プロローグ
ビュウウッと冷たい風がわたしの傷ついた体に襲いかかってきた。傷ついたところが痛くてたまらず、さらに寒くて震えがたまらない。心も傷つき、不安で仕方がない。少しでも力を緩めれば涙が溢れ出てきそうだった。たまらずに、くうんと声を出してしまう。「里緒奈、里緒奈…」里緒奈(りおな)と離れ離れになり、見知らぬ風景の中、一歩ずつ歩いた。本当は走りたかったけど力があまり残っていない。寒さも体を蝕んでくる。
寒くて不安で仕方がないのはわたしだけじゃない。わたしの飼い主、里緒奈もきっとそうだ。里緒奈はウクライナ人と日本人のいわゆるハーフで、体は丈夫ではあるが、寒さに弱く、北風に10分ほど打ちつけられるとすぐにひどい風邪を引いてしまうんだ。里緒奈のことを思い出すと、猛烈に里緒奈に『りり』って呼ばれ、撫でてもらいたくなる。里緒奈、どこにいるの?今、何をしているの? 見渡す限り、ありとあらゆるものが恐ろしい兵器、ミサイルによって散々に破壊されていた。ほんの昨日と今日の明け方までここにはたくさんの人が笑顔でいた。でもいきなりあの恐ろしいミサイルが飛んできていままでの日常が破壊されてしまった。わたしと里緒奈も引き離した。2〜3歳の成犬の私でもなんなのかわからない。でも今は、里緒奈を探さくちゃいけない!早く行って安心したいし、落ち着かせてあげたい。きっと里緒奈もわたしみたいに怖いはずだから。そう思って、小走りで走り出した。
ギャッ‥!左の脇腹に強い熱さと激痛がほとばしった。なんとか痛む首を左後ろに曲げ、痛んだ箇所を見た。そこには新聞紙を破ったような傷が脇腹に長くたなびいていた。近くを見るとまだ火が出ているライターが小さい炎を上げていた。きっとそこに思いっきり当たったんだ。もともと脇腹は傷ついていたからさらに痛みが増してくる。「いたいよ、痛いよ、里緒奈…」少し弱音が出ても里緒奈を見つけるのを諦めるなんてできるわけがなかった。だって里緒奈はわたしの大事な人だから。でもやはり若めの犬は体力が尽きるのは早いようだ。疲れ、止まりかけるたびに全身が痛くなる。
そしてついに限界が来た。くらりとして体が倒れた。でも大好きな里緒奈の名前を呼ぶことはがんとして諦めなかった。「里緒奈…里緒奈…」わたしは意識が遠のっていくのを感じた。最後まで体とこころの傷は少しも癒えることはなかった。
わたしが飼い主、里緒奈一家と暮らしているのはロシアっていうとてつもなく大きい国の隣にある小さめの国、ウクライナ。里緒奈のお母さんは日本人でお父さんがウクライナ人だ。もちろん里緒奈は日本語やウクライナ語はペラペラ。わたしはいつも里緒奈を尊敬しちゃうんだ。だってわたしは犬の言葉しか知らないからね。里緒奈によるとクリスマスなどには、クティアという甘い穀物プリンを食べるんだって!犬用のクティアってあるのかな?今は冬だけど食べられなかったんだ。来年が待ち遠しい!それから里緒奈がね、「次のクリスマスには犬の食べれるクティアを作って上げるからね」って言ってくれたんだ!
わたしは里緒奈のそばにいてくれてありがとうって里緒奈のママは佐々木美里(ささきみさと)って言って、パパはジョー・マイルって言うんだけど二人に言われるんだ!
🐾わたしと里緒奈が出会った日
わたしと里緒奈が会ったのは10月の始めぐらいだったな。パパさんが動物病院で日本から来た動物たちの里親募集の張り紙を見つけてクラウンという名前だったわたしを連れて帰ってくれたんだ。「ただいま、里緒奈。今日は里緒奈の長年の夢がついに叶うよ。」わけがわからないという顔をする里緒奈にパパさんはクレートからわたしをそっと抱き上げた。「わあ!犬!」里緒奈は歓声を上げた。長年ではないけれど動物を飼いたいと思っていたのだ。「アメリカン・コッカー・スパニエルっていう犬種だよ。」そう言ってわたしを里緒奈に手渡してくれたんだ。「かっわいい!」里緒奈はわたしをそう言ってくれたんだ。里緒奈の「かわいい」ほど心に響くものはないと思った。「名前はクラウンって言うんだけど変えられるんだ。もちろんそのままでもいいんだけどね。どうする?里緒奈」「う〜ん。そうだねえ‥ わたしは里緒奈だから、‥この子はりり!りりにするわ!」「りり、か。いい名前だね。」
後日、里緒奈は白と薄いピンクと薄い黄緑のかわいい首輪を持ってきた。骨のキーホルダーのようなところに、りり、と彫り込んでありました。里緒奈からのプレゼントに嬉しかったな。いつもわたしと里緒奈は一緒にいた。これからもずっとずっと一緒だって信じてた。
そんな時、胸に不安が渦巻いてきた。里緒奈の父、マイルと母、美里が曇った顔で話し始めたのだ。「もしかしたらもうじきかもしれない…」「いざという時があるから準備し始めたほうがいいよな」「ええ。一応今日仕事帰りにいろいろ買ってきたんだけど…」そんな会話が聞こえるし、散歩のときに見る人々の曇った顔がわたしの不安をさらにあおってくる。でも大丈夫。だってわたしには里緒奈がいるから。里緒奈がいてくれれば大丈夫。そう信じていたんだ。
🐾不安のうずが巻き始めるとき
夜。わたしは里緒奈の枕元でぐっすり眠っていた。このまえ、散歩で出会った「ウィーナ」という雑種犬と思いっきり遊ぶ夢を見た。「ウィーナ、次はかけっこしよう!」そう呼びかけようとした時。
ウーーーーーー!!!
いきなり大きな音が頭に響き、驚いてわたしは飛び上がった。なになに?なにが起こった?慌てて周りを見て、窓からも外を見る。まだ暗かった。心臓がドキドキと鳴っていた。「ん?りり?どうしたの?」隣で眠っていた里緒奈が目をこすって起きた。と、その時、
ドーン! と大地を震わす爆音が聞こえた。びっくりして思わず飛び跳ね、里緒奈のところに急いで駆け寄った。「く〜ん」それでも音はどんどん近づいてきた。怖くて震えていると里緒奈が優しく話しかけてきた。「りり、りり。大丈夫だよ。怖いね。でも大丈夫。わたしがりりを守るからね」「く〜ん」そうしているとぎゅっと何かが里緒奈とわたしを抱きしめてきた。里緒奈の両親だ。「大丈夫だぞ。里緒奈。りりもだ。」二人は優しく言ってくれた。「通り過ぎたかな?」里緒奈のママがつぶやいた。
「テレビを付けましょう」ママが言って部屋をでてテレビをつけた。
「ロシアの侵攻が開始しました。キーウにミサイルが落ち、今現在も攻撃が続けられています。繰り返します。ロシアの侵攻が開始しました。キーウにミサイルが落ち、今現在も攻撃が続けられています。」「攻撃は20分ほど前から続いています。ぐれぐれもお気をつけください」ニュースキャスターがこわばり、真剣な顔で話していた。わたしは生まれて初めてミサイルっていう言葉を聞いた。だってわたしがもともといた日本は戦争なんて一切無くて、知らなかったんだ。里緒奈も怯えた顔をしていて、パパ、ママは恐い顔で静まっていた。「美里。里緒奈とりりを連れて、ポーランドに、国境に言ってくれ。」パパが唸るように言った。「ポーランドっていうのはウクライナの隣の国だよ。あそこは安全だからね。そこに行ったら安心して暮らせるよ。大丈夫。大丈夫だから」里緒奈が言ってくれた。でもそれは自分に言い聞かせているようでもあった。不安のうずが渦巻いていた。
🐾ウクライナを出る
次の朝、わたしたちが起きる前にママはどこかに行ってしまった。パパは里緒奈に荷物を入れるように言っていた。里緒奈は指示に従い、必要なものを袋に入れていった。
お気に入りのぬいぐるみ、同じくお気に入りの洋服、わたしのごはんの器にドッグフードとおやつ、毛布や自分のお菓子と食べ物…いろいろ入れていた。ふと、隣にいるパパを見るとパパはごはんやママや里緒奈の着替え、たくさんの飲み物にごはんを入れていた。そのなかには里緒奈たちの好物のキャンディも入っていた。それからたっくさんのお金が入ったオイスターホワイト色の袋など。全部里緒奈やママのだった。わたしのも入っていたがパパのは一切入っていないと思う。
夕方ごろママが帰ってきた。どうやら買い物に行っていたらしい。ミルクとパン、お菓子、レトルト食品でもどれもちょびっとだった。ティッシュペーパーでさえほんの一箱しかない。「パパ。パパは荷物持っていかないの?」里緒奈が訪ねた。と、言いにくそうなパパに変わり、ママが答えた。「‥18歳から63歳までの男は国を出てはいけない命になってるの。総動員令って言うのよ」
「え?それじゃあパパは一緒に行けないってこと?」里緒奈は今にも泣き出しそうだ。わたしは里緒奈のほおを舐めた。「ありがと。りり」里緒奈はわたしに微笑んでくれた。「里緒奈、パパも国境までは一緒に行くからさ」「そうよ。ね?元気をお出し。」里緒奈の両親も励まし、里緒奈は泣き出さなかった。よかった。里緒奈の悔し涙や悲し涙ほど悲しいものはないから。そして次の日、里緒奈一家はもちろんわたしも連れて車で西に向かって走った。西には隣の国、ポーランドの国境があるんだ。昨日、おとといはたいそうな渋滞だったらしく、おとといはミサイルがドライブインにも落ちたという。昨日はがれきで車の流れが遅かったんだ。西に向かう途中、時々爆音がわずかに聞こえてくるときもある。怖がっていると里緒奈が撫でてくれた。それだけでわたしは安心した。渋滞の中、なんとかウクライナとポーランドの国境近くに到着した。「里緒奈。りり。パパはこれ以上行けないんだ。」
「…」里緒奈は返事をしなかった。パパはわたしの見て言った。「りり。里緒奈とママを頼んだよ。」寂しげな笑顔だった。だからわたしは「ワン!」っと大きな声で返事をした。でも自信満々に言ったわりには弱々しい頼りない声だった。「りり、そんな声出さないでよ。わたしまで悲しくなっちゃう。」里緒奈が言った。「じゃあな。美里、里緒奈、りり!」「パパ‥」「く〜ん」家族みんなが寂しがった。姿が見えなくなった後、ママは「ほら、里緒奈。りりを連れて行くよ」と呼びかけた。「うん…」と里緒奈がうなずいたその時、ウーーーーーーー!っと大きな音がした。「まさかここにもミサイルが落ちてくるの?…」里緒奈とママのつぶやきが重なった。 と、ドーーーーン!と大きな音がとどろいた。この前聞いた音とは比べ物にならないくらい大きかった。「里緒奈!りりをちゃんと抱いて!逃げるよ!」ママの声がする。「うん!」里緒奈が大きくうなずいた。でも…
🐾離れ離れに
ドーーーーン!ドーーーーン!ドドーーーーン! ミサイルが立て続けに降ってきた。と、ドーーーーン!とひときわ大きな音が響いた。地面が揺れ、わたしは突然のミサイルと爆発音、たくさんの人の悲鳴や様子、パニックになっている人たちで自分もパニックになり、怖くて里緒奈の腕から飛び出した。「あ!りり!待って!りり!りり!だめ!待って!」わたしは頭が真っ白でそんな言葉は耳に入らなかった。でも、「火事だーーー!」という男性の声で我に返った。はっ!里緒奈!「わおーーーーーーん!」わたしは里緒奈を思い、叫んだ。でもたくさんの人の声にかき消され、届かない。もう一度吠えようとした時、「みんな!逃げろ!国境側に火がでたぞ!」という声で西を見た。
そこからは火がのうのうと立ち始め、けむりもでていた。里緒奈を探そうと周りを見渡し、見つけた。黒い長い髪をした女の子。もう一度、「わおーーーーーーん」と吠えた。でもやはり届かない。里緒奈の方に全力疾走しようとしたその時、うっ… 体が痺れた。その他にもなんだか頭がもうろうとしてきた。せきも止まらない。「里、緒奈…里緒奈…‥行かないで…」それだけ言うのがやっとだった。わたしはそれっきり気を失った。
🐾友達
…うう〜 ううっ、うえ どれだけの時間がたっただろう?全身に染みるひどい痛みで目を覚ました。あちこちがひどく痛む。 ええと、何があったかな。ええと、ミサイルが飛んできて、火事が起きて… 里緒奈!わたしは慌てて起き上がろうとした。でもひどい痛みとやけどのせいで上手く起き上がれなかった。やっとのことで起き上がるとまわりはひどかった。粉々に砕けたビルやマンション。倒れた家やスーパーマーケットなどがあった。さっきまでの光景とは大違いだ。「里緒奈!里緒奈ぁ!」わたしは大事で叫んだ。でも誰も居なかった。気配すらなかった。歩いていると細めの黒い犬を見つけた。その黒犬もケガをしているようだった。その黒犬に向かってわたしは無理をして走り寄った。
近くに行くとその黒犬は思ったよりわたしより大きかった。胸元からお腹のあたりにかけて白い毛が生えていた。「こんにちは」わたしは声をかけた。「こんにちは」黒い犬も返事をしてくれた。その声は思ったより幼かった。「君、なんていうの?」わたしは黒い犬に聞いた。「わたしはクラウディア」「わたしはりり」「りり?なんか聞き慣れない発音と名前だね?」「うん。まあね。クラウディア、君の飼い主はどこにいるの?」「わたしの飼い主?飼い主って何?おいしいの?」クラウディアの返事にわたしはとても驚いた。飼い主を知らないの?「わたしはほら。そこの小山で暮らしていたから。」クラウディアが指し示したところを見るとそこは深緑の森がある小さい小山があった。「野良犬なんだね… じゃあお母さんは?」「…お、母さん」「う、うん。そうだよ。」「わかんない。わかんない。」「へ?」「狩りをしに行ったら戻ってこなかった。多分なんかあったか‥新しい飼い主が見つかったか。」クラウディアの声はひどくかすれていた。振り絞って出したような声だった。「何歳なの?」「産まれて2、3ヶ月ほど」わたしは驚いた。まさかの一歳未満の子犬だったなんて!「ねえねえ。里緒奈っていう長い黒髪の女の子見なかった?」「う〜ん。ごめん。見てないな。」「そっか…」残念そうに唸った。「ね、ねえ。」クラウディアが話しかけてきた。「なあに?」「あのさ、君は里緒奈を探していて、わたしはお母さんを探しているでしょ。だから、その、一緒に行こう。一緒に探そうよ。」そんな頼みをされるなんて誰が思うだろう。でも年下ということもあり、優しく言った。「いいよ。そのかわり、ただ一緒にいるってだけじゃだめ。友達としていなくちゃ。わかった?」「うん!分かった!」クラウディアは返事をした。
しばらく歩いてくるとミサイルによって破壊されていた町がだんだん怖くなってきた。クラウディアに至っては、へっぴり腰で鼻をぴすぴす鳴らしている始末。「大丈夫だよ。クラウディア」そうなだめてもやっぱり自分も怖い。寒い風が打ちつけてくる。二人とも傷に風が染み込んでひりひりする。「早くここを抜けない?探しながら。」クラウディアはためらいがちにわたしに言ってきた。「そうだね…里緒奈…里緒奈、どこにいるの?」「お母さん、サニー姉ちゃん、サンデー兄ちゃん、レイニー、レニー…」寂しく呟くクラウディアに「少し小走りで行こっか」とさりげなく言った。「そうだった」クラウディアは慌てて言うと二人一緒に小走りで走った。
ギャッ…!左の脇腹に強い熱さと激痛がほとばしった。なんとか痛む首を左後ろに曲げ、痛んだ箇所を見た。クラウディアも心配そうに見つめるがわたしはそんなのは目に入らなかった。そこには新聞紙を破ったような傷が脇腹に長くたなびいていた。近くを見るとまだ火が出ているライターが小さい炎を上げていた。まさか…まさかライターに当たったんじゃ‥ 「りりねえ、大丈夫?あの火に思いっきり当たったよ‥」もともと脇腹は傷ついていたからさらに痛みが増してくる。クラウディアが支えてくれた。でもやはり若めの犬は体力が尽きるのは早いようだ。疲れ、止まりかけるたびに全身が痛くなる。
そしてついに限界が来た。くらりとして体が倒れた。でも大好きな里緒奈の名前を呼ぶことはがんとして諦めなかった。「里緒奈…里緒奈…」わたしは意識が遠のっていくのを感じた。最後まで体とこころの傷は少しも癒えることはなかった。クラウディアが「りりねえ!りりねえ!」と叫んでいたが、だんだん聞こえなくなってきた。
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