ほんの少し和やかだったはずが、千紘の言葉でピリピリとした空気に変わる。
その空気を割るようにして飲み物が運ばれてきた。
「お待たせしましたー!」
それぞれ目の前に飲み物が置かれ、千紘が先にグラスを持つと「乾杯しよ、お疲れ様」と何事もなかったかのように言った。
凪はまだモヤモヤと考えながら、グラスを合わせた。ゴツっと鈍い音がし、凪はちびちびと烏龍茶を口に運んだ。
あー……。帰りたい。なんなんだよ、もう……。全部コイツのせいなのに。なんで乾杯して、一緒に飯食ったりなんかしなきゃなんないんだ。
髪まで切ってもらって、下の心配までされて……もう二度と関わってほしくないのに。……写真が……。
凪は、恨めしそうに千紘を睨んだ。そんな痛い視線でも、見つめられていることが嬉しくて千紘は笑みをこぼす。
「可愛いなぁ。本当に綺麗な顔してるよね」
そこじゃない。凪はそんなツッコミを入れながら、どうせ俺の心情なんて理解できないんだろうと嘆く。
「顔目的かよ」
「顔好きなんだよね。タイプだよ」
「あーそ」
「でも、その口悪い所も好きだし、仕事に対して真面目なのも好きだし」
「お前、なんで俺のこと好きになったの?」
凪は純粋に疑問だった。電話では教えてくれなかった。ほとんど接点がないにもかかわらず、自分にこんなにも執着してくる男。
昔から言い寄られることは多かった凪だが、男からこんなにも熱烈にアプローチされたのは初めてだ。
どうせ変態の片想いなんて、ストーカーのように一方的に理想を描いて勝手に美化して追い求めてるだけだろうと凪は鼻で笑う。
「うーんとね、好きになったのはね」
千紘は懐かしそうに目を細めて、何かを思い出すかのように口元を緩めた。千紘が少し凪に興味を持ち出し、同時に千紘が絶対にいつかカットして下さいって言わせてやると闘志に燃えていた頃のことだった。
千紘は凪に合わせたノンアルコールビールを一口飲むと、「俺ね一時急激に客が減った時あったんだよね」とポツリと語り始めた。
その日、千紘は数日間続く客離れに悩まされていた。予約時間になっても客がこない。そんな日が続いたのだ。キャンセルの連絡がくるならまだいい。当日キャンセルはかなりの痛手だが、連絡なしのバックレは全ての予定が狂う。
こちらから連絡をしても繋がらない。それ以降すら連絡が取れなくなることもあった。
「クッソ……またかよ……」
千紘は舌打ちをしながら予約リストを右手で叩いた。ビッシリと埋まった予約だが、1日でこない客が数人。千紘のカット予約は取りにくいため、どうしても次回予約までに期間が空く。
そうなれば、予約したまま忘れてしまったり、時間が経つにつれてどうでもよくなってしまったり。
キャンセルしようとして結局そのままになってしまったり。
理由は様々だったが、それにしてもこのところ多すぎる気がした。
スタッフは千紘の顔色を伺ってビクビクと怯えているし、店の雰囲気自体が最悪だった。
そんな中、いつものようにやってきた凪は、和やかに米山と話していた。千紘の先輩である米山は、そんな空気にも臆せず普段通りに仕事をこなす。
「凪くん、今日どうする?」
他の客が異様な空気を察する中、米山と凪だけは別空間のようだった。
髪を染めてカットが終わった凪は上機嫌で会計を済ます。
千紘はそんな凪の後ろを通って店を出た。カットを終えた千紘の客が全員帰り、予約の客をただ待っている状態。その客も来るか来ないかわからない。
楽しそうに談笑している米山と凪の姿を見ていると、絶好調の時の自分が嘲笑っているかのようで苛立ちも募った。
外の空気を吸って気分転換しよう。そう思い、店の裏で深呼吸をする。そう長居はできないと5分程度で戻る。
「お前最低だな」
店の出入り口でそんな声が聞こえて千紘はゆっくり顔を上げた。聞き覚えのある声。それは、先程まで談笑していた凪の声だった。
数歩前に進むと、凪の前に誰か立っていた。普段穏やかに会話をしている凪が誰かともめているのかと千紘は顔をしかめた。
「それ、営業妨害だろ」
凪がそう続けたことで、千紘の疑問は更に深まる。営業妨害、という言葉からもしかしたら同業者か? 客の取り合いか? なんてことが頭を過ぎる。
どちらにせよ、美容院の前で風俗の話なんて勘弁してくれよ。なんて千紘は息をついた。
「は? 誰だよ、お前。お前には関係ないだろ」
凪の目の前にいた男が面倒くさそうに呟く。それを見た千紘が、今度は違和感に気付く。どうやらお互い顔見知りってわけではなさそうだ。しかし、だったら何をもめる必要があるのか。
そこまで考えて千紘はようやく凪の目の前に立っている男の顔を確認した。
その瞬間、千紘の目の色が変わる。すっと瞼を下げ、攻撃的な視線を向けた。
千紘は何度か彼のカットを担当したことがあった。ヘアモデルの仕事をしているほど整った容姿の男性。たしか、年齢は自分と同じくらいだったはず。
千紘のカットが気に入ったから、毎月予約を入れされてくれと何度も交渉されたのだ。さすがに彼だけを優遇することはできないし、ヘアモデルの仕事をするために他店でカットしてきたりする。だから、正直ちゃんと予約通り来るかどうかも怪しかった。
当然丁重にお断りさせてもらったのだが、その次の予約時には来店しなかった。あの時、やっぱり来なくなったか。なんて思っただけだったが、今更ひょっこり何の用かと様子を窺った。
「関係あるわ。予約ってその時間を買ってんのと一緒なんだぞ。1件なくなっただけでどんだけ損失出ると思ってんだよ」
凪が言う。彼が言うと、どうしてもセラピストの話に聞こえた。彼の仕事は60分いくらで施術をする。予約を取って彼の時間を買う。
しかし、その対象者は女性のはず。なのに凪が話しているのは男性で、しかも以前千紘の客だった人物だ。
なにか、おかしい……。千紘がそう思った瞬間、「だったら何? 他の客待たせるほど予約詰め込む方が悪くね? 次の予約が半年待ちとか1年待ちとか客ナメてるでしょ。ちょっとくらい減った方があの人も仕事しやすくなるし、他の客も予約取りやすくなるし、一石二鳥じゃん」そう言って男が高らかに笑った。
千紘は目を大きく見開いた。凪のことを言ってるんじゃない。多分これは自分のこと……。そんなふうに気付いたら、一瞬で頭に血が昇った。
何かおかしいと思ったら、客減らしてたのコイツか。と殺意すら芽生えた。
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