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んふ、好き
頬を突き刺す斜陽。
足首のスーツの隙間から、容赦なく熱風が這い上がってくる。
息も絶え絶えな草いきれに同調し、恨みがましく空を見やった時。
「……日本、涼まないか?」
ロシアさんはそう言った。
不意にこぼされた凛とした声に相反するそわそわとした目線。
河川敷。『涼む』。
とある可能性に行き当たった僕が聞き返そうとする頃にはもう、彼は靴を脱いでいた。
そのままスラックスの裾を折り、日課でもこなすようにずんずん水を分け入っていく。
「ロシアさん……。まさか、川遊びを?」
「ちょっと涼むだけだ。」
ほら、とロシアさんが水面を叩く。
ぱしゃり、と飛沫が小さく波紋を作った。
「それはもう遊んでるんじゃ………。」
さらさら流れる川の中、長身男がただひとり。
美しいはずの光景がどこかシュールに映るのは、彼の真顔のせいだろうか。
「いい歳して……。」
「日本よりは若い。」
遺憾の意を頬に込めると、くすりと小さく笑われた。
「リスみてぇ。」
風鈴のような軽やかな響きが妙に頭に残る。
「涼しいぞ、日本。」
誘うように両腕を広げてみせる彼。
周囲の視線を確認しながらも、不思議と拒絶の言葉は浮かばなかった。
「……ちょっとだけ、ですよ。」
そう言って裸足を川に浸す。
右足、左足、と水の感触が肌を包み、火照った足裏から熱がすっと引いていく。
水面に映った空は、夕日に少し白んでいた。
「ほら、こっち来いよ。」
ロシアさんが笑った。
少年のように、少し照れたように。
その笑顔に見惚れた数秒後のことだった。
「ひゃっ!?」
つるんっ、とものの見事に川藻に足を取られる。
重力に引っ張られる感覚と、思わず伸ばした手。
「日本っ!?」
ぐらりと揺れる視界。
落下の先に感じたのは、水の冷たさと、ひどく優しい温かさだった。
ばしゃん。
前向きに倒れ込んだはずなのに、沈み込むはずの水面が来ない。
恐る恐る目を開けると、何故か僕はロシアさんに馬乗りになっていた。
「すっ、すみませんっ!」
短くうめいて、アメジストが僕を映す。
「いや、いい。俺も受け止めるのが遅れた。」
早く退こうとした瞬間、両腕に腰を縫い付けられる。
そのままぴっとりとくっついた姿勢に戻された。
「……濡れてるな。俺も、お前も。」
「すみません……転びましたからね。」
びしょびしょになった服が頬に当たって、気持ちよさと気まずさが押し寄せた。
下着までしっとりと張り付く感覚に、羞恥が同時に湧き上がってくる。
やけにクリアに聞こえる心音に頬が熱くなり、身を捩って抜け出した。
日本、と呼ばれる。
顔を向けると、ロシアさんは悪い笑みを浮かべていた。
「じゃあ、もういいよな?」
「何が……わぶっ!?」
派手な水音を立て顔に冷たい粒子がかかる。
水をかけられた、と認識するまでの間、ロシアさんはケタケタと笑っていた。
あまりにも屈託のない声に毒気を抜かれる。
「……やり返しても?」
「いいだろ。俺もびしょ濡れだし。……たまには、童心に帰ろうぜ。」
「難易度高いですねぇ……記憶が遠すぎまず。」
そう返しながらも彼を真似てニタリと笑い、水面を掬った。
手から放った水が彼の腕にかかり、楽しげに目が細められる。
「よろしい。ならば戦争、だっ!」
「わっ、…負けませんよ!」
雨のように飛び交うの中、声を立ててはしゃぎ合う。
「おいっ!?今顔狙ったろ!」
「あははっ、戦線快調!」
宙を舞う水晶玉が弧を描き、夕暮れの空に溶けていく。
ばしゃり、ぱしゃりと川面を揺らす。
服の重さも水の冷たさも、彼の笑顔の前では塵に同じだ。
服なんかすぐに乾くし、風邪を引いたら一緒に寝込めばいい。
そんなふうに思うのは、随分絆されてしまったということだろうか。
「……なぁ日本。また、やろうな。」
「ちょっとだけ、ですよ。」
照れと本気でそう返した。
水の中、繋がれた手に力が込もる。
濡れても転んでも、もう、いっか。
びしょ濡れでも、今がちょっと幸せなら。
(終)