テラーノベル
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それから、三日が経った。ついに、計画を決行する時がやってきた。研究員の深夜巡回すらも終わり、最も闇が濃くなる午前三時頃、僕は動き出す。
僕は、油をたっぷり染み込ませた段ボールと紙くず、それから木材と残りの油を持ち、マッチをポケットに隠して、所長室へと向かった。この部屋には、研究の核となる重要なデータがたくさん詰まっている。
扉と床の隙間から、段ボールを通して部屋の中に押し込み、そこから更に油を大量に流し込んだ。そして、部屋の前に紙くずを置き、マッチで火を放つ。すると、炎はあっという間に燃え広がり、所長室を覆った。そして、火災報知器が鳴り響く中、僕は最後の仕上げをする。
“From Chrom Lowell”
廊下の壁にそう書き残して、僕はしばらく側で身を隠すことにした。
それから間もなくして、博士の絶叫が研究所中に響き渡った。
「この痴れ者があああああ!!!」
所長室は、既に中まで火が回っている。今から鍵を開けて、消火器を持って来たところで、間に合わない。彼は、ただその様子を目の当たりにしながら、膝から崩れ落ちることしか出来なかった。
「私の、私の研究が!カルシアの、カルシアの全てが……!クロムめ!八つ裂きにしてくれるわあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
博士は、僕の名を呼びながら、気が狂ったように喚き散らす。しかし、彼が僕を八つ裂きにする機会など、永遠に来ない。せいぜい絶望するがいい。
「あなた!しっかりして!何を馬鹿なことを言っているの!一斉避難指示を出してちょうだい!」
半ば正気を失いかけている博士を、カリーナ叔母さんが叱責する声が聞こえる。その声は、いつも怯えている姿からは想像もつかないほど険しい声だった。これにはさすがの博士も抗うことは出来なかったらしい。間もなくして、彼の震え声がスピーカー越しに響き渡った。
「……全職員、被験者は、直ちに屋外へ避難せよ!繰り返す!全職員、被験者は、直ちに屋外へ避難せよ!」
一斉避難指示が出ると、三階から研究員たちがバタバタと階段を駆け降りる足音や、突然の出来事に騒然とする声が、パチパチと鳴る火の粉の音の合間を縫うようにして聞こえてきた。僕は、彼らが階下へ降りたのを確認すると、更に油を撒き、炎を拡げていく。僕の全てであるこの計画は、着実に終幕ヘと向かっている。燃え広がる炎を見つめ、心が満たされていくのを感じたその時だった。
「クロム!どこだ!クロム!」
どこかで、聞き覚えのある声が僕の名を呼んでいる。
(コバルトお兄さん…?)
それは、間違いなく彼の声だった。恐らく、避難する人だかりの中に僕の姿が見えないことに気が付いて、捜しにでも来たのだろう。感情的で愚かなあの男のしそうなことである。
「クロム!良かった、無事だったか!早くここから出るぞ!」
彼は、僕の姿を見るなり安心したような表情を浮かべ、手を差し出して来た。しかし、僕はそれを静かに拒み、けろりとすまして見せた。
「……コバルトお兄さん…それに、セレンお兄さんまで。どうして来たんだい?放火犯を捕まえにでも来たの?」
「…どういうことだ?」
顔色を変えて驚くコバルトに、僕はいつもの通り淡々と答える。
「どういうことかって?……これは、僕が博士に復讐するために起こした火災だってことだよ。…僕は、博士の死んだ妹の子供でね…でも、不貞の子だったから、博士は僕を忌み嫌っていたんだ。だから、『お前は誰からも必要とされない存在だ。私はそんなお前を引き取ってやったのだから、お前は私に尽くして当たり前だ』なんて言って、僕を虐げ、ずっと濃き使っていた……だから、僕は、ずっと、ずっと準備してきたんだ。いつか必ずやり返すってね」
そして、呆然とする彼に対し、僕はにこやかに言い放った。
「博士は、カルシアの病気を治すためだけにこの研究を続けている。だから、その研究データも、この研究所も、全て燃やしてしまえば、博士は娘を救う術を失って、娘が苦しみながら死んでいく姿をただ見ていることしか出来なくなる。そして、僕が此処で死ねば、博士は娘の仇に復讐すら出来なくなって、完全な絶望に陥る……どうだい?完璧な復讐だろ?」
僕は今、自分でも分かるほどに、心から笑っている。人生で、これほどまでに満たされた瞬間があっただろうか。
一方で、コバルトは酷く動揺している。自分たちが恐ろしい計画に加担させられていたことを、受け止め切れずにいるようだった。
「…俺たちに夜間巡回の時間を利用させてほしいと言ったのも、このためだったのか?」
「あぁ、その通りだよ。お兄さんたちが夜間巡回の時間を利用させてくれたおかげで、僕の計画は想像以上にスムーズに進んだ。感謝するよ」
僕が平然と答えると、今まで黙っていたセレンが口を開いた。
「なるほどな。お前が何か隠してるように見えたのは、そういうことだったか」
そして、彼は呆然と立ち尽くすコバルトの方に向き直り、冷静に告げる。
「コバルト、戻るぞ。ここはもう持たない」
「だが、セレン!クロムが……!」
「これはクロムが望んだことだ。オレたちには止められない。行くぞ、コバルト!」
そうして、彼は感情的になっているコバルトの腕を掴み、引き摺るようにしてその場を立ち去った。やはり、最後まで聡明な人間だった。
僕は、彼らの背中を見送った後で、咳混じりに呟く。
「そうだ、これで…いいんだ……これで、やっと…」
肌に痛みをも感じる熱気の中、目眩が襲い掛かり、だんだんと意識が薄れていく。そして、身体が床に強く打ち付けられた時、僕はこれから死ぬのだと実感した。
しかし、そこには苦痛も後悔も無ければ、恐怖も感じない。僕の胸は、深い安堵と、呪われた生から解放される幸福でいっぱいだった。
こうして、僕は業火の中で最期を迎えた。
──結局のところ、僕の生は、全てを在るべき形に戻すために与えられたのだと思う。僕は、母親の罪の証として生まれ、多くの人間に取って地獄だったあの場所を破壊した。結果、罰せられるべき人間が罰せられ、解放されるべき人間が解放された。
そして、本来であれば存在してはならなかった僕自身も、役目を終えると、炎の中に消え、救われた…
きっと、僕の選んだ結末は、多くの人間に取って理解し難いものだったと思う。中には、そうでない人間もいたようだけれど…全てから解放され、この果てしない『無』の中にいる今となっては、どうでも良い。
今はただ、僕の長い地獄に、何か意味があれば良かったと、願っている。そして、しばらくは、あの二人とこの場所で再会しないことも。
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