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「みなさんはって」
亮介は思わず大声で言った。
「院長はどうなさるおつもりですか?」
院長は、なぜそんな事を訊くのか、と言わんばかりの心底不思議そうな表情で答えた。
「私はもちろん、ここに残りますよ。残された患者さんたちと、ここで、最後まで運命を共にするつもりです。当然でしょう?」
「そんな!」
食ってかからんばかりの口調で何か言いかけた亮介を事務長が制止した。
「まだそうなると決まったわけじゃない。希望がなくなったわけじゃありません。みんな落ち着いて!」
院長が顔を上げて言葉を続けた。
「少しでも電気を節約するために、必要最低限の照明と医療器具を残して、全ての電気器具を止めます。そして、まことに申しあげにくいのだが……」
院長は数秒目を閉じ、そして決然とした口調で告げた。
「あと三十六時間で必要な、救急用輸液薬剤は、三十五人分しか残っていません」
誰もが一瞬、その意味するところを理解できず、部屋の中がシンと静まりかえった。やがて全員の呼吸の音が、まるでさざ波のように、じわじわとお互いの耳を打ち始めた。山倉が必死で平静を装いながら問い返した。
「今生存している入院患者は計三十八人。つまり三人を……そういう事ですか、院長?」
院長は深々とうなずきながら言った。
「トリアージ判定が赤の患者さんのうち、三人を黒に判定し直す必要があります。一時間後に、二回目のトリアージを行います」
言葉にならない衝撃がその場の医師、看護師全員に次々と広がって行った。一度は外国での現場を見た事がある亮介も、全身に冷たい物が走った。前回のトリアージは、どれほど悲惨な結果に終わったとしても、あくまで「誰を助けるか」という目的のために行ったものだった。
だが今回のトリアージは違う。今度のトリアージは「誰を死なせるか」を決めるために行うようなものだ。
「まるで、カルネアデスの舟板だな」
山倉がぼそっとつぶやいた。亮介は思わず問い返した。
「何の事ですか、それは?」
山倉は亮介の方をちらっとだけ見て、視線を宙に向け、言葉を続けた。
「古代ギリシャの哲学者が考え出したと言われている、本来は法律学の理論だ。海で船が沈没し、海に投げ出された二人の男がいた。近くの海面には人間一人をやっと浮かばせるだけの板があった。二人同時に板につかまれば、板ごと二人とも沈んで溺れて死んでしまう。そこで先に板にたどり着いた方の男は、板にすがりつこうとするもう一人を突き飛ばして死なせた。後日裁判が開かれたが、仕方のない状況だったという理由で、その男は罪に問われなかった」
そこで院長が口をはさんだ。
「今でも刑法の緊急避難という概念があります。その理論の元になっている逸話ですな」
山倉は小さくうなずいて続けた。
「今の状況はそれに近い。誰かを犠牲にしなければ、より多くの患者さんが死ぬ事になる。それは理解しているつもりだ。だが、カルネアデスの舟板は、あくまで海で溺れている者同士の間での決断だ。いわば患者さんたちの立場だ。この場合、私たちには、誰を板から突き放すか、決める権利があるんだろうか。医者はあくまで医者でそれ以上でもそれ以下でもない。それがこの状況では、まるで人の運命を決める神になれと言われているような気がする」
沈痛な顔つきで院長がまた言った。
「命の選別を、神ならぬ医者がやる事になるわけです。確かに、医師の役割の範疇を越えているのかもしれません。もちろん、後日法律的な責任を問われたら、私が全ての責任を負います。先生方、つらいでしょうが、なんとかお願いします」
もうこれ以上何を言っても愚痴にしかならない。誰もがそう気づいたのだろう。山倉が真っ先にその場を去り、院長以外の医師、看護師は次々に持ち場へ戻って行った。
亮介が去り際にふと振り返ると、院長は机の上に両肘を乗せ、両手を固く合わせて握りしめ、その上に額をあてて、うつむいていた。亮介には、何かに祈っているような姿勢に見えた。
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