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引きこもりの常として、彼の朝は遅い。
明け方近くまでゲームをやり込んでいるからだ。
午前7時など、眠りの世界の一番深いところを漂っている時間だろう。
加えて彼はアラームの無機質な音を嫌がる。
切迫感を覚え、不安になってしまうらしい。
従って彼──胡桃沢有夏は今、この上なく不機嫌であった。
「……んだよ……んじだとおもっ……」
目がほとんど開いていない。
長い睫毛の影に黒目がうっすら覗いているが、目の前の光景を見ているのかどうか。
「おはよっ、有夏。いい朝だよ」
「ピピピピピッ」
最大音量のアラーム音を轟かすスマホを手に、幾ヶ瀬はベッドの脇に腰かけていた。
「あーりかっ、今日は何の日か覚えてる?」
気持ち悪いくらいの笑顔で有夏の顔を覗き込む。
「……のおと、やめ……。しね。ありか、もうちょ……ねる」
布団をかぶり直そうとする手を、幾ヶ瀬がグイとつかむ。
しばらくは無言の攻防が続いたが、結局布団をはぎ取られるという形で決着がついた。
「さあっ、朝ご飯にしよ。顔を洗っておいで♪」
「イヤだ、顔なんざ洗わん」と、有夏の半開きの目は据わっている。
ベッドのすぐ横の座卓には、すでに皿やコップが並べられていた。
おにぎりとヨーグルト、果物に紅茶──微妙な取り合わせだが、幾ヶ瀬家の朝食はいつもこんな感じだ。
それに加えてフルーツケーキにツナサラダ、唐揚げと玉子焼きまで並んでいる。
「……んに? ごちそう」
「やだなぁ、有夏。いつものメニューでしょ」
あきらかに浮かれた様子で幾ヶ瀬が声を張り上げた。
その違和感に、有夏の意識も徐々に覚醒していったようで。
「7時って……ありえんわ!」
あらためて時計を見て絶句している。
「いや、有夏サン? 7時起きは世間ではわりと普通ですよ?」
そういう幾ヶ瀬だって、普段なら出勤は10時。
徒歩数分という通勤時間を考えれば、朝食と洗濯の時間を加味しても8時半起床で十分である。
「それに今日は、休みとか言ってたんじゃねぇのか」
6時前に起きてこれだけの料理を作ったというのか?
気持ち悪いヤツだという思いを表すように、有夏の目がじっとりと細められる。
「冷蔵庫が直ってそんなにうれしいのかよ」
壊れたと騒いでいた冷蔵庫だが、存外早めに修理に来てくれたようだ。
おかげで、冷凍庫奥に入れていた食材は無事だったと幾ヶ瀬が喜んでいたのはつい昨日のことである。
「違うよ。そりゃ5年保証で修理費タダは当然として、出張費もいらないって聞いて本当にホッとしたんだけど。だって、お金を払うと払わないは180度違うからね……でも違うよ!」
そこで幾ヶ瀬は言葉を切った。
グイと有夏に顔を近づける。
「有夏、今日は何の日?」
「………………」
おそらく世の男が困る質問ベスト5に入るであろう台詞を、しゃあしゃあと口にして、幾ヶ瀬はにこにこしている。
これはどうやら待ちの態勢のようだ。
有夏が何か言うまでこの得体の知れない圧が弱まることはあるまい。
「うぁ……な、何かの発売日だっけ」
「………………」
「うん、違うな。えっと……何かの祭りの日? アレか、ハロウィンか。それか生誕祭」
「ハロウィンっていつの話だよ。生誕祭って何なのそれ……?」
「ア、アニメか何か? 推し的な? 誕生日会……?」
──違うよ。
小さな声でそう返されて、有夏は早くも万策尽きたというふうに両手を広げてみせた。
目の前で、幾ヶ瀬の大袈裟なため息。
「そうだよね。有夏はドラクエの発売日は覚えてても、俺の誕生日は忘れる人だもんね」
「いやいや、ドラクエは別格だろうが。 あ、誕生日なんだ。オメデトー。よし、祝いの品がないからリンゴをやろう」
幾ヶ瀬が剥いたウサちゃんリンゴを当人の口に突っ込んで、有夏は白々しく拍手した。
「うーん、シャキシャキしておいし……って」
──違うよ。
またもや小さな声で否定されてしまった。
「うん、違うよな。うん……」
明らかに面倒臭くなったようで、またベッドに横になる有夏の腰を、幾ヶ瀬が強引に両腕で抱え込む。
「駄目だってば。起きてお祝いしようねっ!」
「ヤだよ。だから何の祝いだよ」
「まぁ、おいおい思いだそうねっ!」
「イヤだ。有夏は祝わん」
「まぁまぁまぁ」
寝かせてたまるかと、床に引きずりおろすと、有夏は抵抗なくズルルとベッドから這い落ちた。
ぼーっとしたままリンゴに手を伸ばすその姿に、幾ヶ瀬は再びため息をつく。
「本当に覚えてないんだ? 今日は2人の初チュー記念日だよ」
「は?」
有夏が横目で幾ヶ瀬をチラ見する。
その表情は強張っていた。
「え、なに? はつちゅ…………うっわ、キモいんだけど?」
「何で!? 大事な日じゃん!」
「いやいや、キモイキモイ。んなこと、いちいち覚えてんのかよ。キッモ!」