡る。ほんの少しだけ切ないのは、ただの思い違いだと言い聞かせながら、彼女は鞠を持ち、歌を歌う。
『かーごのなーかのとぉーりは……』
籠の中の鳥とは一体誰を指すのだろう。妊婦? それとも自分?
『いーつ、いーつ……でーあ―う?』
誰とも出会えないし、この家から離れられないくせに。いつまで経っても、この家を、この家に住んでいた一族を忘れられないくせに。
それでも、まだ、神楽は、歌でくらい__希望を願いたかった。
○
神楽に勧められるまま家に上がった雪と氷。手入れの行き届いた室内には、誰かが生活している跡はない。ただ整っているだけで、温かみも何も感じられない。
とてもではないが、座敷童が好んで守る家とは思えない、というのが氷の率直な感想だ。
対する雪は昔から変わらない家への懐かしさに身を浸らせていた。部屋の襖を開けるたび、「ここでは神楽とこうしてこうやって遊んだの」といちいち氷に説明するくらいなのだから、よっぽど幼い雪はここで楽しい時間を過ごしていたのだろう。
ただ、見つけるのは思い出ばかりで、家の隅々まで探索してもこの物の怪化した家の気持ちは一切分からなかった。家からは異変の一つも見つからない。このままでは名告主の名が廃れてしまう。
「この家が気持ちを出せる状況を作らなければならないのかしら」
「何か条件を満たさないと、喋れないということか?」
「さあ。そういう術があるなんて、わたしは聞いたこともないけれど、これだけ大きな物の怪だもの、多少の約束事がないとこの世に顕現できないのでしょう」
「…………そういうものなのか?」
「そういうものなのよ」
そんなこんなで雪と氷は別れて行動する事にした。ひと見知りの物の怪である場合を考慮した結果である。小一時間ほど経って何の情報も得られなければまた合流し、解決策を練る、という条件を設けて二人は別れた。雪の背を見届けてから、氷は家とは全く別の方向へ歩みを進める。
____そもそも、元からどこかおかしいと感じていたのだ。
神楽の話を聞いていた時から、違和感はあった。そしてその違和感はこの屋敷を隈なく見て回った事により、確信に変わった。
そう、『異変は何一つ無かった』。そうであるならば、どうして。
どうして、喋ったことのないものが、物の怪であると言い切れるのだろう。どうしてそんなものに、名を告げてくれとあの『物の怪』は頼んだのだろう。
氷は腰に帯剣した刀をちらりと見やる。事と次第によっては、相手が雪の大事なひとであろうが…………斬るつもりでいた。
煩く鳴り始めた心臓の音を鎮めるように、氷は大きく息を吸う。
____大丈夫だ。あちらが何も企んでいないのであれば、抜刀する必要も、雪が哀しむ必要も、ない。
氷がそう思った矢先に、背後から、ひとりの……物の怪の、声がした。
「______ふふ。警戒のし過ぎじゃ、氷」
音もなく氷の背後に現れたのは神楽だった。氷は最大限の警戒心を持ち、彼女と相対する。戦闘になった時、氷がこの座敷童に勝てるとすれば、不意打ちだけであったのに、こちらが先に見つけられては意味がない。ここは敵の居城なのだ。
限りなく低い勝算に氷は顔を顰める。
「……お前は、何の目的で雪を呼び出したんだ。この家が物の怪化したというのも嘘だろう」
「それは本当じゃよ。そうでもないのに、名告主を呼べはせぬ。……なあ、《風雅》」
神楽はしゃがみ込み、床に手を当て、どこか愛おしげに囁く。それと同時に、不快な浮遊感が氷を襲った。
これが、この家が物の怪なのだとすれば、今氷たちは彼の腹の中にいるという事だ。ゾッとしない状況に、氷は内心ほぞを噛んだ。
氷の表情をどう受け取ったのか、神楽は口の端を持ちあげて微笑った。
「『仮名告げ』じゃよ、氷。お主も知っているであろう? 物の怪はその存在を誰かに定義してもらわなければ、すぐに消えてしまうからな」
「雪が来るまでの時間稼ぎ、という訳か」
「まぁ、そんなところじゃ」
物の怪や妖怪は、その存在自体が不確かなもの、儚いものであるため、生まれた直後、遅くとも数日で名を告げられる____神や神格を持った人や物の怪に認められる、または自らで自らを定義する必要があった。『仮名告げ』はそれに間に合わせるための一種の延命方法である。仮名を告げた方の力も激しく消耗するので、よっぽどの大妖怪や死にたがりの物の怪しかそれを行えない、というのが現状だ。
その論理でいくと、神楽はどちらなのだろうか。
氷は眉を寄せる。この物の怪の真意が分からない。
座敷童はどこからか鞠を取り出して、手に持った。
「今日、神楽が会いたかったのは雪ではない」
「じゃあ、誰に」
「お主じゃよ、《氷》」
その言葉と同時に放たれたのは、鞠だった。木槌と折り紙の鶴も、鞠の軌跡を辿るようにして、氷へと迫る。氷は何もしなかった。ただ全身で受け止めただけだ。激しい、衝突音。
無傷の氷を見て、神楽の残念そうな声が響く。
「何じゃ、刀は抜かぬのか。せっかくどれほどの力量なのか試したかったのに」
「……何のつもりだ」
氷の声音に苛立ちが滲み出る。いきなり襲ってきた事といい、それにしては殺意が感じられない事といい、不可解な事だらけだ。
「何って……。お主の刀の力量を測りたい、と言ってるだけなのじゃが……?」
「そんな事をしてお前に何の益がある?」
氷が短く問うと、神楽はその小さな手を握りしめる。
「____あるよ。氷にとっても、神楽にとっても……雪にとっても」
感傷的に紡がれたその言葉に、興味を惹かれない氷ではなかったが、何しろ脈絡もなく急に襲ってくるような物の怪だ。聞き返して隙を作るのが怖い。
神楽は真っ直ぐな目で氷を射抜く。
「時に……氷。お主、大切なものを斬ったことはあるか?」
「ない」
「では……例えば、雪を斬れるか?」
氷が固まったのはほんの一時の時間だけだ。
「そうする必要が、ぼくにあるのなら」
氷は不必要な殺傷は好まない。それは言い換えれば必要な殺傷ならば誰であってもどこであってもするという事。家族であっても、友人であっても、恋人であっても、所詮は他人だ。自らの事は自らで守れ。それは氷が親兄弟に言い聞かせられていた事であり、同時に人と物の怪の意識の違いを如実に表した考え方でもある。
大事なひとを斬るのは、きっと怖い。そんな迷いが生じないよう、彼ら彼女らが味方である今を大事にするべきなのだ。
あとで、悔いが残らないように。
氷の答えに満足したのか、神楽はすっと目を細め、温かい光をその目に宿した。
そして、告げる。
「ならば、どうか……あの子が、雪が死ぬ時に……首を斬ってやってくれぬか」
○
気づいた時には名が与えられていた。いつの間にかそこに存在していた。それが神楽で、座敷童だ。誰かを何かを守護する役目を負った物の怪で妖怪だ。
人の温かみも、醜さも、愚かさも、儚さも、愛情も。全て最初から知っていた。
請われるままに力を貸し、家に侵入した害あるものは徹底的に叩き潰した。守護と攻撃は裏表にあるもので、それには対して違いがないと気が付いた時は、いつだったのだろう。
それが分かった頃には、もう誰も、家からはいなくなっていた。最後に彼女が見たのは、醜い遺産相続の争いだった。彼女は最後に生まれた子を家から逃がした。それが彼女が行った、最後の『守護』だった。
守るものが居なくなった『家』という空間で、神楽はただ徒に日々を過ごしていた。守ることを目的として生まれた彼女は、それから何年も新しいものがやって来るのを待った。
____それは、神楽が春も夏も秋も冬も一人で過ごすのに飽き始めた頃。
最後の子供が、帰ってきた。それも、半妖の子を連れて。
彼女は素直に嬉しいと思った。また人と触れ合えるのだと。そう感じたのは、けれど一瞬の事だった。
最後の子供は、もう誰の助けも守りも必要としていなかった。世界の機関の一つになっていた。
何かが悲しくて、何かがおかしくて。神楽は生まれて初めて、叫びたくてしょうがなかった。泣いている顔を、誰にも見られたく無かった。
そんな彼女を見つけたのは、半妖の子だった。
『あ! やっと見つけたわ』
最初は無視した。誰とも話したくなかった。どうせこの子供も世界の機関の一つになるのなら、関わってもいつかまた、今と同じように寂しくなるだけだ。
『ねぇねぇ。あなた名前はどう告げられたの?』
『知らない』
答えなければずっと側で煩くされるので、必要最低限の言葉を交わした。
『神楽、子守唄を教えて欲しいの』
『…………少しだけなら』
人でも物の怪でも、神でもない中途半端な存在は、易々と神楽のこころの隙間に潜り込み、彼女のこころに笑いかけた。
一度も神楽が寂しいと零した事は無かったけれど。
雪という少女は神楽が一番寂しかった時に、側にいてくれた。
それだけで神楽というひとりの物の怪が、雪という半妖に心を許すには十分だった。
けれど。
いつか彼女はいなくなってしまうのだ。神楽を置いて。
だったらできるだけ、痛くない方法で。彼女が『淋しく』ないように。
__そう、神楽ができたらよかったのに。
役目を放棄できたらよかったのに。
○
神楽の言葉の意味を、正確に汲み取った氷は顔を顰めた。
____そう願うのなら、雪の消失を彼女にとって楽にさせてやりたいのであれば、他の誰でもない神楽がやればいいじゃないか。
それが難しいから神楽が氷に頼んでいることは明らかだったが、それでも、嫌なものは嫌だった。
どうして、雪がいなくなる瞬間を、雪が自害する瞬間をぼくが見なければならないのか。
「……ぼくは」
「頼む」
氷が神楽の頼みを断ろうとした口を遮って、小さな座敷童は頭を下げた。その背は小さく震えている。
この小さな子供に、何を伝えるべきなのか。何を語るべきなのか。何をすれば正解なのか。氷が迷っていると。
タタタッとひとが駆ける音がした。この足音には覚えがある。氷と同じ事を思ったのか、神楽は唇に人差し指を当て、ふっと姿を消した。今話したことは彼女には喋るな、という意味だろう。
「あ! やっと見つけたわ」
駆けてきたのはもちろん雪だ。ぱぁっと顔を輝かせて近付いてくる。
「あのね、ついさっきこの家と喋れたの」
「……そうか」
「むぅ……反応が薄いわ」
さっき、というと神楽がこの家に……風雅に語り掛けた時だろう。あれだけ大きな動きをしたのだ、雪が気付かない訳がない。
氷が雪の視線を躱していると、雪が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫? 氷、やっぱりちょっと疲れてるんじゃないの?」
「この結界は雪に利かずとも物の怪には効く。とっくに疲労は回復している」
「じゃあ、どうしたの?」
「…………」
雪に、話したい。神楽の思いを、願いを。雪の喪失に付随する『願い』を。
だけど、そうして楽になるのは、多分きっと神楽も、そして氷自身も望んでいない。
「この家の物の怪、なぜかすごく『守る』名に拘っていたの。氷は何か知ってる?」
「……知らない」
「わたしも、教えてもらえなかったわ。多分……信用されていないのね」
雪がその長い睫毛を伏せ、自嘲的にそう零した。それは違う、と氷は言いたかった。
風雅は誰よりも神楽の想いと願いを理解していただけだ。仮名告げの恩もあり、雪に話さなかっただけなのだ。
__親と子のようなものだろうか、と氷は思う。大きさこそ違えど、互いへ向ける慈しむような愛情は同じだ。長らく共にいると、性質まで似るのだろうか。
雪と氷はその後、しれっと現れた神楽に別れを告げた。
「礼を言う、雪。風雅に名を告げてくれてありがとう」
「別に、わざわざ礼を言われるような事じゃないわ。これもわたしの役目の範疇だもの」
神楽の何かもの言いたげな目線を受け、終始黙っていた氷は口を開いた。
「ぼくは……ずっと雪についていくつもりはない」
氷は迷いながら言葉を紡ぐ。案外、正解などなくても、それでいいような気がした。
「けど……もしぼくが名を告げられるまでに、『その時』が訪れたのなら、その時は」
これはただの決心だ。
「__その時は、ぼくが雪の側にいるよ」
神楽の顔がゆっくりと綻んだ。
「うん。____ありがとう」
「『名告待』の氷」