「おはよう。恭香ちゃん」
呆然と立ちすくんでいた私の肩を叩いたのは、一弥先輩だった。
「うわっ! び、びっくりしました。おはようございます」
「どうしたの? こんなところで立ち止まって。中に入らないの?」
一弥先輩が私の顔を覗き込んだ。
思わず顔を背ける。
「あ、いえっ。べ、別に何もないですよ。忘れものがないか、ちょっとカバンの中を調べてたんです」
……なんという嘘をついてしまったのか。
カバンの中なんて、全く見ていなかったのに。
一弥先輩に、絶対変に思われただろう。
「あれ? うわぁ、あれって、本宮君だよね?」
私の嘘はどこへやら、一弥先輩の視線は遠く向こうに向けられた。
どうやら、先輩の目にも飛び込んできたらしい。
最強のスーツ姿の男性が――
「そ、そう……ですか? 本宮さんですかね?」
今さらごまかしても無駄なのに……
「そうだよ、本宮君だよ。すごく似合ってるね、あのスーツ、きっとブランドの高級なものなんだろうね。本宮君は本当にカッコよくて、カメラの才能もあって、おまけにうちの会社の御曹司で……。彼は、世の中にあるすべてのものを持っているのかもしれないね。全くうらやましい限りだよ」
確かに……
本宮さんは、何でも持っているのかもしれない。
父親である社長と話している姿を見ていたら、やはり正真正銘の御曹司なんだと思い知る。
『文映堂』の一人息子ともなれば、莫大な財産を受け継ぐことになり、それはとてつもない金額なのだろう。
もちろん、お金のことなんて私には全く関係がないけれど。
あんなに強引で怖い人は、いくら御曹司でも、私は嫌だ。
なのに……
なぜだろう、頭の中ではそう思っていても、目の前の本宮さんを「素敵だ……」と勝手に認識している。
大好きな一弥先輩が横にいるのに、どうしてそんな風に思ってしまうのだろう。
自分でも理解に苦しむ。
「そ、そうですかね? 御曹司だからって別に……」
「えっ? 恭香ちゃん?」
「あっ、いや、何でもないです。さっ、ここにいても仕方ないんで中に入りましょうか?」
「う、うん、そうだね。入ろうか」
「はい。入りましょう、入りましょう」
私は、よくわからない行動と言動で、一弥先輩を困惑させたに違いない。
私達は、とりあえず、入口に向かって歩き出した。
まだ社長や本宮さん達がいる横を通らなければならないのは、なんだか嫌だ。
そう思った瞬間、本宮さんは、私達に気がついてこっちに近づいてきた。
「おはよう」
一弥先輩が、本宮さんに爽やかに挨拶した。
相変わらず可愛い笑顔全開だ。
「おはよう。……2人で出勤?」
本宮さんの目が、少し冷ややかな気がした。
「あっ、たまたまそこで会ったんだ。入口に本宮君達がいて、恭香ちゃんが入りにくそうにしてたから」
一弥先輩が笑う。
カバンの中を気にしていたことは、あっけなく嘘だとバレていたようだ。
「え? あっ……いや、その……」
何をどう言えばいいかわからず戸惑っていると、「行くぞ」と、本宮さんが無理やり私の腕を掴んで引っ張っていこうとした。
「ちょ、ちょっと離してください。私、先に行きますから」
私は、本宮さんの手を振り払って走り出した。
周りの人達は、何が起こっているのかと、私達のやり取りを見ている。
他人の視線が痛い。
一弥先輩……
本宮さんと私の行動を見てどう思ったのだろうか?
不思議そうな顔をしていたような気がするけれど……
本当に、本宮さんは強引過ぎる。
みんなの前であんなことするなんて……
確かに、腕を掴まれて少しはドキドキしていることも事実ではある。だけれど、それを認めたくはない。
スーツ姿の本宮さんが、昨日とは違ってキラキラして見えたとしても、きっとそれは、一弥先輩にフラレて寂しいからだ。
だから、他の人にときめいたりしているだけ。
これは、早く忘れたいという願望が招いた、嘘の感情――
一弥先輩を忘れたいのに忘れられない気持ちと、本宮さんの強引さに振り回されてる自分。
こんなフラフラした情けない状態で、もし今夜本当に本宮さんが来てしまったら……
考えただけでパニックになりそうだ。
私は、朝からぐるぐるしている頭の中を必死に仕事モードに切り替えようと頑張った。
やることはたくさんある。
大切な企画のお菓子のコピーだってまだ決まっていないのだから。
本宮さんや一弥先輩……2人のことで時間と頭を使っている場合ではない。
どうにか、この気持ちを落ち着かせ、今日も1日無事に乗り越えたい。
夜のことなんて……今は考えるべきではない。考えたところで、本当に本宮さんが来るのか来ないのか、あの人の本心は何もわからないのだから。
私は、「はぁ」と、深いため息をつきながら、重たい足取りで、ゆっくりとミーティングルームに向かった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!