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放課後の昇降口には、もう誰の気配もなかった。校内放送の残響すら、どこか遠くに吸い込まれていくような、取り残された時間。
遥は、しばらく何も言わなかった。
額を俺の胸に押しつけたまま、肩を上下させながら、時折、かすかに息を吸い込んでいる音だけが聞こえる。
「……泣きすぎて、頭痛ぇ」
そうぽつりと漏らした声は、ほんの少しだけ──力が抜けていた。
俺はそれに返事をしなかった。
ただ、腕を離さずにいた。
ようやく触れられた。遥が、それを拒まなかった。
その事実だけで、胸の奥が、何かに押しつぶされそうだった。
「……なんで」
遥が呟いた。
「……なんで、おまえは……逃げねぇの?」
その問いに、言葉を選ぶ時間も、意味もなかった。
「たぶん、バカなんだと思う」
笑うつもりはなかったのに、自然とそう返していた。
「でも……おまえが全部壊したって言っても、俺には、まだ壊れてないもんが見えてんだよ」
遥が動かないまま、ふっと、小さく息を吐いた。
「おまえさ……こういうとき、黙ってりゃいいのに。マジでうるさい」
その言葉には、ほんのわずかに──生気があった。
でも次の瞬間、遥の身体がまた小さく震えた。
「……俺、今までずっと、誰かに触られるとき、いつも……“耐える”ってことしかしてこなかった」
声は小さく、低かった。
「優しさなんて、使い方わかんねぇし……
気持ちいいとか、嬉しいとか、そんなの──知らなかった」
「……なのに、今、怖いと思った。
おまえが俺に触って、俺が“それでもいい”って思っちまったことが……一番、怖かった」
沈黙が落ちた。
階段の向こうで、風が吹き抜ける音がした。
もう、外は夕暮れに染まりかけている。
「……俺、さ。日下部に、ちゃんと話せるようになりたい」
遥が、ゆっくりと言った。
「逃げるだけじゃなくて、壊さない方法……知りたいって、思ったんだよ」
そう呟いて、遥は顔を上げた。
目元はまだ赤い。声もかすれている。
けれど、その瞳の奥にあったものは、さっきまでとは違っていた。
壊れたままでも、立ち上がろうとするような光。
触れたいと願いながら、触れた自分を責める、矛盾と痛みの先で──それでも“繋がろう”とする、小さな覚悟。
俺は、静かにうなずいた。
「……それなら、ちゃんと待つよ。
おまえが話せるときまで。
壊さねえように、俺も、ちゃんと見てるから」
遥は何も言わなかった。
でも──小さく、かすかに、頷いたように見えた。
昇降口の空気が、ほんの少しだけ変わっていた。
冷たさの中に、わずかに体温のようなものが混ざっていた。
その日は、それ以上、何も交わさなかった。
けれど──
この沈黙を、遥はもう“拒絶”とは思っていなかった。
それが、すべてだった。
俺はきっと、
この先も、また逃げるかもしれない。
また誰かを壊すかもしれない。
でも今だけは。
この場所から、離れたくなかった。