コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ジゼル・アシュバート! 本日をもってお前との婚約を破棄する!」
ここはヴィリアーズ侯爵の所有する白亜の豪邸だ。
その大理石の広間に、候爵令息アルベルト・ヴィリアーズの声がはっきりと響いた。
かわいそうに、せっかくカウチに腰かけて紅茶を飲みかけていたヴォヴァリー男爵夫人は、紅茶を噴き出しそうになって盛大にむせた。
「ウォッホン! ゲホ、ゲホ……ああびっくりした。婚約破棄!? 本当にこんなこと、あるのですね」
柳眉をひそめた夫人に対して、近くにいた紳士の一人が、
「ああ、あれは大丈夫ですよ」
と声をかけた。
「この侯爵邸の名物のようなものです。ご婦人、失礼ですがあなたは今宵が初めてのご参加ですか?」
「え、ええ……先月、南から居を移しましたの。今日はヴィリアーズ侯爵夫人のお招きで」
「それはそれは。ゆったりとご覧になったらいいのです。当のジゼル嬢はあちらです……ほら、あのご令嬢」
「まあ、なんて美しいの! 紅色の髪が光り輝くばかり。あの方の御髪の前では、侯爵ご自慢の最高級ベロアのソファも霞んでしまうわ」
「そうでしょうとも。辺境伯とはいえ、アシュバート家といえば、ここいらでは有名な貴族です。辺境伯の末娘があのジゼル様。美貌、才覚、財力。貴族としての資質。どれをとっても余りある、まさに完璧なご令嬢なのですよ。そして、あのふんぞり返った美少年が、そのジゼル嬢の婚約者のアルベルト様」
「まあ、アルベルト様も輝くようなお姿ね。金の髪にヘーゼルの瞳。まるで天上の天使のようなお顔だわ」
「顔は間違いないのですがね……中身が。いやはや、失敬。口が過ぎましたな。ごゆっくり楽しまれてください」
「でも、どうして皆様、ご心配にならないのかしら? 婚約破棄なんてセンセーショナルな話。侯爵夫妻も呆れた顔でご覧になっているだけで、止めもしないのね」
「はは、これで3度目ですからな」
「3度目!?」
「さよう。1度目は13才のときのジゼル様の誕生日会。2度目は19才のとき。辺境伯が賞を賜ったときのパーティーでしたな。そして本日、侯爵家存続120年を祝う会での、|こ《・》|れ《・》が3度目というわけですよ」
「まあ」
その騒ぎの中心で、当の令嬢ジゼルは静かに紅茶を飲んでいた。
カップを置く手つきも、ゆったりとして美しい。
紅色の巻き髪を一房耳にかけ、鳥のように優雅に、ジゼルは伏せていた睫毛をあげた。
「まあ……アルベルト様。今度は、どんな理由で破棄なさるの?」
ジゼルが穏やかに問うと、アルベルトは少し気まずそうに咳払いをした。
「こ、今回は……そうだな、ジゼル。お前は、カエルが怖くないだろう?」
「ええ。小さいころから平気ですわ」
「そうだ! お前は手掴みでカエルを触っていた! それが問題だ!」
広間中が沈黙する。
アルバートは真剣な顔で続けた。
「いみじくも未来の妻たる者が、カエルを素手で掴めるなど……淑女らしくない! こんな婚約は破棄だっ!」
もはや誰もが沈黙していた。
シンッとした空気が肌に刺さりそうだ。ヴォヴァリー男爵夫人が口をあんぐりと開け、急いで扇子で隠した。
彼女は先ほどの紳士にひっそり囁いた。
「いったい何が起こっているの? この土地ではカエルが婚約破棄の理由になるのかしら?」
「いいえマダム。どこの国でもそんなことはないと思いますよ」
と、紳士が教えた。
「いわゆるイチャモンというものです」
だがジゼルは、微笑んでいた。
「アルベルト様。これで『3度目の婚約破棄ごっこ』ですわね」
周囲の空気が凍りつく。
『ごっこ』ときた。
まるで、アルベルトの唐突な宣言が遊びのように扱われている。
さすがにアルベルトの眉がぴくりと動く。
「ごっこ、とは何だ!」
「だって、前回突っかかっていらっしゃった件は『笑い方が上品すぎて庶民に人気が出ない』でしたし、その前は『タロットカードの運勢がいつも強すぎる。いんちきだ』という理由でしたでしょう?」
「うっ……!」
「これが、ごっこではなくて何なのです?」
「うっうるさい! では、では……そうだ! 俺は真実の恋をしたのだ!」
ジゼルはティーカップを傾け、一口紅茶を飲んだ。
「なっなんだその目は! 相手は⋯…そうだ、相手は、男爵令嬢ベティルダだ! どうだ、転入してきたあのベティルダは俺にゾッコンなのだ。だから婚約は無しだ!」
ヴォヴァリー夫人が息を呑んだ。
他の貴族連中も、固唾を呑んでその場の成り行きを見守った。
美しき令嬢ジゼルは、長い長い沈黙の後、小さなため息をついた。
アルベルトは知らなかった。
言ってはならない禁忌があることを。
ジゼルの長い睫毛がゆっくりと動き、紅色の双眼がアルバートを捉えた。
「わたくしは、どんな理由であれ、婚約者のご意志は尊重いたします。ですが――」
室内の気温が数度下がった気がして、貴族たちはぶるりと体を震わせた。
薔薇の柄の紅茶のカップが音もなく置かれる。
辺境伯の末子、令嬢ジゼルは微笑み、静かに宣言した。
「婚約破棄も3度まで。今回の申し込み、承諾いたします」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
「3度も婚約を破談にしようとなさるとは、それほどまでに私がいたらなかったのでしょう。私はアルベルト様の目の前からお暇いたしますわ」
侯爵と侯爵夫人が走り出てきて、血相を変えながら両手を振り回した。
「ちょ、ちょっと待て!」
「いけません! いけませんわ! そんなことっ」
「話し合おう、ジゼル! 息子は錯乱しているんだ! 昨日毒キノコでも拾い食いしたんだろう」
「セバスチャン! うちのバカ息子を早く捕まえてここに引きずり出してきて!」
「はい、奥様ッ」
セバスチャンが走り出すよりも先に、ジゼルの横から進み出た侍女が、候爵たちに羊皮紙の束を渡した。
「失礼いたします。こちらが婚約破棄の証明書、そして関係書類一式です。お嬢様のサインは記入済みです。はい、お持ちになって下さい。今後は何かありましたら、辺境伯家に人を寄越して下さいませ」
「それでは、これまでの間、お世話になりました」
ジゼルは水鳥が湖を滑るように、するすると退室した。
侯爵が、ガックリと膝を突く。
侯爵夫人は涙を流した。
「あら、まあっ? お別れになったということ?」
ヴォヴァリー夫人が囁いた。それを皮切りに、貴族たちが口を開いた。
「ついに破棄か!」
「こうしてみると長かったわね」
「幼なじみの縁もこれまでか。うちの嫁にどうかな? ダメ元で打診してみるか」
「いや、あれほどの賢妻はあるまいて。もったいないことを」
「ジゼル様、お可哀想」
それは暫く貴族間で語り継がれる、令嬢ジゼルの完璧な『退き際』だった。
*
「……おかしい」
侯爵令息アルベルトは、王宮の自室で頭を抱えていた。
婚約破棄宣言から三日。ジゼルからはまったく音沙汰がない。
父親である侯爵にはステッキを振り回されて怒鳴られたし、母親は泣いていた。
でもそれは、アルベルトには想定内だった。
そもそも昔から両親は、ジゼルをちやほやしすぎていた。いくら幼なじみで、許婚だからって、ジゼル、ジゼル。
ちょっとジゼルが賢くて、可愛くて、知識もあるからといって、どうしてあそこまで重宝するのだ。
「この侯爵家の跡継ぎは俺だぞ?」
アルベルトは不機嫌に立ち上がった。
これまで、なんだかんだといつもジゼルはアルベルトを許してくれた。
一度目の婚約破棄も、アルベルトにビンタをしようとする侯爵を止めたのはジゼルだった。
二度目の婚約破棄では、激昂した母親が怒りの余りに卒倒しかけていたのを、抱き留めたのもジゼルだった。
それに、毎回、婚約を止めるとわめくアルベルトに、どうしてそう思ったのかと根気強く尋ねてくれた。
ジゼルとは不釣り合いだと言われた、とか、顔だけの跡継ぎだと陰口を叩かれた、とか。
そういう理由を聞き出しては、仕方が無い人ね、とアルベルトを抱きしめてきた。
ジゼルはそういう女性だったはずだ。
なのに。
「なぜ連絡がない?」
今回のことだって、ジゼルの友人の令嬢たちが話しているのを、たまたま聞いてしまったからなのだ。
「ジゼル様ったら、おかわいそうに。もしも婚約などしていなければ、王立アカデミーに特待生として選ばれていたのに」
「本当にもったいないこと」
「特待生は、女性としては初の快挙なのでしょう?」
「素晴らしい成績だったもの。同期のわたくしたちも鼻が高いわ」
「だけど、侯爵家とのお約束を違えるわけにはいかないとのことなのよ。全く義理堅い方だわ」
「ええ、あの悪癖さえなければ、完璧ね」
「うふふ、そうね。まあ、あの熱量というのは才能よ」
「応援したくなるものね」
偶然立ち寄った木陰の裏で耳に入った噂話。
アルベルトはそれで、婚約を先延ばしにしようと思ったのだ。
本当に義理堅いジゼルのことだから、破棄までしなければ、きっと入学の決意はしないだろう。
いや、フリでいいのだ。
いつものように婚約破棄ごっこをすれば、きっとジゼルは聞いてくれる。
婚約破棄の理由はどうしてか? と尋ねてきたら、ジゼルにアカデミーに行って欲しかったから、と答えるのだ。
そうすれば、健気にジゼルを想うアルベルトの気持ちを評価してくれるに違いない。
ありがとう、と言って、ぎゅっとしてくれるかもしれない。
それなら、4年、いや、6年くらいだってアルベルトは待てる。
だけど、ジゼルのあの反応は予想外だった。
「……まさか、本当にきっぱり、婚約を諦めたのか?」
そう考えた瞬間、胸の奥がずきりとした。
悔しいわけではない。
腹が立つわけでもない。
ただ、痛い。
そして、アルベルトにとって、更に都合の悪い噂が耳に入ってきた。
執事のセバスチアンが重々しい表情で、おやつのスコーンを持ってくるなり口を開いた。
「アルベルト様、ご存じでしょうか。ジゼル様、本日づけで王立学術院(アカデミー)に特待生として採用されたとか」
「え」
あまりにも動きが早い。
早すぎる。
まるで婚約破棄があることが分かっていたかのような――。
「それがですね、どうも以前からスカウトされていたらしく……この三日間でスムーズに手続きが行われ、めでたく女性初の特待生におなりになったとか」
「……は?」
「首席の挨拶をされるそうですよ」
言われた言葉が頭の中で空回りする。
首席? ジゼルが?
「だ、だから何だ。あいつは俺の――」
そこまで言ったところで、喉が詰まった。
『俺の婚約者』と言おうとしていたけれど、もう違う。
ジゼルとの婚約は、自分が切り捨てた関係だ。
その現実が妙にほろ苦い。
油断すれば涙が出てきそうだ。
「……ふ、ふん。いいだろう。あいつが少し目立ったところで何だ。どうせ調子に乗っているだけだ。俺が呼べば戻ってくる」
そう呟きながらも、アルベルトの胸のざわつきは強くなるばかりだった。
*
その夜。
アルベルトは自室でセバスチャンから報告を受け、とうとう椅子から跳ね上がった。
「アルベルト様。その……念のため、お伝えしておきますが。ジゼル様が、『賢者殿』に随行されることになったそうです」
「……誰の、だって?」
「王命の賢者殿です。ジゼル様が指名されたと」
血の気が、どっと引いた。
「……は? 賢者の随行? なんで……なんでジゼルなんだよ」
「いやあ、女性初の特待生ですからねえ。それに、辺境伯領で鍛錬を積まれていただけあって、ジゼル様は武術も優秀。さらには頭脳も超一流とありますから。賢者様も後釜にと思われているのではないですか」
「な……賢者というのは、誰なんだ!?」
「そんなこともご存じなかったのですか? いいですか、我が王命の賢者といえば、シュトラウス殿です。年の頃は三十程でしょうかね。この若さで賢者になるとは、なかなかのやり手ですね。それに、賢いだけでなく結構な美丈夫のようで。貴族の婦人たちにも人気があり、庶民にも圧倒的な支持を受けているとか。それに動物にも優しく、怪我をした獣にさえ手当てをする徳の高いお方だとか。各地の街で、治水や衛生の向上をして、民衆に正しい知識を授けて回っているのです」
「うっ……そのシュトラウスとかいう男が? なぜジゼルを指名するんだ!?」
「ですから、後釜に考えているのではないですか。いや、もしかすると、パートナーにと考えていらっしゃるのかもしれませんね。独りで行動するのは大変なのですよ。王命ともなれば、公式に国の仕事ですからね。ジゼル様がいれば百人力でしょう」
「む、む、むむむむ……」
この瞬間、アルベルトはようやく悟った。
自分がしたことは、とんでもない間違いだったのではないか、と。
喉が渇き、言いようのない焦燥が腹の底から湧き上がる。
「……ジゼル」
初めて、自分が『置いていかれた』と気付いた。
そして、アルベルトは心の底から後悔した。
だが、その自覚は三日遅かった。
「俺は、どうすればいいんだ」
じんわりと涙がにじんでくる。
アルベルトは情けなく、ジゼルの残していったハンカチを握った。
いつかの誕生日に、ジゼルがくれたものだ。
Aのイニシャルの裾に、銀色の剣が綺麗に刺繍してある。
「剣……」
そういえば、小さな頃から剣を見るのが好きだった。
銀色は高潔で、美しくて、格好良い。
それにジゼルを守りたいと思ったのだ。
紅薔薇のような可愛い女の子を守ることのできる力が欲しかった。
いつからか忙しさにかまけて、鍛錬にも身が入らなくなって、そのままになっていたけれど。
「また、やってみるか……」
祈りを込めさえするように、アルベルトは部屋の壁に飾っておいた短剣を持った。
「セバスチャン! おい! 騎士団の中の、腕っ節が強そうなのに話をつけてくれ! 理由? うるさい! とにかく誰か寄越してくれ……いいか、負けてたまるか……」
*
ジゼルと賢者シュトラウスは、教会の巡礼者用の特別室で、差し向かいになってグラスを傾けていた。
「……なので、この公式はこう使うのが自然だと言えるんだ。ふう、今日はこんなものかな」
「ご教授ありがとうございました」
「はい、お疲れ」
傍らの丸テーブルには羊皮紙が何枚か散らばっている。
そして、シュトラウスの膝の上には、丸い毛玉が乗っていた。
ぴこん、と耳が出ている。
どこからどう見てもウサギだ。
「にしても、ジゼル。君はさすがだね。自分で論文を書いといて何だけど、よくあの理論を理解できたよ。僕自身も意味が分からなくなるときがあるのに」
「恐れ入ります」
「婚約中だったんでしょう? それを破棄してすぐに入学して、さらに僕に指名されて――なんだかタイミングが悪かったようで、すまないね」
ジゼルはしれっと答えた。
「いいえ。予想通りでしたので、全く問題ありません」
「えっ?」
「この婚約破棄は、予想通りなのです」
「どういうこと? 怖いんだけど?」
「アルベルト様は何ヶ月か前に、私にアカデミーに行かないのかと尋ねて来たのです。行きませんわ、嫁ぐのですから、とお答えした後の、アルベルト様の納得していないようなお顔」
「ふぅん」
「そして、シュトラウス先生のご本に載っていた、dx/dt = f(x,t)の理論! つまり状態 x が、時 t に対してどう変わっていくかを表すウンタラカンタラ……そこから導き出すに! あの日の侯爵家のパーティーで3度目の婚約破棄を言い渡すだろうと推察できたのです」
「ええええ……僕の研究ってそんな私情に使われていたの……」
美しき令嬢ジゼルは、やれやれと言わんばかりに苦笑する。
「まったく、ベティルダ嬢に思いを寄せているなんて、いい加減なことを言って。ヴォヴァリー男爵夫人も驚いていましたわ。ああ、ベティルダは彼女の娘さんなのですけれどね? 私も昔から知り合いなのですよ。そもそもベティーにはずっと許嫁がいて、彼にぞっこんなのですわ。まだ南部にいますけれど、もうすぐ男爵家に婿入りするのです。まあそんなこと、この辺りの貴族令嬢ならとっくに情報収集をしていますわよ」
「うーん、女性の情報網って怖いね」
「本当は今回も婚約破棄ごっこにお付き合いするつもりでしたの。だけど、別の女性に心変わりしたなんて、嘘はよくありませんわ。少しだけ反省なさったらいいの。一応、念のために、そういう場合の書類も用意していたのです」
「リリアン、嫉妬って怖いねぇ」
「私の婚約者は少しばかり、思慮が足りないのです」
「お馬鹿ってこと?」
「いいえ、決してお馬鹿ではございません。理論だてて考えることが苦手なのですわ。だからときどき間違ってしまうのです。ですが」
ジゼルはカッと紅の瞳を見開いた。
「そ・こ・が! 可愛いのですわッ」
シュトラウスが遠い目になって、へぇ~と気のない相槌を打った。
膝の毛玉がプイプイッと鳴いた。
「……あのさ。ジゼル嬢。君、それ本気で言ってる?」
「当然ですわ! アルベルト様は、迷子になる仔鹿のように、道を間違う哀れな伝書鳩のように、ときどき、ほんの少しだけ道を踏み外してしまわれるのです。ああいう方だからこそ、わたくしが手となり足となり頭となり、しっかりお支えしなければ!」
「いや、支えるっていうか……話を聞く限り、もう君の方が完全に親みたいになってるように思えるけど」
「問題ありませんわ! 私は末っ子でしたから、お姉さんには憧れておりましたもの」
「いや、だから、お姉さんっていうか、お母さんじゃんか。ていうかさ、彼の顔が可愛いっていうのは100万回くらい聞いたから分かったけど、君としては中身も可愛く思えるの? いらいらしないの?」
ジゼルは胸に手を当て、うっとりと微笑む。
「ふふ……シュトラウス様、聞きたいのですね。(シュトラウスは、いや、そんなに聞きたくはないんだけど、と切り出しかけたが、無視された。) 私の――愛しい婚約者アルベルト様の、可愛さについて! まあ、仕方ありませんわね。語り出したら日が暮れますけれど……いえ、暮れるどころか夜明けまで終わらないかもしれませんけれど……でも、いいでしょう。だって、わたくし、アルベルト様の可愛さを語るのが、生きがいですもの」
ふう、と一息ついて、ジゼルは話し出した。
「まず、あの方は本当に――本当に可愛いのですわ。世間のみなさまは誤解なさっているかもしれません。アルベルト様は強気で高慢で、我儘で、少し……思慮が足りないなんて。確かに、そう見える場面もないとは申しません。それは、アルベルト様は誰よりも素直なお心を持っていらっしゃるからなのですわ。思ったことがあればすぐお口に出されるし、感じたことをそのまま行動に移される」
はふっとジゼルはため息をついた。
「それって、すごく純粋で……可愛いと思いません?」
「ワーオ。変わってる娘さんがいるよ、リリアン」
シュトラウスの膝のウサギが、プイッと鳴いた。
柔らかい草を食みながら、幸せそうに耳を撫でられている。
「例えば、幼いころ。アルベルトさまが、わたくしに摘んだ花をくださったことがありました。ええ、摘んだ花……なのですけれど。どこで摘んだか、が問題なのです。それは、花壇の中央にあった、侯爵夫人が大事にしていた珍しい花でした。それを根こそぎ持ってきてくださった時には、もう……!」
とろけるような顔をして、ジゼルはうっとりと呟いた。
「ああ、なんて可愛い方なのでしょう、と幼心に胸がいっぱいになりましたわ。だって、普通は考えるでしょう? 怒られるかもしれないとか、人の所有物だとか。でもアルベルト様は、違うのです。『これ、ジゼルに似合うと思って』と! その一言で、6歳のわたくしは恋に落ちましたのよ? そりゃあその後、アルベルト様はこっぴどく侯爵夫人に叱られていましたけれど……それでも、わたくしには宝物でした。まだ押し花にして持っているのですわ」
「リリアン。十年以上も前の花を捨てずに持っているなんて、怖いね。君ならすぐに食べてしまうのにね」
「それに、アルベルトさまはとにかく行動が可愛らしいのです! 異様に方向音痴でいらっしゃって、教会の廊下、それも一直線の通路で迷われるのですのよ? 信じられないでしょうけれど、本当なのです。可愛すぎませんか? 十歳のときなんて、祈祷室と間違えて、神官長さまのお部屋に勢いよく飛び込んで行ってしまって……。『ジゼル! この部屋、ちょっと暗すぎないか!?』って、お祈りをなさっている神官長さまの前で堂々とおっしゃるの。怒鳴られておられましたけれど、わたくしは後ろで震えるほど笑ってしまいましたわ。だって可愛いでしょう? 普通あそこまで間違えるかしら? 間違えないでしょう? ふふふ……でも、アルベルトさまは間違えるのです! そこが良いのですわ!」
「リリアン? 眠たいのかい? 僕も眠たいんだ……疲れたね、リリアン……」
「ちょっと目を離すとどこかへ歩いて行って、気づいたら裏庭の木の上にいたなんてこともありましたのよ。何をどうしたら登れるのか、わたくしには分かりませんけれど、あのときのアルベルト様は、シイの木の上からこちらを見て、困った顔でおっしゃったの。『ジゼル、降りられない』って……! あの時の、少し情けなくて、けれども助けを求めるような瞳……! あれを可愛いと言わずして、何と言うのでしょう? 私は庭を端から端までゴロゴロと転がって抱きしめたいくらいでしたわ!それに、それに――」
「……リリアン、僕を置いて眠らないでくれ。そろそろ部屋に戻りたいんだけど、残念ながら今日の僕の部屋はここなんだ……このうら若い乙女が自分の部屋に帰ってくれないと、僕はベッドで眠れないんだ……リリアン……」
「アルベルト様は、とても誠実な方ですの。たしかに勢いで間違ったことをおっしゃることもありますし、深く考えずに行動してしまうこともあります。でも、そのすべてがまっすぐ私を見ているからこその行動なのですわ。私が泣きそうになれば、すぐに慌てて駆け寄ってくださる。私が怒れば、本気でしゅんとなさる。私が笑えば、同じように嬉しそうに笑ってくださる。そうして、私が笑うならそれでいいと、誰よりも純粋にそう思ってくださるのです。アルベルト様ほど、真っ直ぐで、優しくて、不器用で……可愛い方はいませんわ」
「ああ、リリアンはあったかいね……まあ、僕だってこの頭のおかしい娘と似たようなものさ……恋は狂気だね……あー、ウサギって最高だよ……ウサギさえいればもう世界は平和になる……ウサギが安心して跳ね回る世界を作ろう……そのためなら研究は惜しまないよリリアン……あー、あったかい……」
「ねぇ、分かります!? とどのつまり、アルベルト様を好きになるのに、理由なんて必要ありませんのよ! 好きだから、可愛い。可愛いから、好き。ただそれだけの、とても単純な理論なのです。あら? シュトラウス様? お疲れだったのですね。もう寝てしまっていますわ。毛布をかけて、退散いたしましょう」
それにしても、と、ジゼルは扉を閉めながら思った。
シュトラウスもよっぽどの変わり者だ。
彼はあのリリアンという、うさぎをいつも離さずに連れている。
彼が賢者として研究を進めているのは、国民の医療や生活を革新的に変革させたいからでも、土地を改良したからでも、地位や名誉が欲しいからでも、そのどれでもない。
「うさぎを伴侶にしたい、だなんてねえ……」
シュトラウスに言わせれば、あのうさぎは条件を満たせば、人型になる特別な個体らしい。
良く分からないが、彼が様々な地域を巡っているのは、その条件を満たすためらしい。
各地のいろんな草を食べさせているが、おそらくそれが関係しているのだろう。
変態中の変態である。
いわばそのためにジゼルが学生の身分ながら、助手として任命されたのだ。
何でも、シュトラウスと並ぶほどの優秀な頭脳が必要らしい。
うさぎ狂いの天才研究者。
それが、賢者シュトラウスの本当の姿だ。
あのうさぎがもしも一時的にでも人型になったとしたら、シュトラウスは小躍りして喜ぶだろう。
そして、研究の報酬はなにが良いかとジゼルに尋ねるはずだ。
何を求めるかはもう決まっている。
「もう少し待っていてくださいね、アルベルト様」
飛び級をして、アカデミーを卒業したら、アルベルトに結婚を申し込もう。
それまで侯爵家に嫁をとらないように、侯爵夫妻に水面下で釘を刺しておいた。
きっと、残しておいたハンカチに刺繍をしていたから、アルベルトは剣の道へ向かうだろう。
意外にも頑張り屋の彼は、きっとジゼルがいない間に良いところまで強くなるはずだ。
『ざまあみろ、ジゼル! 俺は強くなった!』
と、鼻息荒く言ってのけそうな、アルベルトのふんぞり返った顔を想像して、ジゼルはにっこりした。
そうしたら、よく頑張りましたねと頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめてやるのだ。
「シュトラウス様に、最高級の指輪を作ってもらいましょうね。アルベルト様」
王都の店でも買うことのできない、世界で一つだけの超金属の指輪。
シュトラウスの研究と技術であれば、生み出すことができるだろう。
剣のようにきらきらした銀色の好きなアルベルトに、とっておきの指輪はきっと似合うだろう。
目が飛び出るくらいの高額な指輪の値段を聞いて、驚くアルベルトを早く見てみたい。
数年後、王立騎士団の若手のホープとして名をあげたアルベルトの元に、次期賢者と噂されるジゼルがウサギ耳の侍女を連れて突然訪問し、破局したはずのカップルは電撃結婚を果たすのだが、それはまた別の話である。
END