〽見えない壁のこちら側で
幼い私 ただ不貞腐れていた
僅かな燭台が揺らぐばかりの足元も覚束ない薄暗さに、ただでさえ息苦しい狭さの劇場に人々が所狭しと詰めかけている。家畜小屋のような有様だが、男も女も不快感を露わにする者はいない。顔をにやけさせて期待する者。空であることを忘れて何度も杯を呷る者。懐を抱くようにして落ち着かない者。劇場の外の昼日中の営みから外れた者たちが、口を閉ざし、爛々と輝く目を一方向に向けている。視線は束ねられ、一つになって注がれる。
好奇の眼差しを一身に浴びるのは人ならざる存在。乙女の形をしているが、朱子織りの羽根が生えており、赤ん坊の半分くらいの背丈で磁器の肉体だ。羊毛を染めた黄金色の巻き毛に熟れた葡萄のような黒い硝子の瞳は生い茂る山羊の髭の睫毛に隠れがちで、釉に濡れた頬は薔薇色に染まっている。憂愁を湛えた唇は柔らかげに閉ざされていた。
そして鳥籠の中に鎮座している。
〽ざわめく予感に誘われて
意を決するなんていつ以来?
ひしめく不安を押しのけて
重い扉を押し開く きっと何かが待っている
小さな乙女は鳥籠の中で意を決したように立ち上がり、人々を一通りねめつけると細い格子を握りしめ、ふと白い歯を零す。喉が小刻みに震え、舌が力強く踊り、紅の唇の間から魔性の歌が響き渡る。何もかもを貫き刺すような歌声は、劇場に居並ぶ聞き手たちを仰け反らせた。そして観衆は応えるように呻き声の如き歓声で劇場を満たす。
それでもなお乙女の隔絶した歌声は他の誰の声にも圧倒されることなく、聴衆の魂を鋭い爪で鷲掴みにして容赦なく揺さぶり、怪物を潰す魔の酒にも劣らない無慈悲さで酩酊を催させた。
人々は躊躇いなく御捻りを乙女の方に投げて寄越す。鈍く輝く硬貨が土砂降り雨のように床を打ち、鳥籠の周囲に山と積まれる。激しく床を打つ音さえも脇役にして乙女は歌い続け、人々はされるがままに酔いに呑まれて、何もかもを捧げる。
〽暗黒に一ツ星 悲しそうに瞬いて
透明な雑踏 私と君だけがいたんだ
絶えず降る流れ星 風のように鳴り渡り
薄衣のように 壁は取り払われてしまった
手を打ち鳴らし、足を踏み、一歩踏み出し、手を伸ばす
伏しがちな乙女の視線が僅かな光の揺らぎを捉える。劇場の入り口の扉が少し開くと、華奢な少女が身を滑らせて入って来た。上質な絹の衣装は場違いだが、上流の出で立ちとはいえ少女のなりは細民の少年少女と変わらぬ痩せっぽちだ。よくよく見れば髪も肌も肌理細やかで生活の豊かさを伺えるが、傍目には分からない。
少女は酸いも甘いも何も知らない無垢なる子供に過ぎない起居振舞だった。身を庇うように両手を握り、崖際を歩くように歩を進める。不安そうに、あるいは何かを探すように辺りを見渡している。少女は家畜の群れの如き雑踏に圧倒されている様子だが、ふと清らかな眼差しが乙女を見出し、希望に触れたかのように煌めく。迷い込んだ少女と歌う乙女、二人の視線が交差した。
まともな思考を奪う毒の歌を歌う魔性の乙女は恥じ入り、しかし口を閉ざすことはできない。せめてもの抵抗を示すように涙を滲ませるが、邪な歌は迸る。
夢見るような瞳を持つ少女は見る間に人混みに呑まれて消えた。
〽静かに響く心臓 追い立てられてひた走る
硝子細工のように脆い君を壊さぬように
羽根か綿毛のように軽い君を離さぬように
人々の間に漣のような騒めきが起こる。その異変は少しずつ鳥籠の方へと近づいてきて、とうとう鳥籠が大きく揺れた。伸ばされた小さな手が細い指が鳥籠を開き、小さな乙女を優しく握ると、囚われの檻から引っ張り出す。
喧騒は騒乱に。夢から覚めた者たちが夢を取り戻そうと怒鳴り散らしながら手を伸ばす。小さな乙女を抱えた少女は大人たちの手を掻い潜り、酔いの醒めた劇場を飛び出した。
劇場にわだかまっていた濁った空気を洗い流すような、南の国と見紛うような眩い太陽が輝き、爽やかな風が少女の髪を弄ぶ。足の縺れる観客たちは少女の足にさえ追いつくことはなく、乙女は自由の空気を吸い込んだ。
酒の他には酔いを知らない人々の行き交う大通りを抜け、堅固な城壁を誇る街を飛び出す。少女の指につかまる乙女の目の前で長閑な田園風景が過ぎ去り、整然と糸杉の並ぶ道を飛び越え、大きな屋敷へとたどり着く。跳ねるように、踊るように少女はそのまま自室へ飛び込むと、ようやく乙女を解放した。
〽私だけの処世術 その場しのぎに微笑んだ
力強い歌唱に思い乗せて声出す君に
厚い壁の向こうに置いてきぼりにされた君に
月を眺めるようなうっとりとした眼差し、愛の言葉を尽くした後のような柔らかな微笑みを見上げ、魔性の乙女は一言一言確かめるように感謝の言葉を告げる。
しかし声は止まらない。言いたいことが溢れ出すのを止められないかのように乙女は少女に縋り付き、そして身を捧げるように歌を捧げる。それは毒の歌ではない。ただ純粋に歓喜と感謝の念を表す歌だ。魔性の体の身の内にある全てを差し出すように歌をうたう。
少女もまた幸福そうに身を揺らし、ささやかに手を叩く。乙女は高鳴りを押さえつけるように胸を押さえ、最後の一滴まで絞り出すように歌いきる。そうして歌を称えるべく拍手する少女に感想を尋ねた。
しかし少女は困ったように微笑み、自身の耳を指さして首を振る。
〽ここは隔たりのない世界
心開くのはいつ以来?
言葉を紡ぐ君と私
こんな私は初めてだ ずっと一人で浮かれてた
二人は共に暮らした。共に青々とした庭を駆け回り、広い屋敷で隠れん坊をする。共に腹を満たし、同じ夢を見る。筆談で談笑し、互いに教師、生徒になり、多くの事柄を教え合う。家の者の前で人形のふりをする。緑に輝く田園を眺め、日がな一日お喋りをする。乙女が歌をうたうことはなかったが、それはずっと幸せな暮らしだった。
愛する少女のためにできることは沢山ある。その中に歌が無いだけだ。
〽恐る恐る笑み零し 1人扉を叩いていた
本当の感情 知ろうとしていなかったんだ
私の罪滅ぼし 壁の中は慣れているけど
もう昔には戻れない 見えない壁はもういらない
一日の終わりを鮮やかな赤から紫へと染め上げる夕暮れ。少女の自室の彩も移り行く。夕食前には手紙が部屋中に溢れている。
乙女はただ一枚の手紙をじっと見つめ、少女は乙女を見守っていた。小さな手紙の会話の中には、『どうして歌をうたわないの?』と書いてあった。少女は雄弁な眼差しで乙女を見つめている。その答えを待っている。
乙女は一筆一筆丁寧に、許しを乞うように、慰めるように書きつける。少女の問いへの答えは、『あなたのためになることをしたいだけ』と書かれた。
乙女の書いた乙女の歌のような滑らかな文字を読み、少女は蓋をするようにただ目を伏せた。
それでも日々は過ぎていく。大きな違いは何もない。しかし乙女と少女のすれ違いが数を重ねる。二人は共にいて、心は遠くにあった。幸福な日々は少しも減らないが、手紙は少しずつ減っていき、寂しさが厚みを増していく。
〽溢れる言葉止めどなく 君の光に手を伸ばす
君に宛てた想いと優しい君を苛む棘に
嫌ってほどに知っている 厚く薄い見えない壁に
日々の中、何気なく交差した少女の憂いを帯びた眼差しに、乙女は不安を見出す。少女が何かを伝えようとし、しかし引け目を感じている。手紙に書き損じが増えていた。言いかけて、言い淀むような文の連なりがあった。乙女の予感は確信を強める。
いつの頃からか少女は夜ごと机に向かって何事かを書きつけていた。しかしそれが乙女に手渡されることはなく、机の引き出しの奥に仕舞い込まれる。恐ろしくて恐ろしくて、渡されない手紙を盗み見することはできない。ひたすらすれ違いから目を逸らす。
〽託されるのは想いだけ 二つの光が交じり合う
震える手はどちらの手? 分からないから嬉しいんだ
君の心に包まれて 私の言葉が放たれる
雲の霞むある月夜、とうとう少女はかつて歌うたいだった乙女に手紙を差し出した。乙女は怖くて、悲しくて文字が滲む。何を悔いればいいのかも分からず、目を背ける。
しかし少女がいつもの素敵な微笑みで、乙女の涙を拭い、手紙を読ませる。
それは言葉だったが、破局を示すものではなかった。それは乙女のための詩だった。そして最後には少女の想いが綴られていた。
『音じゃない。声じゃない。聞こえなくてもあなたの歌が大好きだ。空気の震えに身震いし、歌う姿が目に焼き付いたんだ。わたしのために歌ってちょうだい』と記されていた。
〽耳にするのは二人だけ 響きと調べが交じり合う
私の歌が君の歌 溶け合うように一つになれば
いつか君も気づくだろう 救われたのは君だけじゃない
乙女は声高らかに歌う。誰に命じられたわけでもなく、誰を陥れるわけでもない歌を。少女の歌を、少女のための歌をうたう。
少女は拍子に合わせて身を揺らす。心を委ねる。
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