コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
日和美が手にしていた本を引っ手繰るようにしてサインとメッセージを認めた時には、信武の心は日和美に何もかも包み隠さず打ち明ける方へ定まっていた。
***
「あ、あの……ごめんなさい、信武さん。もしかして……貴方にとって萌風先生であることはその、トップシークレットだったんじゃないんですか?」
期せずしてそれを暴くみたいになってしまったと気に病んでいる様子の日和美を、信武は「バーカ」とねぎらった。
「俺が本気で秘密にしてぇと思ったら、お前を丸め込む嘘なんざいくらでも思い付けるんだよ」
「えっ?」
「なぁ、忘れちまったの? 俺はプロの作家なんだけど。虚構の世界を作り出すのなんて朝飯前だと思わねぇ?」
実際嘘を嘘で塗り固めて自分が萌風もふであることを隠すことは、小説のプロットを練る作業に似て、やろうと思えば造作もないことだったはずだ。
だが、信武がそうしたくなかったのだから仕方がないではないか。
***
「――そう言えば信武さん。記憶が戻られた日に持ってらしたオフィスラブものがあったじゃないですか。あれって……」
「ああ、これのことだろ?」
日和美の視線がカウンターの端に置いたままにしていた文庫本に移ったのを確認して、信武は日和美から離れるとそれを手に取った。
「お前の部屋で『犬姫』を見た時に何か思い出せそうな気がしてな。本屋で同じジャンルの本を見たら記憶が戻るんじゃねぇかと思って……」
いつも自分が萌風もふとして書いてきたはずのバリバリのファンタジーものには反応しなかったばかりか、拒絶反応さえ覚えたのはある種の現実逃避だったのだろう。実際、当時の信武はファンタジーものを書くことに少々辟易していたのだ。
そんな中、あのときの不破が、『犬姫』にだけやたら刺激を受けた理由は、亡くしたばかりのルティシアが絡んでいたからだと今ならハッキリ分かる。
でもあの時の自分には分からなかったから。
ざわつきの手がかりを求めるべくアパートを後にしたのだ。
とりあえず本屋……と思ってみたものの、日和美の勤め先に行くのは何となくばかられて逆方向――結果として自宅マンションがある側へ向かって。
道すがら目についた本屋へ立ち寄ったら、失踪した信武のことを探し回っていた茉莉奈にたまたま行き会った。
まぁ、その書店は信武が執筆に行き詰まった時、ちょくちょく息抜きに出向いていた場所のひとつだったので、そこで彼女と出会っても何ら不思議ではなかったのだと今なら分かる。
『信武! 今まで一体どこをほっつき歩いてたの!』
萌風の方で出す予定にしていた新作のプロットを提出しないままに姿を消していた(らしい)信武に、彼が記憶喪失だと知らなかった茉莉奈が押し付けてきたのが、玄武書院の人気レーベルのひとつ〝ムーンライトときめき濡恋文庫〟で萌風もふと双対をなしていた別の売れっ子作家が手掛けていたオフィスラブもので。
散々いなくなったことを責め立てられた後、『とりあえず!』と切羽詰まっていた仕事の話題へ切り替えられたのだ。
『信武、次にあっちで書くの、ファンタジーはやめてオフィスラブものにしてみたいって言ってたでしょう? 森野リス子先生の本、絶対参考になるから読んでみて?』
急に畳み掛けるように言われても、当時まだ六割がた不破譜和だった信武には、何のことだかさっぱり分からなくて。
『失礼ですが、貴女は僕のことをご存知なんですか? ……その、シノブというのが僕の本当の名前ですか?』
困惑顔でそう問いかけて、茉莉奈を驚かせたのを覚えている。
結局記憶喪失のまま茉莉奈に連れられてマンションへ戻ってきた信武は、ルティの遺骨が入った箱を見て、一気に立神信武としての記憶を思い出した。
同時に不破譜和だったころの記憶が曖昧になったのだけれど、茉莉奈が『今までどこにいたの?』と問いかけてきたことで荷物を色々探るに至って、写真とその裏のメモを見つけたと言うわけだ。
その日はそのままマンションで遅れていた文筆業に精を出して、茉莉奈に新作プロットを手渡してから日和美のアパートへ戻った。
***
「あの日、朝と晩で信武さんが別人になっててめっちゃ驚きましたけど……そんな理由があったんですね」
得心したようにホゥッと吐息を落とした日和美に、信武は心底安堵する。
「なぁ。茉莉奈とのことは誤解が解けたって思って構わねぇよな?」
森野リス子の本をカウンターに置いて、日和美のすぐそば。
吐息もかからんばかりの距離で念押しするように彼女の顔を見下ろしたら、途端ムムッと唇をとがらされた。
「ずっと思ってたんですけど……信武さんと従姉さん、何だかすっごく親密な雰囲気ですよね」
「は?」
次いで当たり前のように漏らされた不満に、信武は思わず間の抜けた声を返さずにはいられない。
「どこが」
問えば、「お互いに呼び捨てで呼び合っているところとか」と、日和美がゴニョゴニョと語尾を濁らせるから。
「いや、待て。だってそりゃあ――」
「わ、私だって! 従姉弟同士のお二人が長い年月の中で何となくそうなっちゃってるってこと、頭では分かってるつもりです! でも……胸の辺りが何だかモヤモヤしちゃうんだから仕方ないじゃないですかっ」
我慢出来ないみたいに吐き出して、指先が白くなるぐらい強く信武の服を掴んできた日和美が、いやいやをするように信武の胸元へ額を擦りつけてくる。
「私……一応信武さんの彼女なのに――」
そうしながら、ポツンと自信なさげに日和美が付け加えてくるから、信武は我慢出来なくなってそんな彼女を腕の中にギュッと抱き締めた。
「なぁ、一応って何だよ。お前が! 正真正銘俺の彼女だろーが」
そのまま当然の流れみたいに日和美のひざ裏をすくい上げれば、急に横抱きに抱え上げられた日和美が驚いたように手足をジタバタさせる。
「あ、あのっ、信武さんっ!? いきなり何っ!?」
信武はそんな日和美を落とさないようギュッと強く抱き直すと、彼女の抗議なんてお構いなしに歩き出す。
「そんなに気になるなら日和美も俺のこと、呼び捨てにすればいい」
茶を入れるとか言いながら、コンロにやかんすら掛けていなかったことを、我ながらでかしたと思いながら。
信武は日和美を見下ろしてニヤリとした。