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《《契約》》終了後、流石にこの制服で家に帰る訳にも行かない。
タクシー営業を終えて運行管理者の山田にSDカード、乗務員証、運行管理表を手渡す。
「あれ、西村さんジュースでも溢したんですか?」
山田がふんふんと鼻をヒクヒクさせて俺の顔を見る。やはり朱音の移り香はしっかりと残っている。それにしてもこんな時ばかり気がつく奴だな。
免許証をアルコール検知器に置き、ストローで息を吐く。ストローに赤い色が付いた。やばい、思わず唇を確認する。配車室では賑やかな配車依頼の着信音が鳴り響く。
「やっぱ、匂うか?」
「匂いますよ、けばいお姉さんでも乗せたんですかぁ?」
「・・・・そ、そうなんだよ。着替えてくるわ」
キャッシャーに売り上げをぶち込んだが、朱音とセックスした後はやはり惚けて散々だった。三桁営業を5回こなしても”手取川大橋”から金沢市までの運賃を自腹で切った所為でマイナス5,750円。1日丸々大損だ。
蚊に刺された尻をスラックスの上からポリポリと掻きながら階段を降りると踊り場で112号車の太田とすれ違った。
「ウィっす。お疲れさん」
「西村、昨夜も《《お愉しみ》》だったようだな?」
「どういう意味だよ」
「そういう意味だよ」
太田は同期入社だがこうやって意味もなく、一々絡んでくる。正直目障りな存在だった。
「どうでもいいわ、好きに言ってろ」
男子便所のすぐ横に薄暗く、男所帯らしい体臭が充満した更衣室がある。その片隅には座席シート回収専用のクリーニングボックスが置いてあり、個人的にクリーニングに出したい物は社員名と担当号車番号を書いた袋に入れて出せば数日後には綺麗になって戻って来る。
また、タクシーの座席に掛けられている白いレースのシートカバーは2週間に1度交換しなければならない。
(・・・・帰る前にシート交換すっかな)
制服のジャケット、スラックス、カッターシャツ、ネクタイをむしり取りクリーニングボックスに投げ入れた。
ロッカーに予め置いてあった黒いTシャツとジーンズに着替えて休憩所で一服していると124号車の北のじーさんがニヤニヤしながら近付いて来た。ギィとパイプ椅子が悲鳴を上げる。
「よぉ、西村、お前喰われたのか?」
「何の事っすか」
一瞬ドキッとした。思わず煙草の煙を吸いすぎて胸が圧迫され激しく咽せた。
「気を付けろよ、太田が何やらお前の周りを嗅ぎ回ってやがる」
「いつもの事っす」
「ちゲェよ、山代だよ、金魚の迎え」
「はぁ?」
自動販売機の腹の中にチャリンチャリンと硬貨が落ちる。北のじーさんは腕組みをしてしばらく考えるとオレンジジュースのボタンを拳骨でガツンと押した。ペットボトルが落ちる気配はない。
「北さん、それ、売り切れっすよ」
「いや、ゲンコで押せば出るかと思ってな」
「出ねぇすよ」
「そうだな」
ガハハハと笑うとその隣のイチゴミルクのボタンを人差し指でちょいっと押した。ピーガタンと軽快な音がして、北のじーさんはよっこらしょと屈みながら低い声で言った。
「あいつ、事務所の配車画面でお前のGPSを追うのが趣味らしいぜ」
「事務所は立ち入り禁止じゃねぇすか」
「お前さんだって”営業区域外”で走ってるだろ?お互い様だぜ」
煙草の先がドス黒い赤から白い灰になり、ポロリと灰皿に落ちる。
「気を付けるんだな。ギャンギャン五月蝿えマルチーズにチクられるぜ」
バタンバタンと軽快なドアの音。
休憩室の窓の外に何台かのタクシーが後方駐車で停まり、中から日勤のドライバーたちが、売り上げ金を入れるバッグを片手に次々と降りて来た。辺りが急に賑やかしくなり、俺がTシャツとジーンズに着替えている事に気付いた1人が大声で声を掛けて来た。
「なんだ、西村、昨夜は客に|ゲロ《吐か》られたのか。災難だったな」
「売り上げ散々だったんじゃねぇか?」
「運行停止か、御愁傷様」
ガハハハと雑談を交えた笑い声が階段を上り2階の事務所に消えた。小さめのペットボトルをゴミ箱に投げ入れた北のじーさんが肩をポンと叩いて俺を見下ろす。
「西村、見境なくすとロクな事にならねぇぞ」