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「莉乃、こっち」
あの日から二日後の日曜日の朝、私は重い気持ちで待ち合わせの駅にいた。
「おはよう。やっぱり帰ったらだめ?」
申し訳なさそうにしている香織に、私は声を掛ける。
「無理、二人なんて……」
いつになく自信なさそうな香織に、私はため息をついた。
あの日、香織は弘樹さんに「また会いたい」と言われたらしい。
でも、二人きりで会うのは無理――そう言って、あろうことか私と副社長も一緒に遊ぶ約束をしてしまったのだという。
「どうして? 別に二人で会うのなんて慣れてるじゃない」
私と違って、香織は半年前にも彼氏がいたはずだ。
浅野香織――高校時代からの親友で、真っ黒な瞳に小さな唇、さらさらの黒髪。
彼女には「美人」という言葉がぴったりだ。
「だって、あんなに大人な人と付き合ったことなんてないし……」
いつも自信にあふれている香織が、こんな態度を見せるなんて初めてだった。
「でも、副社長は来ないかもしれないよ」
私のセリフに、香織は思い出したように言った。
「それにしても莉乃の上司とはね……驚いちゃった。でもバレたよね? 莉乃の“本当の姿”」
その言葉に、私は少し複雑な気持ちになる。
知られて困ることはないけれど、できれば知られたくなかった――それが本音だ。
今日だって、会社に行くときのような地味な格好で来ようかと悩んだ。
私が“素”を出すことは、特別な日だけで、ほとんどない。
でも、行き先はずっと行きたかったテーマパーク。
その誘惑に負けて、私はジーンズにシャツというカジュアルな服装を選んだ。
副社長には悪いが、せっかく行くなら楽しみたい。
そう思っていたところに、大きなドイツ車が目の前で停まった。
まだ朝早く、駅前は人も少なかったが、
そこから降りてきた弘樹さんに、周囲の人々がチラチラと視線を送る。
確かにこれは緊張するかも。
あの日は薄暗い店内だったからよくわからなかったが、
弘樹さんもかなり整った容姿で、副社長とはまた違った「近寄りがたい雰囲気」がある。
「おはよう」
会社で見せるような笑顔ではなく、少し不機嫌そうに言った副社長は、
ちらっと弘樹さんたちを見て言った。
「子供じゃないんだから、二人で行けよな……」
「本当ですよね」
その言葉に、私も思わず同意する。
「お前は来ないかと思った」
「どうしてですか? 副社長こそ、テーマパーク似合いませんよ」
少し意地悪そうに微笑む副社長に、私はムッとして言い返す。
「初めてだよ、行くの」
「え? 初めてって……嘘ですよね?」
驚いて言った私に、副社長はくすりと笑みを漏らした。
「嘘なんかつかない。それに……今さら帰れないし。今日はよろしく、莉乃」
わざとらしく私の名前を呼ぶと、副社長は笑いながら歩き出した。
私は大きなため息をついて、副社長の後を追いかけた。
弘樹さんの運転で、車は快適に高速を走っていた。
私たちは後部座席でスマホをいじりながら、テーマパークの情報を見てあれこれと話をする。
そんなことをしているうちに、車はあっという間に駐車場へと到着した。
「香織ちゃん、行こうか」
さらりと弘樹さんが香織に寄り添い、二人は歩き出した。
「俺たち帰ろうか?」
「そんなこと言うなよ」
副社長の言葉に苦笑しつつ振り向くと、弘樹さんが私を見た。
「莉乃ちゃん、無理言ってごめんね。今日はよろしく」
「こちらこそ。私のことは気にせず、香織をよろしくお願いします」
何事にも動じなさそうな弘樹さんのその態度に、私はくすりと肩を揺らして小さく頭を下げた。
その言葉に安堵したように、二人は仲良く歩き出した。
「莉乃、久しぶりなの?」
「はい。本当に嬉しいです」
副社長の存在を忘れるぐらい、自分の世界に入ってしまい、自然と言葉がこぼれ落ちた。
「そっか。じゃあ今日は楽しめよ」
柔らかな笑みを浮かべながら、副社長はそう言うと、私の頭をポンと軽く触れた。
「あっ……ありがとうございます」
その笑顔があまりに自然で、私は副社長に視線を向けると、思わず目が離せなくなった。
「莉乃? あれ誰?」
そんな私に気づかれたかとドキッとしたが、副社長はパーク内でも人気のキャラクターを指さしていた。
「嘘でしょ?」
あんな人気者を知らないなんて信じられず、つい副社長の手を引いて走り出してしまった。
「写真撮りたいです!」
「莉乃?」
驚いたように声を上げる副社長を引っ張りながら、私はキャラクターの元へ駆け寄った。
スマホをキャストの人に渡し、キャラクターの横に立つ。
「彼氏さんも一緒にどうぞ」
呆然と私を見ていた副社長だったが、満面の笑みを浮かべるスタッフに押されるように、私の横に来た。
「うれしい!」
スマホを覗き込みながら、撮ってもらった写真を副社長に見せる。
「初めてのキャラクターとの写真ですね!」
ウキウキしながら言うと、副社長は苦笑しつつ私を見た。
「莉乃、その『副社長』はやめて。仕事みたいだ」
「え? でも……」
「でもは受け付けない。上司命令だ」
またもや切り札を出され、私は「ウッ」と言葉に詰まる。
「敬語もやめてほしいって言ったよな?」
「そうですけど……」
そう簡単に呼び方を変えられるなら苦労はしない。
先日の夜はお酒も少し入っていたし、暗かったから呼べた気がする。
一人でぐるぐると考え込んでいると、副社長が私の肩を軽く叩いた。
「莉乃、これは何に並んでる?」
すぐ横にできた列を、副社長改め誠は指差す。
そこには、パークで一番人気と思われるキャラメル味のポップコーンを求める人たちの列ができていた。
「ポップコーンです」
つい敬語になってしまい、私は言葉を止めた。
「ほら、みんな首から下げているケースに入れる……んだよ」
敬語をやめようとすると、どうにもぎこちない話し方になり、私はちらりと誠を見た。
「へえ、莉乃、並ぼう? 俺、食べたことないし」
「え? 食べたことないの?」
驚く私に、誠はくすりと笑った。
「その調子だ。敬語はなしな」
初めて買うという誠は、ポップコーンに興味津々の様子で、頭の後ろが開くそのケースをじっと見つめていた。
「2700円です」
私がバッグから財布を出そうとすると、誠は当たり前のようにそれを阻止し、にこやかな笑みを浮かべながらケースを受け取る。
「ほら、莉乃」
そう言いながら、誠は可愛らしいキャラクターのケースを私の首に掛けた。
「ありがとう」
久しぶりにかけられた大好きなキャラクターを見ながら、私は嬉しさで微笑んだ。
「うん、似合ってるよ。莉乃」
臆面もなく言われたその言葉に、私は一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
これだから軽い男って。
恥ずかしさを隠すように、自分は誠のようなタイプが苦手だと思い直す。
私の好きなタイプは真面目な人。
「莉乃?」
そんな私の心中など知る由もない誠が、不思議そうに私を見つめる。
私はキュッと唇を噛むと、ポップコーンのケースを開けて中身を取り出し、口に入れた。
甘く幸せな味が広がり、ほっとしつつも、別に誠が何か悪いことをしたわけでもないと思い直す。
そんな反省をしながら、無言で誠にケースを差し出した。
「頭が開くとかシュールだな」
楽しげに笑う誠を見て、今日だけは特別だと自分に言い聞かせ、私は小さく息を吐いて誠を見上げた。
特に何も気にしていない様子で、誠はポップコーンを取り出し、口に運ぶ。
「うまい」
「でしょ? いろんな味があるんだよ」
「また後で買おうな」
素の表情を見せる誠に、私は少しだけ踏み込んでみたくなった。
「テーマパークもポップコーンも初めてって。あんなにたくさんいる女の人と来なかったの?」
私の問いに、誠はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「たくさんいる女の人ね。莉乃にはそう思われても仕方ないか……」
「そりゃそうでしょ。この二年間でどれだけお花やレストランの予約を取らされたか……」
こんな場所で自分からこの話題を振ってしまったことを、私は後悔する。
「ごめんなさい」
プライベートに踏み込みすぎた自分を恥じ、私は俯いた。
「いや、いいよ。本当のことだ。俺の周りにいる女は、こういうところを喜ぶような女じゃないからな。所詮、俺の地位とかステータスにしか興味がないんだよ」
誠のその言い方は、どこか自虐的な空気を帯びているように聞こえた。
「そんなこと……」
「俺のことはいい。今日は莉乃が楽しむ日だよ。さあ、次はどれに行く?」
そう優しい瞳で見つめられ、私は言葉を飲み込む。
二年間、いつも作られた笑顔で、軽薄なイメージしかなかったこの人。
今は、この人のことがまったくわからない。
「誠の行きたいところで」
今日、初めて名前を呼んだことに気づいたのかもしれない。
少しだけ驚いた表情を見せた誠は、ゆっくりと優しい笑みを浮かべた。
「じゃあ、あれに乗ろう」
目の前のアトラクションを楽しげに指さす誠に、私も考えるのをやめて、今日を思い切り楽しむことに決めた。
それから、目につくアトラクションには次々と乗り、キャラクターの名前を誠に教える。
「だから、あれは違うよ」
何度言っても間違える誠に、私は笑いながら訂正する。
「だって、同じに見えるだろ?」
ぶつぶつ言い訳をしながら、誠は少し遠くを指さす。
「莉乃、あっちにもいる。行こう」
そう言いながら、自然に誠は私の手を握った。
その行為が不快に感じない自分に驚きながら、私も一緒に走り出す。
いつもの副社長とは違う誠に、戸惑いを隠せなかった。
「誠、そういえばお腹すかない?」
朝一番からここにいる私たちは、全力で遊びすぎて昼食を取っていないことを思い出す。
そして、ここで初めて香織たちと一緒に来たことを思い出す。
そんな自分が信じられなくて、私は誠をじっと見た。
部下として二年間一緒に過ごしてきたが、プライベートな時間を共有するのはこれが初めてだ。
それでも、まるで昔から知っているような安心感が誠にはある。
あんなに嫌悪感を抱いていたのに、今の自分の感情が信じられなかった。
「そういえば食べてないな。俺、あんまり空腹を感じなくて。気づかなくて悪かったな」
無意識に誠をじっと見つめていた私に、不思議そうに声をかける誠。
「どうした? お腹すきすぎた?」
「違うの」
否定してしまった私に、誠は店を探していたのだろう足を止めた。
「違うの?」
「あっ、違わないけど。誠はいつも、きちんとご飯食べないなって」
思ってもいなかったことを、言い訳のように口にした私に、誠はばつの悪そうな表情を浮かべる。
「集中するとつい忘れるんだよ。お礼が遅くなったけど、この前はありがとう。久しぶりに三食食べた」
誠の言葉で、徹夜明けにサンドイッチを買ったことだと気づき、私は小さく首を振る。
「こっちこそごめんなさい。仕事が大変なことわかっていたのに、早く帰りたくて……」
罪滅ぼしのような気持ちで買ったサンドイッチにお礼を言われ、私はいたたまれなくなる。
「俺が帰って大丈夫だって言ったんだから、気にするな。莉乃にも事情があるんだろ?」
少し探るような、それでいて気遣うような誠の声音に、私はいつも地味にしている理由を指摘されているような気がした。
どう答えればいいか思案していると、柔らかな声が降ってきた。
「そういえば、弘樹たち、飯食ったのかな?」
「あっ、私も香織たち、どうしたかなって思ってた」
話が変わったことに少しだけ複雑な思いを抱きつつ、私も答える。
私の話を誠にしたかったの?
自問自答しても、答えが出るはずもなかった。
「電話でもしてみる?」
私がそう問いかけたところで、カバンの中のスマホが音を立てた。
「香織から」
スマホの画面を誠に見せた後、通話ボタンを押した。
その後、四人で昼食をとり、パレードを見たりと楽しい時間を過ごした。
夜も近づき、パーク内に色とりどりのイルミネーションが灯り始める。
「きれいだね」
香織と微笑み合っていると、後ろから弘樹さんの声が聞こえる。
「莉乃ちゃん、香織ちゃん借りてもいい?」
昼からは四人で行動していたが、香織と二人きりになりたいのだろう。
香織に視線を向けると、小さく頷いた。
そんなことを思っていると、不意に誠と視線が交わる。
「莉乃、行くぞ」
決して無理をしている様子ではない誠に、私はほっと安堵した。
安堵した?
自分でもその感情に驚きつつ、私は誠の方に向かって足を踏み出す。
近づくと、当たり前のように差し出された手を、私は少しだけ躊躇した後、キュッと握りしめた。
「弘樹、また連絡して」
手をつないだまま、私は弘樹さんたちに空いている方の手を振る。
心臓がドキドキと煩い。
「あいつらの方が付き合ってるみたいだな」
笑いながら言う弘樹さんの声を後ろで聞きながら、私は誠と歩き出した。