◻︎アキラの場合
___架空のデートか……
そんなこともあったなぁと思い返した。カレンダーを見ると、あれから三つめの季節が過ぎようとしていた。
たまたまSNSで知り合った、顔も素性も知らないナオという女性。それぞれが、それぞれのパートナーの不倫で悩んでいるという共通項でつながった。ナオは夫を、僕は妻を不倫相手には奪われたくないと話していた。
でも、見て見ぬフリを続けるのはとても苦しくて、精神的に壊れてしまいそうになるから、何かでストレスを解消しようともちかけたのがあの架空のデートだった。
LINEのメッセージで会話をしながら、まるでそこにいるかのように振る舞った。周りから見たら少しおかしな男と女がいるだろうと思われたことだろうけど、そんなことは関係なかった。自分たちにとって、そのふざけたやり方のデートで擬似不倫の気持ちになって、人知れず復讐できればよかったから。
顔も本名も明かさず、あの場所で待ち合わせて一緒に楽しんだ、ただそれだけの女性だった。
___ふ〜ん、そうか、離婚したのか
“やっぱりな”という感覚もあるし、少々羨ましいような気持ちもある。
これまでと全く違う新しい生活を、自分で切り開いていくというナオの決意表明のような連絡メッセージが、眩しく見えた。
「彰君、そろそろ時間だよ」
「あー、わかった。出かける準備はできてるから」
妻の真澄に急かされて、ソファから立ち上がる。今日はこれから、真澄とあの遊園地へ出かける。二人ともとびきりのオシャレをして。
「晴れてよかったね♪遊園地なんて久しぶりだから、ワクワクしちゃう」
助手席の真澄は、パワーウィンドウを全開にして走り抜ける風に髪をなびかせている。
「混んでるかな?今、季節がいいから」
ハンドルをにぎるのは、僕だ。
「平日だから大丈夫な気がするよ。私は遊園地よりもね、バラ園の方が気になってるの。そろそろ見頃みたいだから楽しみ」
真澄は、大の薔薇好きだ。今はマンション住まいだけど、いつか戸建を買って自分の庭を一面薔薇で埋め尽くしたいという夢があるらしい。
「バラを買うことができたら、買うといいよ。鉢植えならベランダでもいけるんじゃない?」
「うん、そうする」
まるで、おもちゃ屋さんに行く前の子どものような笑顔だ。
___この笑顔に僕は惹かれてるんだよな……
今から真澄と行く遊園地は、あの日、ナオと過ごした遊園地だ。あの時はまさかこんなふうに、真澄を取り戻せるとは思っていなかった。
大好きでたまらない自分の妻が、誰か別の男のことを思っていると知った時、頭をガツンと殴られたような気がしたけれど。
◇◇◇◇◇
妻の真澄と知り合ったのは、お気に入りの喫茶店だった。大通りに面したそのお店はテラス席も充実していて、仕事で疲れた頭をリセットするにはいい場所だった。
「ご注文は?」
オーダーを取りにきたその女性の声にまず惹かれ
「いつもありがとうございます」
にこやかに返してくれるその微笑みにまた、ノックアウトされたのだ。それが喫茶店の店員というサービス業の職務なんだと理性ではわかっていても、その瞬間は僕だけのために向けられていた。それがたまらなく、うれしかった。
その笑顔と声を自分に向けて欲しくて、仕事の空き時間を見つけては、足繁く通ったのだ。
フリーライターの僕の仕事は、わりと自由がきく。その代わりに安定した収入というものがない。それに僕の外見は、中肉中背のその他大勢に区分けされてしまうような、特徴のないものだった。だから、いくら好きになっても告白どころか、お近づきになることもしなかった。遠く離れたテラス席か、奥まった席でそっと真澄を見ていることしかできない日々が続いた。
そんなある日、事件は起きた。
いつものようにテラス席でパソコンを開いて原稿を書いていたら、ドタバタという複数の足音と怒号が聞こえてきた。その場にいた全員が音のする方を見た。
「逃げても無駄だ!」
「捕まるわけにはいかないんだよっ」
まるで白昼行われている映画のロケのようだった。先頭は犯人らしき若い男が、すっころびそうになりながらこっちへ走ってくる。
きゃーっ!という悲鳴と共に、逃げ惑う人たち。がしゃんとカップが割れる音の中、倒れる椅子をよけて、逃げてきた男が立ちすくむ真澄の腕を掴んだ。僕のすぐ前で僕に背中を向けて。
「それ以上近づくと、この女がどうなるかわからないぞ」
その男はポケットから出した折り畳みナイフを取り出し、真澄の首元に突きつける。
「わかった、わかったから、その人を離して。ちゃんと話を聞くから」
6人の刑事だろうか、あとは警察官が数人。それからその様子を遠巻きに見ている野次馬たち。僕のすぐ目の前でまさかそんなドラマが起こるとは予想外のことで、どうにもできず動けないでいた。
気がついたら、僕以外の人間はみんなずっと下がって、遠くに離れている。どういうわけか、犯人だけは僕の存在には気づいていないようで、一瞥もくれない。
___僕のこの存在感の無さがこんなときに役に立つなんて
「……!!」
その時、そっと振り返った真澄と目があった。涙を浮かべて唇を強く噛んで僕を見ている。
___助けてと言ってる?
目で問う。
そっとうなづく真澄。
僕はパソコンのカメラをそっと起動して、心を決めた。江口彰、一世一代の大勝負に出る。
そっと席を立つと、すぐそこに倒れていた椅子を持ち上げ、真澄に合図をした。
___しゃがんで!よけて!
___はい
瞬間、犯人の背中めがけて椅子を強く投げた。
「うげっ」
咄嗟のことに訳がわからない犯人はナイフを落とし、つんのめって四つん這いになった。
その時、しゃがみこんでいた真澄の手を取り
僕の後ろに隠した。
「今だ!」
「押さえろ!」
うわーっという声とともに、あっという間に犯人は捕まった。
ガヤガヤと騒然となった現場。僕は何食わぬ顔でパソコンの録画を止めた。
「あ、あの……」
真澄の声に呼び止められた。
「ありがとうございました、ホントになんてお礼を言えばいいのか……」
半べその真澄が、僕に向かって深々と頭を下げている。
「いや、お礼なんて別に……」
「そんな、それじゃ私の気が済みませんから…何か……あ、そうだ!ちょっと待っててください」
それだけ言うと、奥の方へ駆けていく。しばらくして戻ってきた真澄は、メモを握っていた。
「いつもきてくださってますよね?それでよろしかったらこれから1ヶ月間、私がいるときに来てもらえたらコーヒーを無料にしますから。これ、私がいるかどうか確認してもらうための、お店のホームページアドレスです」
「え?あ、はい」
なんだ、電話番号やLINE IDじゃないのかとガッカリした。
「私、曽根真澄と言います」
「えっと、僕は江口彰です。これ、名刺です」
「フリーライター?雑誌とかの?」
「まぁ、記事になりそうなことならなんでも取材しますよ。たとえばほらこれ」
そう言って、今しがた録画された動画を見せる。
「これ、今の?」
「うん。あ、これは記事にはしないから安心して。僕の武勇伝を自分で残したかっただけだから。それに犯人の顔は写ってるけど、曽根さんは、わからないでしょ?」
「ホントだ、顔は出てない。よかった」
自分の顔が、画面ではわからないことにホッとしたようだ。さっきまでの緊張感から解放されて、いつもよりさらに可愛い笑顔を見せてくれる。
「あの、じゃあ、お言葉に甘えて、コーヒーをご馳走になろうかな」
「はい、今日から1ヶ月ですよ」
「わかりました」
そして、僕は無料のコーヒーを飲むために、いや、真澄に会うためにさらに足繁くその喫茶店に通った。
そうやって、約束の1ヶ月が過ぎるころ、なんとか真澄と交際することができたのだ。
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