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第68話「恋人最後の日」
大阪へ来て。
三か月。
月曜日。
午前八時五十分。
大阪支社。
森野は自分の席でパソコンを開いた。
相沢は三席向こう。
「森野さん」
「はい」
「午後の会議資料、確認お願いできます?」
「共有フォルダに入れてください」
「入れてます」
「では確認します」
普通。
完全に。
普通の同僚。
大阪支社の社員たちは、二人が一緒に暮らしていることを知っている。
さらに。
婚約していることも。
知っている。
最初の一か月は。
かなり珍しがられた。
しかし。
三か月もたつと。
誰も気にしない。
午前十時。
会議。
森野。
「この案ですが、少し弱いと思います」
相沢。
「どこが?」
「ターゲットが曖昧です」
「じゃあ三十代に絞る?」
「それでは狭すぎます」
「難しいな」
「もう一案作りましょう」
大阪支社の同僚。
山本。
二人を見る。
「お二人」
「はい?」
「家でもこんな感じなんですか?」
森野。
「違います」
相沢。
「ほぼ同じです」
森野。
「違います」
「どこが?」
「家では仕事の話をしません」
「するよ」
「少しです」
山本。
笑う。
「結婚しても変わらなさそうですね」
森野。
少し。
止まる。
「そうかもしれません」
昼。
社員食堂。
相沢。
森野。
向かい。
森野。
スマートフォン。
確認。
「相沢さん」
「何?」
「市役所」
「うん」
「土曜日でも一部窓口開いてます」
「じゃあ土曜日?」
「でも」
「何?」
「婚姻届は時間外でも出せます」
相沢。
「森野さん」
「はい」
「会社の食堂で婚姻届の相談する?」
森野。
周囲。
見る。
「あ」
隣の社員。
聞いている。
「すみません」
社員。
「いえ、続きをどうぞ」
森野。
「聞かないでください」
その夜。
自宅。
テーブル。
一枚の紙。
婚姻届。
相沢。
「緊張するな」
森野。
「プロポーズより?」
「別の意味で」
森野。
ペン。
持つ。
「間違えないでください」
「森野さんも」
「私は大丈夫です」
「そういう人ほど間違える」
「失礼ですね」
二人。
記入。
相沢。
自分の名前。
森野。
自分の名前。
住所。
本籍。
必要事項。
書く。
森野。
最後。
紙。
見る。
「これで」
「うん」
「結婚するんですね」
「出したらね」
森野。
「不思議です」
「嫌になった?」
「逆です」
相沢。
「逆?」
「もっと」
森野。
紙を見る。
「大変なことだと思っていました」
「結婚?」
「はい」
「でも」
「紙一枚ですね」
相沢。
「生活はもう一緒だから」
「そうですね」
森野。
少し。
笑う。
「何も変わらないかもしれません」
「名字は?」
「仕事では森野を使います」
「じゃあ会社では森野さん?」
「はい」
「家では?」
森野。
「今まで通りでいいです」
「森野さん?」
「それは」
少し考える。
「結婚した感じがありませんね」
「リリカ?」
森野。
止まる。
「……」
相沢。
「嫌?」
「急に呼ばれると」
「うん」
「恥ずかしいです」
「じゃあリリカ」
「練習しないでください」
「リリカ」
「相沢さん」
「直人って呼んで」
森野。
「嫌です」
「何で?」
「恥ずかしいので」
「俺だけ?」
「そのうちです」
金曜日。
午後六時。
大阪支社。
終業。
相沢。
「お疲れさまでした」
森野。
「お疲れさまでした」
二人。
会社を出る。
駅。
向かう。
森野。
「相沢さん」
「何?」
「今日」
「うん」
「恋人最後の日ですね」
相沢。
「そうだね」
明日。
二人は。
婚姻届を出す。
森野。
「何かします?」
「何かって?」
「恋人最後の日らしいこと」
「例えば?」
森野。
考える。
「デート?」
「普通だな」
「映画?」
「二時間かかる」
「食事?」
「それはする」
「では」
森野。
困る。
「何をするんです?」
相沢。
「いつも通りでよくない?」
「いつも通り?」
「スーパー寄って」
「うん」
「飯作って」
「うん」
「テレビ見て」
「うん」
「寝る」
森野。
「それだけ?」
「それが俺たちじゃない?」
森野。
少し。
笑う。
「そうですね」
スーパー。
二人。
かご。
持つ。
「何食べる?」
「カレー」
「昨日もカレー」
「昨日は会社の食堂です」
「二日連続じゃん」
「では魚」
「急に健康的」
「相沢さんが決めてください」
「じゃあ鍋」
「六月ですよ」
「冷房つければ」
「そこまでして鍋を食べる必要あります?」
結局。
ハンバーグ。
家。
二人。
料理。
相沢。
玉ねぎ。
切る。
森野。
ひき肉。
混ぜる。
「相沢さん」
「何?」
「恋人最後の夕食がハンバーグ」
「いいじゃん」
「もっとおしゃれなものでも」
「ワイン開ける?」
「あります?」
「ない」
「駄目ですね」
食べる。
普通に。
おいしい。
食後。
ソファ。
二人。
テレビ。
バラエティ番組。
くだらないクイズ。
相沢。
答える。
「北海道」
テレビ。
正解。
北海道。
相沢。
「ほら」
森野。
「偶然です」
「実力」
「では次」
問題。
相沢。
「大阪」
不正解。
京都。
森野。
「弱いですね」
「難しい」
十一時。
テレビ。
消す。
森野。
「本当に」
「うん」
「普通の日でした」
「嫌?」
「いいえ」
森野。
相沢の肩。
寄る。
「これでいいです」
「うん」
「明日から」
「うん」
「夫婦」
相沢。
「そうだね」
森野。
「変な感じ」
「今さら?」
「今さらです」
翌朝。
土曜日。
午前九時。
二人。
家。
出る。
婚姻届。
森野。
クリアファイル。
入れて。
持っている。
「森野さん」
「はい」
「忘れてない?」
「三回確認しました」
「身分証」
「あります」
「必要なもの」
「あります」
「婚姻届」
森野。
ファイル。
上げる。
「あります」
「じゃあ行こう」
市役所。
到着。
窓口。
待つ。
森野。
妙に。
緊張。
相沢。
「大丈夫?」
「はい」
「顔硬い」
「相沢さんは普通ですね」
「緊張してるよ」
「見えません」
番号。
呼ばれる。
二人。
窓口。
婚姻届。
提出。
職員。
確認。
少し。
待つ。
森野。
相沢。
並ぶ。
言葉。
ない。
数分。
職員。
「はい」
二人。
見る。
「問題ありません」
森野。
「……」
「お預かりします」
相沢。
「お願いします」
それだけ。
驚くほど。
あっさり。
終わる。
市役所。
外。
森野。
立ち止まる。
「終わりました?」
「終わった」
「本当に?」
「たぶん」
「何か」
「うん」
「もっと」
森野。
市役所。
振り返る。
「鐘とか鳴らないんですね」
相沢。
「何の鐘?」
「分かりません」
「拍手とか?」
「それも変ですね」
二人。
笑う。
相沢。
「森野さん」
「はい」
「結婚したね」
森野。
少し。
黙る。
「はい」
相沢。
「今日から妻?」
「そうなります」
「俺は夫」
「そうですね」
「森野さん」
「はい」
「これからよろしく」
森野。
「こちらこそ」
少し。
間。
森野。
「直人さん」
相沢。
止まる。
「今」
森野。
歩き出す。
「帰りますよ」
「もう一回」
「嫌です」
「リリカ」
森野。
「外です!」
「会社じゃない」
「人がいます!」
二人。
歩く。
帰り道。
相沢。
「昼どうする?」
森野。
「何か食べて帰ります?」
「新婚最初の昼飯」
「その言い方やめてください」
「記念だから」
「では」
森野。
周囲。
見る。
駅前。
ラーメン屋。
定食屋。
カフェ。
たこ焼き。
森野。
指す。
「たこ焼き」
相沢。
「ついに大阪らしい」
「大阪に来て三か月ですけど」
二人。
たこ焼き。
買う。
近くのベンチ。
座る。
熱い。
森野。
「熱っ」
「気をつけて」
「先に言ってください」
「たこ焼きは熱いでしょ」
「想像以上です」
結婚。
最初の食事。
高級レストランではなかった。
たこ焼きだった。
でも。
二人には。
それくらいが。
ちょうどよかった。
月曜日。
午前八時五十分。
大阪支社。
森野。
出社。
「おはようございます」
相沢。
三席向こう。
「おはようございます」
山本。
「おはようございます」
そして。
二人を見る。
「そういえば」
「はい?」
「土曜日」
森野。
「あ」
相沢。
「あ」
山本。
「出したんですか?」
森野。
少し。
照れる。
「はい」
「おお!」
周囲。
「え?」
「何?」
山本。
「相沢さんと森野さん、結婚しました!」
森野。
「山本さん!」
拍手。
起きる。
「おめでとうございます!」
「おめでとう!」
「ありがとうございます」
相沢。
頭。
下げる。
森野も。
下げる。
スマートフォン。
通知。
東京。
田中。
『今日ですよね?』
森野。
『何がですか』
『結婚後初出勤』
森野。
『なぜ覚えているんですか』
『当然です』
続いて。
『新婚生活どうですか?』
森野。
入力。
『三日前までと同じです』
田中。
『夢がない』
森野。
少し考える。
そして。
入力。
『でも、それがいいです』
送信。
相沢。
「森野さん」
「はい」
「十時の会議」
「資料確認しました」
「どう?」
「二か所直してください」
「どこ?」
森野。
立つ。
相沢の席へ。
画面。
指す。
「ここです」
「細かいな」
「仕事です」
「はい」
いつもの。
会社。
いつもの。
二人。
恋人だった昨日までと。
ほとんど。
何も変わらない。
ただ。
一つだけ。
変わった。
仕事が終われば。
恋人のいる家へ帰るのではない。
家族のいる家へ。
帰るようになった。
それだけだった。
そして。
それは二人にとって。
思っていたよりずっと。
大きな変化だった。
物語は。
いよいよ。
最後の一日へ向かっていた。
コメント
1件
うわあ… もう泣きそうになりました。 「恋人最後の日」というタイトルからして切ないのに、実際はめちゃくちゃ温かくて… 婚姻届を出す前の日の“いつも通り”の大切さが沁みました。 会社ではきっちり仕事して、帰りはスーパー寄ってハンバーグ。テレビ見て、名前呼び合って照れて… すごく彼ららしい一日だなって思いました。結婚しても何も変わらない、でもそれが一番の幸せって感じがして、心がじんわりしました。 「家族のいる家へ帰る」ようになったっていうラストの一文、重くて優しくて… もう二人の幸せを心から願ってしまいます。素敵な作品をありがとうございます🤍