「ただいま帰りました〜っと、疲れたわぁ」
後ろめたさからか不自然な大あくびをして玄関のドアを閉めた。革靴を脱ぐ、河川敷で着いたのかジャリジャリと靴底から砂が溢れ出る。クロックスに履き替え、一旦外に出ると外廊下でパンパンと靴を叩いて砂を落とした。
室内では珍しくそよそよと心地良い冷気がリビングから流れてくる。
(エアコン付けてるのか、珍しい)
売り上げ金は会社のキャッシャーの中、釣り銭と電卓が入った黒いバッグをチェストの上に置く。
(ありゃリャ)
リビングのベージュの革のソファを窺い見ると、智と洸が寝息を立てていた。テーブルの上には赤いマグカップと食べかけのクラッカー、カーペットの上には”ぐりとぐら”の絵本がページを開いたまま落ちている。
多分、洸に絵本の読み聞かせしているうちに2人で眠ってしまったのだろう。音を立てないように気を付けながら襖を開け、寝室からタオルケットを持ち2人の背中にそっと掛けた。
「ん、あ。お帰り」
ふわりと空気が動いた事に気付いた智が目を擦りながら肩肘を突いて起き上がった。
(おっ、おととと)
洸がズルズルとソファからずり落ちそうになり、慌てて2人でソファの上に戻す。顔を見合わせてそっと微笑み、キッチンへ移動する。
「・・・・お帰り、どうしたの。Tシャツじゃない」
「昨夜、客に吐かれてさ。運行停止、散々だったわ」
「え〜、最悪。制服は?」
「会社でクリーニングに出した。明日の替えの制服出しといて」
「オッケー」
西村は洗面所に向かいカランを捻り温い水で手を濡らす。ハンドソープを泡立てるが、朱音の膣の滑りが取れない様な気がして左指先を念入りに洗った。ジッと目を凝らして鏡を見るが朱音の口紅の気配はない。激しく絡めた舌の感覚が甦り、青い歯ブラシを手に歯磨き粉のチューブをニュルりと押した。
「ねぇ、裕人」
不意に智の手が身体に絡みつき、甘える仕草で背中に顔を埋める。
「汗臭いから、シャワー・・・・」
すると運行管理者の山田と同じく鼻先でふんふんと嗅ぐ仕草をし始めた。
鏡の中で目が泳ぐ。制服は脱いだ、着替えた、朱音の移り香は全部会社のクリ
ーニング回収ボックスの中だ。大丈夫だ。
「裕人、なんだろう。何だかキャンディみたいな匂いがする」
「え、そ、そう?」
髪の毛だ。そうだ朱音を突いている時、彼女の腕は俺の首筋に回されていた。
「若い子の付けそうな香水だねぇ。ガールズバーの女の子でも乗ったの?」
「あ、居たいた。脂ぎったサラリーマンの横に座ってたな」
「ええ。それってパパ活じゃん」
「パパ活すか」
「お金貰ってそのおじさんとお付き合いするんでしょ?」
「どうかなぁ」
パパ活・・・・俺のしている事もその類に入るのだろうか。いや、これは40万円の貸し借りの《《契約》》だ。パパ活とは違う。
「なんか裕人の匂いと混ざって凄く嫌!何だか気持ち悪いから今すぐシャワー浴びて来て!臭〜い!」
「臭い?」
「臭いよ!」
歯ブラシに付いていた歯磨き粉がポタリと落ち、西村の黒いTシャツに白いしみを作った。
「あ、もうすぐ溢す!早くTシャツ脱いで!洗うから!」
「う、うん」
「早く!」
「自分で脱ぐって!」
朱音と《《した》》時、制服を着ていた。何の問題も無い。一瞬の躊躇いが指先を伝う。問題は無い、大丈夫だ。智の言われるがままにTシャツを脱ぐ、特に問題はない、大丈夫だ。ジーンズのポケットから財布と《《営業用》》の携帯を取り出しダイニングテーブルの上に置いた。
「給湯器、点けといて。43℃。」
「うん」
脱衣所でジーンズのチャックを下ろし脚を抜こうとするが汗で貼り付いてなかなか脱げない。片足を抜いた所で一緒にグレーのボクサーパンツがずれた。リビングから《《営業用》》携帯のダースベイダーのテーマが響く。それは途切れる事なく続き、1度切れたがまた間を置かずに鳴り始めた。
「裕人、出なくて良いの〜?お客さんだよ?」
パタパタと智のスリッパの音が近付いて来る。どんどん近付くダースベイダー、エアコンのそよ風が窓辺のウィンドウチャイムを揺らしてシャランシャランと音が鳴った。
「山下さんて人からだよ?出なって。配車の予約かも知んないよ?」
「山下?」
「そ、山下さん、着信何回もあったよ、急ぎの用事じゃない?」
(・・・・・・朱音だ)
「あ、後で折り返すわ。うるさいからマナーモードにしといて」
その間もダースベイダーのテーマが鳴り続け、西村は追い詰められるような感覚に陥った。こめかみが押さえられ、脇下にジワリと汗が滲む。
「そう?じゃマナーモードにしておくね」
「うん。よろしく」
ジーンズとボクサーパンツを脱ぎ終えバスルームに入ろうとスライドドアに手を掛けた瞬間、智の不思議そうな声が背中に突き刺さった。
「裕人、どうしたの?お尻に傷、出来てるよ?」
「・・・・・え」
「痛そう、大丈夫?」
西村は思わず目を見開いた。洗面所の鏡に映る左の尻にはクッキリと4本の線が並んでいる。それは明らかに喘ぐ朱音が付けた爪痕だった。
「あ、あぁ。蚊に刺されて掻いてたからかな。大丈夫」
「そっか!薬出しとくね」
「サンキュー」
爪痕は丁度蚊に刺された場所と重なり智には何とか誤魔化す事が出来た。シャワーを浴び終えた西村は朱音に《《釘を刺す》》為に出掛ける事にした。
「ちょ、煙草買って来るわ。何か買うもんねぇ?」
「あ、じゃぁオリーブオイル買ってきて。バージンオイル、間違えないでね!」
(バージン・・・朱音は《《初めて》》だったんだろうか?)
「お、おう」
暑い。折角シャワーを浴びたがこれでは意味がない。しかも眠い。面倒臭いが仕方がない。紺色のTシャツにハイビスカス柄のハーフパンツの出立ちで「煙草を買いに行く。」と出掛けた。
マンションのエントランスを出て上を見上げると智が笑顔で手を振っている。西村は引き攣った笑顔で手を振り返す、6階の高さならこの不自然な表情を気付かれる事は無いだろう。
ポケットから《《営業用》》の携帯電話を取り出す。発信音を2回鳴らした所で慌てた様子の朱音が出た。
「もしもし!」
「どうした」
「だって、西村さん電話に出てくれないんだもん」
「悪ぃ、寝てた」
「あ・・・ごめんなさい」
「朱音、休みの日は寝てるんだよ。電話、止めてくんない?」
自転車に乗った小学生が我先にと争うように西村の横を通り過ぎる。朱音の耳元には子どもたちの笑い声が響いた。
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