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夜。リビング。静まり返った家。遥の部屋のドアが閉じられた奥で──玲央菜と颯馬はソファに向かい合っていた。


薄く笑う玲央菜の指先には、グラス。

中身はただの水だ。にもかかわらず、彼女の仕草は優雅で、異様に色気があった。


「──最近、ちょっと鈍ってるよね。あの子」


颯馬はソファに崩れるように座り、片手でスマホをいじりながら言う。


「動き、遅かった。多分、筋肉痛。……てか、今更痛がるようになった?」


「……ふふ。可愛いと思った?」


「ううん、面倒くさくなってきた。壊れかけのオモチャって、あんま長持ちしないじゃん」


玲央菜の目が細くなる。

笑っているのに、どこか“怒っている”ようにも見えた。


「──壊すのは、私でいいよね?」


「別に。そっちが好きなら。俺はどっちでもいいけど」


「“どっちでも”って言ったら、手ぇ出すじゃん。わかってるよ。颯馬、そういうとこある」


「姉ちゃんが飽きたら、やるよ。俺はさ、泣かせるの得意じゃないし。姉ちゃんみたいに、言葉だけで壊せないし」


「……言葉だけじゃ、壊れないよ?」


玲央菜の笑顔の奥に、ひりついた執着が滲んだ。


「泣かなかったの。──昔さ、私、小さい頃、何度もやったんだよ? 砂場で、引きずって、押し倒して、顔、泥でぐちゃぐちゃにして。それでもあの子、泣かなかった。ずっと、泣かないの」


「……へえ」


「私、思ったの。“泣いたら、もう終わり”って思ってたんだろうなって。

……あの頃から、全部わかってた顔してた。気持ち悪いくらいに」


颯馬はスマホの画面を消して、玲央菜の目を見た。

少しだけ、眉が寄っていた。


「……姉ちゃんさ、それ、好きなんじゃないの?」


「違う」


即答だった。少し声が高くなった。


「私は……。ただ、壊れないって思ってたのに、少しずつ、削れていくの見るのが、楽しいだけ」


「でももう、限界近いよ? 壊れるよ。次、何すんの?」


玲央菜は立ち上がり、グラスをテーブルに置いた。

その指先が、すっと颯馬の頬に触れる。


「──明日、私がやる」


「へえ。……何を?」


「“心臓を裂く言葉”をね。ずっと用意してた。いつ言おうかなって、楽しみにしてたんだ」


颯馬は微笑んだ。

冷たく、興味のない顔で。


「じゃあ、姉ちゃんに壊されるまで、俺は遊んでていい?」


「……遊ぶのはいいけど、壊さないでね。最後は、私だから」


その言葉には、かすかな“愛情”のようなものすら含まれていた。

だが、それは決して“救う”ためのものではなかった。


愛しているのではない。

所有しているのだ。


玲央菜の目は、まるで──自分のものにナイフを突き立てるときのような、

そんな、陶酔に濡れていた。





朝。リビングはまだ涼しく、朝の光がカーテン越しに揺れていた。

沙耶香も晃司も、まだ部屋に引きこもっている。父は出勤済み。颯馬は朝練とかでいないらしい。


玲央菜が静かに椅子に座り、カップに口をつける。

反対側の席には、遥。伏せるように目を落とし、パンをかじるでもなく、指先で皿の縁をなぞっていた。


しばらく沈黙が続いたあと。

玲央菜が、まるで雑談のように言った。


「──ねえ、遥」


「……なに」


「私さ、小さい頃から、ずっと疑問だったことがあるんだ」


遥は返事をしなかった。だが、わずかに目が動く。

玲央菜はそれに気づきながら、なおも穏やかに続けた。


「“どうしてあんたって、産まれてきたんだろうね?”って」


静かだった。


遥の指が止まる。


「……は?」


「だって、誰も待ってなかったじゃん。

お母さんは認知してもらうために無理やり押しかけたんだし。

お父さんだって“こんなのが生まれるとは思わなかった”って、ずっと言ってたよ?」


玲央菜は笑っていた。

温かく、丁寧に話す──まるで授業のような口調だった。


「沙耶香はあんたのこと、“笑いもの”って言ってた。

晃司は、“臆病なくせに言い訳だけは一人前”って。

颯馬は“兄として数えたことない”って。

……で、私も、“気持ち悪い”って、思ってた」


遥は、テーブルに置いた手をゆっくりと引っ込めた。

足元が急に、深い穴に沈んでいくような感覚。


「別にね、可哀想とは思ってないよ。

──“いなくても誰も困らなかった存在”って、きっとこの世に必要なんだと思うし」


「……っ」


「でも、私、あんたの“なにかになろうとする”のが、一番嫌だった。

“役に立ちたい”とか、“愛されたい”とか。──誰からも、望まれてないのに」


静かな朝だった。

冷えた空気に、ただ玲央菜の声だけが染み込んでいく。


「──あんたが笑ってるとき、私はいつも、なんか“嘘”って感じがしてた。

泣かないのも、怒らないのも、謝るのも、ぜんぶ──“生きてるふり”だったんだよね?」


遥は、何も言えなかった。

頬を打たれたわけでもないのに、涙が出そうになった。


「壊れないって、あんたの強さだったの? それとも、ただの鈍さ?」


玲央菜はコップを置いて、立ち上がる。

すっと視線を落として、最後に言った。


「私ね、ずっとあんたに“死んでほしい”って思ってたんじゃない。

──“それでも生きるしかないんだね”って、ずっと見下してただけ」


そして、そのまま部屋を出ていった。

遥は動けなかった。


テーブルの上に、朝の光だけが残っていた。


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