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それから数日後のこと
その日、僕はいつも通り一人で、夕暮れ時の淡い光の中を下校していた。
高校の正門をくぐり、見慣れた道へと一歩踏み出すたびに、アスファルトに影が長く伸びていく。
今日あった授業のことや、今週末の岬くんとの予定をぼんやりと考えながら歩いていた。
耳に届くのは、遠ざかる部活動の喧騒や、僕を追い越していく自転車の軽やかな音だけ。
風が頬を優しく撫で、日常の穏やかな時間が流れていた。
いつもの交差点に差し掛かると、横断歩道の少し先に、見慣れた背の高い人影が目に入った。
すらりと伸びた背筋、少し癖のある柔らかな黒髪。
紛れもなく、僕がこの世で一番大好きな人の後ろ姿だった。
一瞬で、心臓が跳ね上がった。
全身に電流が走ったみたいに、さっきまでぼんやりとしていた思考が鮮やかに色づく。
足取りが自然と軽くなり、僕は思わず駆け寄ろうと、一歩踏み出した。
「岬くん!」
そう声をかけようと、肺いっぱいに空気を吸い込んだ、そのときだった。
僕より少し遅れて交差点にやってきたらしい女性が、その背中に勢いよく飛びついた。
華奢な体からは想像もつかないほどの勢いで、女性は岬くんの首に両腕を回し、まるで当たり前のように抱きついた。
岬くんは「やめろよ」と、いつもの少し困ったような、それでもどこか愛おしさを感じる声で言ったけれど
その表情は僕が今まで見たこともないくらい、満面の笑顔だった。
優しくて、穏やかで、心を許した相手にしか見せないような、全開の笑顔。
その笑顔は、あまりにも僕の知らない岬くんで、僕の胸を鋭く刺し貫いた。
心臓がドクン、と大きく鳴って
横断歩道の目の前で僕の足は縫い付けられたように動かなくなった。
一体、誰だろう。
呆然と立ち尽くしているうちに、二人は楽しそうに何かを話しながら、並んでタクシーを止めた。
自然な動作で後部座席に乗り込み、そのままどこかへ行ってしまう。たった数秒の出来事だった。
でも、僕の心臓を刺し貫くには十分すぎる時間だった。
岬くんがあんな風に、あんなに幸せそうに、全開の笑顔を向けるなんて。
誰なの?どういう関係の人なの?
ぐるぐると回る思考を抱えたまま、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
冷たい風が、さっきまで温かかった僕の頬を容赦なく叩いた。
◆◇◆◇
帰宅後、一人になった僕は、家に戻っても頭の中はさっきの光景でいっぱいだった。
制服のままソファに座ってぼーっとしていても、何度もあの瞬間がフラッシュバックしてくる。
僕の知らない場所で、僕の知らない顔をする岬くん。その光景が、僕の心を掻きむしる。
岬くんが女の子と仲良くしているところを見たのは、これが初めてだった。
岬くんは女の人に興味がないと、僕にそう言ってくれた。
そう信じていた。
それなのに「岬くんが女の人に抱きつかれている」と思うと
胸がキュッと締め付けられるような、鋭い痛みが走る。
でもすぐに「いやいや!岬くんは女の人に興味ないって言ってたじゃん!」
と、自分に強く言い聞かせる。
「でも……あんな笑顔だったよね……」
反芻するたびに、胸の痛みがまた強くなる。
岬くんが僕に見せる笑顔は、どこか遠慮がちで
僕に気を遣ってくれているような、穏やかで優しいものだった。
でも、今日見た笑顔は、そうじゃなかった。
無防備で、子どもみたいに無邪気で、本当に心から楽しんでいるような、そんな笑顔だった。
スマホを手に取って岬くんとのメッセージ履歴を見る。
最後のやり取りは三日前のもの
『明日空いてる?』
『ごめん、用事があるんだ』という短いやり取り。
その時の岬くんの返信は、いつもと変わらない、そっけないような、でもどこか優しい言葉だった。
ベッドに横になっても、眠れるはずもない。
天井の一点を見つめながら、頭の中は岬くんのことばかり。
「まさか浮気……なんてことはないよね?だって僕ら、付き合ってるんだから……」
疲れたとか、呆れちゃったとか、あるのかな?
岬くん自身も不安定な状況にあるかもしれない。
それは、頭ではわかっていた。
だからこそ、僕は彼に負担をかけないように、もっと積極的になろうと意識していた。
「僕が悪いのかな……」
疑問符ばかりが頭の中で渦巻いている。
このままで良いとはとても思えない。
何か行動しなければいけない気がするけど、どうすればいいのか分からない。
僕は何度も何度もため息をつきながら、夜が明けていくのを、ただただ感じていた。
次の日、目を覚ましたものの、全く寝た気分ではなかった。
それでも、学校に行く準備をして家を出る。
岬くんのことを考えながらも、日常的な作業には集中できた。
それは、現実から目を逸らすための、僕なりの防衛本能だったのかもしれない。
授業中も、ずっと頭には岬くんのあの笑顔が焼き付いている。
そして、昨日見た女性についても考える。
長い髪。すらりとした手足。
僕にはない、女性らしい柔らかな雰囲気。
どうして僕は、あんな風に笑わせることができないのだろう。