1話 一夜限りの女
彼女がいる。
体だけの女もいる。
そんな俺を好きだと言う女にも、彼氏がいる。
彼氏がいるくせに俺が好きだなんて、それ……本気で言ってんの?
気付けば雨が降っていた。
ベッド横の窓についた雨が重なりひとつになって、滑り落ちていく。
「電気はつけないで」と彼女に言われ、俺はそのとおりにした。衣擦れの音がして、窓から目を移した先には、暗闇に浮かび上がる白い肌。
一歩、二歩と傍に近付く彼女の手首を掴み、腰を引き寄せたのはほぼ無意識だった。
ワンルームの部屋は、アルコールと石鹸の香りが混じる、いびつな空間だった。その中で彼女は目を閉じ、俺の首に腕を回す。
俺も彼女の膝を折り、膝頭に唇を当てた。
「……っ、あ……」
甘い息が零れ、次第にベッドが軋む。
「あっ……あっ」
彼女の体に触れながら、ふと麻耶とのセックスが頭に浮かんだ。
長年付き合った彼女の体は、目を閉じていても細部まで思い出せる。
でも新鮮味のない怠惰なセックスは、この濁った快楽にはかなわない。
「名前」
「っ、え……?」
「名前、なんだっけ」
彼女の名は知らない。
同じ社内でも、部署もフロアも違う彼女とはエスカレーターですれ違う程度だった。
「……っ、ぁあ……」
耳元で尋ねると、体がかすかに跳ねる。
でも返事はなく、俺は小さく笑って責めた。
「なに、教えてくれないんだ?」
揶揄を含み、今度は彼女の首に顔をうずめた。
この部屋までは簡単についてきた彼女も、心の内は簡単には見せないらしい。
それもそのはずだ。
彼女にもれっきとした相手がいると、社内の遠い噂で聞いたことがある。
「んっ……あっ……あぁ」
いくら待っても、彼女は名前を明かさない。
そのかわりに俺の背中に爪をたて、俺はお返しに彼女の中に深く潜る。
彼女とマンションの近くで会ったのは、本当に偶然だった。
酔って終電を逃した彼女を、部屋に泊めた。
なりゆきといえばそれだけの、一夜かぎりの情事。
彼女だってそのつもりだろう。
部屋に入ってすぐ仕掛けたキスに、難なく応えたのだから。
「んっ、はぁっ……」
聞こえるのは窓に打ち付ける雨音と、彼女の吐息だけ。
憂鬱な雨の夜は、こういった過ごし方も悪くない。
暗闇に目が慣れきった頃、ふと彼女がどんな表情をしているのか気になった。
だけど彼女はそれをさせないとばかりに、俺の首に腕を回し、強く引き寄せる。
「ねぇ、なに考えてるの」
これだけ体を重ねていても、彼女の心は見えず、俺は秘めた内側を引きずり出したくなった。
もう彼女の弱い場所はわかっている。
何度となくそこを攻めれば、彼女はあがった息の合い間に尋ねた。
「……あっ……っ、それを聞いて……どうするんですか」
俺はかすかに笑って「さぁ」と答えた。
べつに深い意味はない。
名前を聞いたのも、この場が盛り上がればと思っただけの話で、数日経てば頭から抜ける。
「はぁ……ぁっ……」
乱れたシーツや薄い陰影が、彼女への濁った情熱を加速させていく。
「そろそろ、いい?」
尋ねたけれど、返事はいらなかった。
彼女の体がどういった状態なのか、俺が一番よくわかっている。
伸ばしきった彼女の腕が、ふいに俺の腕に触れた。
それを合図に動きを速めた瞬間、細い声が耳に届く。
「……わ、たし……あなたのことが好きなん、です」
それは空耳かと思うほど、かすかな声だった。
思わず彼女を見れば、目の前で甘い蜜に似たものが滲んだ。
「あなたのことが……ずっと、好きだったんです」
涙と一緒に、彼女から震える声も零れ落ちた。
せき止めていた彼女の心が流れ出したようで、俺は無意識に動きを止める。
……は? 嘘だろ?
まさかそんなはずは―――。
目を逸らした俺は、聞かなかったことにして絶頂を目指そうとする。
だけど彼女の中がぐっと狭まって、否が応でも向き合わされた。
「……好き、なんです」
吹き付けた風が窓を揺らし、雨音が激しくなった。
澄み切った透明な瞳が、俺を見つめている。
その瞳にとらわれて、俺は前にも後ろにも動けなかった。
つづく
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