昼下がりの中庭には
柔らかな陽が射していた。
花壇のラベンダーが風に揺れ
その傍らで子供たちがクレヨンや筆を手に
各々の〝芸術〟と格闘していた。
ワイシャツに
薄手のケープを羽織ったライエルは
白いパラソルの下
木製のイーゼルに向かって筆を滑らせていた
その筆先には
優しげに微笑む〝彼女〟の姿が
浮かび上がりつつあった。
──かつてのアリア。
感情を失うより、遥か前の──
ただ彼女が〝彼女〟であった頃の
柔らかな笑顔。
誰かを信じて、手を差し伸べて
傷つきながらも
それでも皆と生きようとした
あの頃のアリア。
彼の筆は
記憶の奥底をなぞるように静かだった。
「先生!この人、だぁれ?」
絵を覗き込んだ少年の声に
ライエルは少しだけ目を細める。
そして微笑んだ。
「⋯⋯この人はね。女神様だよ。
この世で
誰よりも強くて、優しくて、美しい──
私たちの神様」
その声には
どこか夢のような柔らかさがあった。
──その時だった。
背後から、控えめでいて
どこか激しさを孕んだ気配が近づいてくる。
「⋯⋯ライエルさん」
声をかけられ、ライエルが振り返ると
そこには時也がいた。
涼やかな鳶色の瞳はわなわなと揺れており
ライエルの持つ筆先とイーゼルの絵を
凝視している。
「時也様!おはようございま──す⋯⋯?」
言い終わるより早く、時也が一歩詰め寄る。
「その絵⋯⋯
完成しましたら、僕に譲って頂けませんか?」
「えっ⋯⋯?」
ライエルは目を瞬かせた。
この絵にそこまでの価値は無いと
自分でも思っていた。
だが時也は
本気の眼差しで彼を見つめていた。
「譲ってください。
どうか⋯⋯どうか、お願いします」
「い、いえ、しかし、これは
私の記憶にある⋯⋯私的な絵でして⋯⋯」
「構いません!
譲ってください!お願いします!」
ライエルは動揺しながらも
ちらりと絵を見やった。
キャンバスの上では、アリアが笑っていた──
魔女狩りより遥か昔の
無垢で、満ち足りた
時也ですら見たことのない〝笑顔〟
「し、しかし⋯⋯
これは、たいした絵でもなく⋯⋯
私などの筆では⋯⋯」
「お金、出しますから!」
「えっ!?い、いえいえ、そんな!!
このような習作に価値など──」
「価値は僕が決めます!
小切手帳、ここにあります!
金額を書いてください!何桁でも!」
「ちょっ!子供達の前です!
しまってくださいっっ!」
時也が懐から颯爽と取り出したのは
分厚い小切手帳。
金額の欄が空白のままの数枚が
今にも風で飛びそうになり
ライエルは慌てて手で押さえる。
「これでは
まるで買収のようではございませんか!?
こんな拙い絵に⋯⋯お金は、いけません!」
「買わせてください!絵を!お願いです!」
「お、お金はいりませんから!!
それより、絵が完成するまで
少しお時間を頂ければ──!」
「完成後、額装もお願いできますか!?
額縁代も、もちろん別途
お支払いいたしますから!」
「はぁっ!?
お代はけっこうですと何度申せばっっ!!」
「⋯⋯データ化して
複製も可能にして頂けると!」
「今すぐ小切手帳をしまってくださいませ
時也様ぁぁぁ!!」
──中庭の隅では
クレヨンを握った子供たちが
そのやり取りをぽかんと見守っていた。
二人の奇妙な押し問答は、しばらく続いた。
精神の鏡の奥──
そのやり取りを、全て見ていた者がいた。
(ふふ⋯⋯
相も変わらず、拗らせてるねぇ?時也)
アラインは鏡の奥で頬杖をつき
心底面白そうに笑っていた。
その口元には
どこか悪戯好きな子供のような笑みが滲む。
(魔女狩り以前のアリア⋯⋯ね。
ボクだって、知る由もない頃の記憶。
でも、ライエルはそれを〝持ってる〟
ふーん⋯⋯?)
静かに瞳を細めながら
アラインは鏡の奥で思案を巡らせる。
(⋯⋯あとで
ライエルの記憶を覗いてみようかな。
この笑顔──
ボクも〝知ってる〟って言ったら
どんな顔をボクに向けてくれるのかな?
時也は)
冷笑と微笑がないまぜになったその表情は
まるで舞台の幕引きを
席の最前列で愉しむ観客のようでもあった。
時也にとっては
過去を取り戻す一枚の絵。
ライエルにとっては
失われた時間との対話。
そして、アラインにとっては──
「⋯⋯これも、愉快な幕間劇だね」
唇の端を吊り上げたアラインは
さらに嫉妬の目を光らせる
時也を思い描きながら
静かに記憶の海へと、意識を沈めていった。
⸻
(今日は〝荷物係〟
そう言われて連れてこられたが⋯⋯)
中庭の隅
日陰のベンチに座ったソーレンは
積み上がった荷物の山の裏から顔を出し
ため息混じりに遠くのやり取りを眺めていた
段ボール箱には
「寄付用食材」
「菓子材料」
「紙皿とスプーン」
「装飾用リボン」
など、生活感あふれるラベルが並ぶ。
時也が
「ライエルさんのところへご挨拶に」
と歩みを進めた瞬間
全ての荷物は当然のように
ソーレンの腕へと押し込まれていた。
(あの野郎⋯⋯
荷物全部置いて行きやがって)
重そうに見えるそれらは
見た目通り、かなりの重量だ。
しかし、ソーレンの周囲の空気は
不自然なほどに澄んでおり──
その実、荷物は〝浮いている〟
彼の重力操作によって
ほとんど無重力状態にあるそれらは
担ぎ持っているように
見せかけているだけだった。
(まぁ
別にわかんねぇ程度に浮かせてるから
平気だけど⋯⋯平気だけどな?)
誰にもバレてないとはいえ
彼のプライドが地味に傷ついているのは
確かだった。
そして今、目の前では
時也とライエルが押し問答という名の
〝執念と遠慮の攻防戦〟を繰り広げている。
時也は必死にライエルの絵を買い取ろうとし
ライエルは必死に小切手帳を押し戻していた
それを眺めるソーレンの顔は
既に感情の動きを失っていた。
(なんなんだよ⋯⋯この二人⋯⋯)
──ぱん!
唐突に、時也が手を叩いた。
「今日はお菓子作り教室の予定でしたが──
急遽、予定を変更します!」
その声に
子供たちがいっせいに顔を上げる。
ライエルもぽかんと振り向いた。
「え?⋯⋯へ、変更でございますか?」
「はい!本日はなんと!
ソーレンさんによる──
マジックショーです!!」
その場が、一瞬止まった。
そして──
「えっ!?
何故、そこまでされるのですか!?」
「ソーレンさんの重力操作なら
子供たちの注目を集められるはずです!
その間
ライエルさんが安心して描ける時間を!」
「ちょ、おい待てコラ時也!?
勝手に決めんな!!」
だが、時也の音頭に
子供たちはもう反応していた。
「わぁっ!
おにいさん、マジックできるの!?」
「すごーい!お花だせるの!?」
「風船、飲み込むやつやって!!」
「次、私!わたし飛ばして!」
「こら待て!近付くなって!
お前らぁ!俺のズボン引っぱんな!!」
ソーレンが声を荒げたところで
子供たちは止まらない。
ソーレンは子供たちを身体から剥がすと
遠慮なく放り投げた。
だが、しっかりと
異能で浮かせて衝撃は消している。
──それが、いけなかった。
子供特有の
楽しければ〝何度でも繰り返す〟地獄が
始まる。
あっという間に荷物の山は放置され
ソーレンの足元には十数名の子供が
群がっていた。
「時也、てめぇぇぇ⋯⋯給料倍にしろ!!」
中庭の向こう
パラソルの下から様子を見ていたライエルは
目を丸くしていた。
「い、いいんですか?
あんな無理矢理に⋯⋯」
「ふふ、大丈夫ですよ。
ソーレンさんはああ見えて
子供たちには人気者なんです。
それに、とても優しいですしね」
「い、いや、怒ってるように見えますが?」
一方──
精神の鏡の奥。
絵筆を持つライエルの深層にて
アラインは椅子から転げ落ちる勢いで
笑っていた。
(くっ⋯⋯あっはははははっ!
いや、超ウケる!なにあれ!)
(あの仏頂面が、子供に囲まれて
動けなくなってんの!?
ご褒美だよねコレ!)
(真面目な顔で「給料倍にしろ!」とか
叫んでるし、最高かよ⋯⋯っ)
己の腹筋すら
痛めそうな勢いで転げ回りながら
アラインは一人
精神世界の劇場で拍手喝采だった。
ソーレンはというと
すでに諦めたように指先を上げ
数センチだけ子供たちの身体を
ふわりと浮かせたり
落ち葉を風のように舞わせたりしていた。
「⋯⋯ったく
全員まとめて、覚えとけよ⋯⋯
特にお前だ、時也!!」
「はい!ソーレンさん、愛してます!!」
「殺すぞ、てめこらぁぁぁ!!!」
その日の夕方
ソーレンは腕が痺れるまで
子供達を放り投げ続け
浮遊芸を続ける羽目になった。
ライエルの絵は、その隙に着々と仕上がり
そしてアラインは、深夜になってもなお
思い出し笑いを堪えるのに苦労したという。
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