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#日常組
tagu2026226
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第12話「君からの口づけ」
翌日の午後。
皇宮の図書室には、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。
天井まで届く本棚には、歴代の皇帝に関する記録や、帝国各地の資料が整然と並んでいる。
その一角で、ルカは書類の束を抱えながら、隣に立つリンデンをちらりと見上げた。
「殿下、こちらの書類は年代順に整理すればよろしいでしょうか?」
「ああ。古いものから並べてくれ。あとで私が確認する」
「かしこまりました」
返事をして、ルカは書類を一枚ずつ確かめていく。
いつもと変わらない仕事のはずなのに、今日はどこか落ち着かなかった。
理由は、もちろん分かっている。
昨日、庭園でリンデンと手をつないだこと。
そして、自分から「また誘いますね」と伝えたこと。
あのときは勢いで言えたものの、改めて考えると、ずいぶん大胆なことを言ってしまった気がする。
それでも、後悔はしていなかった。
むしろ、リンデンが嬉しそうにしてくれたことを思い出すと、今日も何かしてあげたくなる。
「……ルカ」
「は、はい!」
突然名前を呼ばれ、ルカは肩を跳ねさせた。
リンデンが不思議そうにこちらを見ている。
「先ほどから、何度も手が止まっているぞ。疲れたのか?」
「い、いえ! 大丈夫です!」
「本当に?」
「本当です!」
勢いよく答えたあと、ルカは少しだけ視線を逸らした。
まさか、殿下のことを考えていたからです、などと言えるはずもない。
リンデンはしばらく彼を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……無理はするな。休憩が必要なら、いつでも言え」
「ありがとうございます、殿下」
優しい。
いつだって、この人は自分を気遣ってくれる。
だからこそ、今度は自分から何かを伝えたかった。
リンデンが自分を大切にしてくれるように、自分も彼を大切に思っているのだと。
その気持ちを、言葉だけではなく伝えてみたい。
ルカは書類をそっと置き、意を決して口を開いた。
「……殿下」
「何だ?」
「少しだけ……お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
リンデンはすぐに書類を机へ置いた。
「構わない。どうした?」
「その……」
言いかけて、ルカは口を閉じた。
心臓がうるさいほど鳴っている。
昨日までは、リンデンから近づいてきてくれるのを待つばかりだった。
けれど、今日は違う。
自分から一歩、踏み出すのだ。
「……殿下は、昨日、僕から誘ってもらえて嬉しかったとおっしゃいましたよね」
「ああ。もちろん覚えている」
「……それなら」
ルカは、そっとリンデンの手に触れた。
「今日も、僕から何かをしても……喜んでくださいますか?」
リンデンの瞳が、わずかに見開かれた。
「……ルカ?」
「……嫌でしたら、ちゃんと言ってください」
そう前置きしてから、ルカは背伸びをした。
そして、リンデンの頬にそっと手を添え、ほんの一瞬、彼の唇に口づけた。
触れたのは、ほんのわずかな時間だった。
けれど、ルカにとっては、これまでにないほど勇気のいる行動だった。
唇を離した瞬間、顔が一気に熱くなる。
「……っ」
何も言えずに俯くルカ。
一方のリンデンは、完全に言葉を失っていた。
普段なら、どんな不意打ちにも動じない。
皇太子として、常に冷静でいることを求められてきた。
それなのに。
今、自分の目の前で、ルカが真っ赤になっている。
しかも、その理由は――自分から口づけをしてくれたから。
「……ルカ」
ようやく名前を呼ぶと、ルカはびくりと肩を揺らした。
「は、はい……」
「今のは……」
「す、すみません! 突然こんなことを……!」
ルカは慌てて一歩下がろうとした。
「ただ、僕も殿下に……喜んでいただきたくて……。その、昨日からずっと考えていて……」
言葉を重ねるほど、恥ずかしさが増していく。
「……やっぱり、僕には早かったでしょうか……」
不安そうに顔を上げたルカを見て、リンデンははっとした。
違う。
そんなふうに思わせたかったわけではない。
「……ルカ」
リンデンは、彼の手をそっと握った。
「こちらを見てくれ」
ルカは恐る恐る顔を上げた。
そこにあったのは、怒りでも困惑でもなかった。
驚きと、隠しきれない喜びを宿した、優しい青い瞳だった。
「……嫌なわけがないだろう」
「……本当、ですか?」
「ああ」
リンデンは、つないだ手をゆっくりと持ち上げた。
「お前から口づけをしてくれるとは、思っていなかった。……正直、今も夢ではないかと思っている」
「ゆ、夢ではありません……!」
思わず答えたルカに、リンデンの口元が緩んだ。
「そうか」
そして、彼は少しだけ身を屈めた。
「……もう一度、してもいいだろうか?」
ルカは驚いたあと、恥ずかしそうに頷いた。
「……はい」
今度は、リンデンからだった。
彼はルカの気持ちを確かめるように、優しく口づけた。
ルカは目を閉じ、そっと彼の手を握り返す。
唇が離れたあとも、二人はしばらく見つめ合っていた。
「……殿下」
「何だ?」
「……僕、少しだけ分かった気がします」
「何がだ?」
ルカは、つないだ手を見つめた。
「殿下が、いつも僕に優しくしてくださる理由です」
リンデンは黙って耳を傾けた。
「僕はまだ、自分にそんな価値があるのか、分からなくなることがあります。……でも、殿下に喜んでいただけると、僕も嬉しいんです」
ルカは、少し照れくさそうに笑った。
「だから、これからは僕からも……殿下を喜ばせたいです」
その言葉に、リンデンの表情が柔らかくなった。
「……そうか」
彼はルカの手を握り直した。
「ならば、これからも遠慮なく頼らせてもらおう」
「……はい!」
ルカが嬉しそうに頷く。
その笑顔を見つめながら、リンデンは胸の内で思った。
この小さな側近は、自分がどれほど人の心を動かすのか、まだ分かっていない。
たった一度の口づけで、これほどまでに心を乱されるなど。
ましてや、自分から会いたいと言い、勇気を出して近づいてきてくれるなど。
そんな日が来ることを、以前の自分は想像もしなかった。
「……ルカ」
「はい?」
「今日は、もう少しここにいてくれないか」
ルカは目を丸くした。
「お仕事は、よろしいのですか?」
「書類の整理は終わりかけている。残りは私が確認する」
「……それなら」
ルカは少しだけ迷ってから、微笑んだ。
「僕も、もう少し殿下と一緒にいたいです」
リンデンは一瞬、息を止めた。
そして、誰にも見せたことのないような穏やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
その声があまりにも優しくて、ルカはまた頬を赤くした。
二人は並んで書類の整理を再開した。
時折、目が合うたびに、ルカは照れくさそうに微笑む。
そのたびに、リンデンは平静を装うのに苦労するのだった。
*
その頃。
図書室へ続く廊下を、セレスティアが歩いていた。
本来なら、皇宮を訪れた彼女が立ち入る必要のない場所だった。
けれど、用事を済ませて帰ろうとした際、ふと開いた扉の向こうに見覚えのある姿を見つけたのだ。
銀色の髪。
黒と金の衣装。
そして、その隣に立つ黒髪の側近。
セレスティアは足を止めた。
二人は何かを話していた。
リンデンがルカの手を握り、ルカが恥ずかしそうに微笑んでいる。
その光景だけでも、彼女の胸には苛立ちが込み上げた。
だが、次の瞬間。
ルカが背伸びをし、リンデンに口づけた。
「…………え?」
セレスティアの表情から、笑みが消えた。
自分の目が信じられなかった。
あのリンデンが。
かつて自分との婚約を解消した、帝国の第一皇子が。
身分も家柄も魔法の才も持たない、あのルカに。
自分から手を取るだけではない。
ルカからの口づけを受け入れ、あんなにも優しい表情を浮かべている。
セレスティアは、ぎゅっと扇子を握りしめた。
「……どうして、あの子なの?」
声にならない呟きが、唇からこぼれた。
自分は由緒ある家の令嬢だ。
容姿も教養も、皇太子の隣に立つにふさわしいものを備えている。
そう信じて疑わなかった。
それなのに、リンデンは自分を選ばなかった。
そして今、その隣にいるのは――自分が見下していた側近だった。
「……許せない」
セレスティアの瞳に、冷たい光が宿った。
ルカがいなくなれば。
あの側近がリンデンのそばから消えれば。
リンデンも、いつか自分の選択を後悔するはずだ。
少なくとも、あの子だけが特別に愛される光景を、これ以上見ずに済む。
セレスティアは音を立てないように扉から離れ、静かに廊下を歩き始めた。
その顔には、先ほどまでの嫉妬を隠すように、いつもの上品な微笑みが戻っていた。
けれど、その瞳の奥では、すでにひとつの計画が形になり始めていた。
*
その日の夕刻。
セレスティアは、皇宮から少し離れた屋敷の一室にいた。
向かいに座っているのは、ルカがかつて追放されたエース家の関係者だった。
「……本日は、どのようなご用件でしょうか」
相手の問いに、セレスティアは優雅に紅茶を口に運んだ。
「実は、あなた方にお願いしたいことがあるのです」
「お願い、ですか?」
「ええ。あなた方のご家族について、少しお話を伺いたくて」
その言葉に、相手の表情がわずかに強張った。
セレスティアは、その反応を見逃さなかった。
「ルカ・エース。……今は、皇太子殿下の側近を務めているそうですね」
「……あの者のことは、すでに家から追放しております」
「存じておりますわ」
セレスティアは微笑んだ。
「ですが、あの子は今、殿下から特別な扱いを受けているようですの」
相手は何も答えなかった。
「本来なら、あなた方の家とはもう関係のない人間。そうでしょう?」
「……それは、そうですが」
「ならば、もう一度、あなた方に引き取っていただくというのはいかがかしら」
セレスティアの声は、どこまでも穏やかだった。
けれど、その提案の裏にある意図は、決して善意ではなかった。
「……しかし、殿下がお許しになるとは思えません」
「もちろん、正面からお願いしても難しいでしょうね」
セレスティアはカップを置いた。
そして、微笑みを崩さないまま、静かに告げた。
「ですから――あの子を、殿下の目の届かないところへ連れていっていただきたいのです」
部屋の空気が、凍りついた。
「……それは」
「ほんの少し、姿を消してもらうだけですわ」
セレスティアは扇子を開き、口元を隠した。
「そうすれば、殿下もきっとお分かりになるでしょう。あの子が、ご自身の隣にふさわしい人間ではないということを」
相手は戸惑いを隠せない様子だった。
けれど、セレスティアは構わず言葉を続けた。
「もちろん、あなた方にも悪いお話ではないはずです。あの子が戻ってくれば、エース家にとっても都合がよろしいでしょう?」
しばらくの沈黙のあと、相手はゆっくりと視線を上げた。
「……具体的には、何をすればよろしいのでしょうか」
セレスティアは、満足そうに微笑んだ。
「話が早くて助かりますわ」
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
彼女は最後に、ひとつだけ念を押した。
「よろしいですか。ルカがいなくなったことと、私の名前が結びつくようなことがあってはなりません」
「……承知いたしました」
「それなら、お願いいたしますわ」
セレスティアは立ち上がり、優雅に一礼した。
「――あの子を、殿下のもとから消してくださいませ」
扉が閉まる。
一人残された部屋で、セレスティアは窓の外を見つめていた。
図書室で見た、あの光景が脳裏によみがえる。
ルカに向けられた、リンデンの優しい眼差し。
自分には決して向けられなかった表情。
「……あの子さえいなければ」
呟きは、誰にも届かなかった。
けれど、その言葉が引き起こすことになる出来事を、まだ誰も知らない。
翌日、ルカの身に何が起こるのか。
そして、彼の姿が消えたとき、リンデンがどれほど必死に探し求めることになるのか。
二人の穏やかな日々は、静かに終わりを告げようとしていた。
コメント
1件
「君からの口づけ」、もう胸がいっぱいです……! 自分から一歩踏み出したルカの勇気と、それを受け止めてなお優しいリンデンに、何度もときめきました。最後のセレスティアの暗い決意が不気味で、次の展開が気になって仕方ないです。おふたりの幸せな時間が長く続きますように……!