――頬をくすぐる風。草の匂い。暖かな陽射し。
どこまでも重く、気怠く、陰鬱とした時間を、かなりの長い間、過ごしてきた気がする。
しかしそれもようやく終わり、私の前には明るい世界が広がっていた――
「……はて?」
あれ? 私、こんなところで何をしているんだっけ?
眼下に広がるのは、豊かな緑。
どうやら私は、どこかの丘にいるようだった。
なんだか以前も、こんなことがあったような……?
よーし、落ち着こう。まずは素数でも数えて落ち着くのだ。
えぇっと、2……3……5……7……11……13……17……19……23……29……飽きた!
せっかく素数を数えたのに、あまり落ち着かない気がするのは何故だろう。
……はてさて。
それにしても、ここはどこなのかな?
周囲はとてものどかな、しかし誰もいない……そんな場所。
家なんてあろうはずもない、そんな空気をどこか醸し出している。
「うーん、夜になったらどうしよう……。もしかして、野宿?
いやいや、それよりもご飯とかはどうしよう」
そういえば、何だかお腹が空いているような気もする。
空いているか、と言われれば微妙なんだけど、でもどこか空いている……という、少し気持ち悪い感覚。
あれこれと考えていると、近くの茂みから突然ガサッという音がして、そこから白ウサギが飛び出してきた。
「あばばばば! あーばばば!!」
……は?
え? 何あれ、最近のウサギってあんな鳴き方をするの?
……いや、ウサギってそもそもどう鳴いたっけ?
小学校の頃、学校にウサギ小屋はあったんだけど……世話をする立場にはいなかったから、よく覚えていないんだよね。
「それにしても、『あばば』は無いでしょうに……」
呟いている間にも、白ウサギはどこかに向かって走っていく。
……やるべきことが分からない私は、とりあえず白ウサギを追い掛けてみることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白ウサギはしばらく走ると、飛び出してきたところとは別の茂みに入っていった。
気配を探りながら、茂みの中に何もいなさそうなことを確認してから覗くと、そこには――
「……マンホール?」
街中でよく見かける、普通の金属製のマンホールを見つけた。
しかしマンホールっていうのも、久し振りに見たような気がするなぁ……。
それ以外は特に何も無く、その茂み自体もそんなに大きいものではなかった。
「んー……。
あの白ウサギ、ここに入っていったのかな?」
マンホールの中に、白ウサギ……。
ネズミなら『まさに!』っていう感じなんだけど、白ウサギがこんなところに入ったら、すぐに汚れちゃうよね……。
ここに入ったら、私の服も汚れてしまうだろうし――
……と思ったところで、私は自分の姿にようやく気が付いた。
「うわぁ!?
これ、アリスの服じゃん!?」
アリスの服――
……その言葉が口をついて出たとき、私は突然、色々なことを思い出した。
私の名前はアイナ・バートランド・クリスティア。
今は王都ヴェセルブルクに暮らす、S-ランクの錬金術師!
それより前……転生する前は、日本に暮らす、社会人の神原愛奈!
うんうん、そうそう! しっかり思い出した!!
そして今、何故か着ている服は、少し前に白兎堂という服屋で作った可愛らしい服。
まさかこれが、記憶を呼び覚ますきっかけになるとは……。
「――それで?
ここは、どこなのかな?」
アリスと言えば、『不思議の国』だ。
もしかして、ここがそれ? さっきは白ウサギも走っていったことだし――
……って、いやいや。待て待て。そもそも私、何をしていたんだっけ?
確か……そうそう、神器の素材を調べようとしていたんだよね!?
そして気が付けば、いつの間にやらこんなところにいるわけで……。
「そうか、分かった! これは夢だ!」
そう思いながら、頬をつねる。
痛い!
夢の中で頬をつねって、それで夢かどうかを確認する――
……これは割と古典的な方法なんだけど、以前これを夢の中でやったときは、しっかりと痛かった記憶がある。
だから個人的には、確認の手段としては微妙なのだ。つい、やってしまうんだけど。
……さて。
それにしても意識がここまではっきりしていて、感覚もしっかりあるとなると、これはずいぶんリアルな夢……ということになる。
夢の中で夢だと気付く夢……明晰夢っていうやつもあるんだけど、これって少しでも意識しちゃうと、一気に目が覚めちゃうんだよね。
私も何回か経験はあるけど、今回はそれとも違うようだし……。
「まさか、別の異世界に転移した……とかは無いよね?
うーん……。
他に情報も無いし、ひとまずこのマンホールでも開けてみようか……」
マンホールのくぼみに指を掛けて開けようとするも、当然のことながら重く、まったく動く気配が無い。
しばらく頑張ってはみたが、微動させることすら出来なかった。
「……うーん。
そもそも白ウサギが入って行くのって、ウサギ穴じゃなかったっけ……?」
誰ともなしに、そんな不満を言ってみる。
……聞く人なんて、誰もいないのだけど。
「次は棒を使って、テコの原理で試してみよう……」
そう思いながら、アイテムボックスから細長い棒を取り出そうとするが――
「……あれ?」
収納スキルが発動しなかった。
「むむっ?」
……あれ? もしかして収納スキル、使えなくなっちゃった?
えぇっと、自分をかんてーっ。
――鑑定スキルを使おうとするも、何も起こらず。
「お、おぉ……? これって、もしかして……」
れんきーんっ。
――錬金術スキルを使おうとするも、何も起こらず。
「……えぇ、本当に……?」
いつも頼り切っているスキルたちが、何も反応してくれない。
こんな状況下で、頼りになるものがまったく無いとは……。
……うーん。力も無く、スキルも無く。
開幕冒頭のマンホールすらも開けられず……。
そもそもこれ、『不思議の国』にも行けてなくない?
夢ならこのまま目が覚めるのでも良いんだけど、いつ覚めるのかも分からないし……。
せめてこう、魔法でも使えて、ドカーンとやれれば……。
そんなことを思いながら自分の手と腕を見ると、いつもの指輪とブレスレットは付けていない。
つまり、魔法は自力で使うことのできるものに限られる……ということになる。
「……魔法かぁ。
そう言えば最近、あんまり練習してなかったなぁ……」
そんなことを思いながら、少し昔の記憶を辿ってみる。
魔法関連で読んだ本なんて、メルタテオスで買った『はじめての魔法~水属性~』くらいのものだ。
確かに初歩的な本だったけど、それでも一応、いくつかの魔法は載っていたっけ……?
例えば――
「……アクア・ブラスト」
何気なくマンホールに手をかざして魔法の名前を呟いてみると、予想に反して、水球が勢いよく弾け飛んだ。
その勢いにマンホールは1メートルほど吹き飛ばされて、元々あった場所には黒い穴が姿を現す。
「おおぅ……」
予想外の展開に、まずは自分で自分に驚く。
試しに宙に向けて、もう何回かアクア・ブラストを使ってみると……しっかりとその度に、手から水球が飛び出していった。
――これは楽しい!
どういう理屈かは分からないが、何故かここでは魔法が使えるようだ。
「よーし、武器は手に入れた! どんどん進んでみよう!」
突然手に入れた武器に気を良くしながら、とりあえず黒い穴を覗き込んでみる。
それはどこまでも深い黒色で、周りの空気を静かに吸い続けているようだった。
まずはゆっくり、片足を入れてみると――
「……うひゃっ!?」
吸い込む力が一気に強くなって、一瞬で身体ごと引きずり込まれてしまった。
そして私に訪れたのは、ひたすらの落下。
真っ暗闇の中を、ひたすら落ちる感覚。
最初は驚きが先にきたものの、何分、何十分経ってもひたすら下に落ち続ける。
「……『不思議の国』って、こんなに落ちるものだったっけ?」
いつしか冷静に、そんなことを思うようになっていた。
この感じだと、この星の反対側まで行っちゃわないかなぁ……。
いや、その前にマントルで焼け死ぬか。
でも『不思議の国のアリス』って、そんな科学的な話ではなかったし――
……そんな常識が、私を不安から遠ざけてくれる。
しかし、不安からは遠ざけてくれたものの、それから何時間も落ち続ける感覚までは遠ざけてくれなかった。
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