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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
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ブリーフィングを終えた後、桐生法律事務所を出た遥の足は、しかしいつもより少しだけゆっくりと動いていた。急ぐ理由がないわけではない。小夜が待っている。それは分かっていた。しかし今夜は、マンションへ向かう路地の角を曲がる前に、一度だけ立ち止まった。
冬の冷気が肺の底まで入ってくる。煙草を取り出して火を点けた。ジッポは小夜に取られたままなので、百円ライターだ。風除けのために身体を傾けながら、小さな炎を煙草の先端に近づける。紫煙が立ち上り空に溶けた。
九条迎賓館。
その名前を遥は頭の中で一度だけ転がした。慧が語った言葉が順番に戻ってくる。鳳耀という人間の輪郭。警察との癒着。公安が手を出せない理由。そして――様々な感情の入り混じった慧、凪、ソフィアの声。
両親が死んだ夜の雨の音が、記憶の底でまだ弾けている。
十五年分の重さがまた少しだけ形を変えた。霧の向こうにぼんやりと存在していた”何か”が、固有名詞を持った瞬間に現実の輪郭を帯び始めた。それは遥にとって、怒りが増したというよりも――長い間水面下で息をしていた種火に、初めて燃料が供給された感覚に近い。
煙草を吸い切る前に、携帯灰皿へと押し付けてそれを消した。小夜が待っている。
■
玄関の鍵を開けると、今夜は灯りがついていた。リビングから薄い光が廊下に漏れている。遥は安全靴を脱ぎつつ、その色を確かめた。天井の蛍光灯ではなく、床に置いたフロアランプの光だ。小夜が気分によって使い分けるやつで、蛍光灯の白さが嫌いな夜は決まってこちらを点ける。
「……おかえり」
リビングに入ると、小夜はソファに座っていた。膝の上にスケッチブックを広げ、シャープペンシルを持っている。しかし手は止まっていた。遥が入ってきた瞬間から、視線はこちらに向いていた。待っていた、というより――起きていることの理由が遥である、という感じの目だった。
「ただいま」
遥はジャケットを脱ぎつつ、自然な動作で小夜の向かいに腰を下ろした。ソファではなく床に直接座った。背中をソファの縁に預け、無造作に足を伸ばす。小夜の視線が遥を追いながら、スケッチブックをそっと閉じた。
しばらく、何も言わなかった。フロアランプの光が二人の輪郭を柔らかく照らしている。窓の外では風が鳴っていた。小夜の耳のピアスが光を受けて微かに揺れる。
「……遥」
先に口を開いたのは小夜だった。
「何か……いつもと違う?」
遥は小夜を見た。彼女はスケッチブックを膝の上に置いたまま、彼のことをじっと見つめている。感情の読めない黒い瞳だが、その奥に、何かを察知している光があった。遥が事務所から何かを持ち帰る空気を、小夜は皮膚で機敏に感じ取る。言葉にはしないが、いつも分かっている。
「……ああ」
少しだけ間を置く。言うべきかどうか迷っていたわけではなかった。慧からこの話を聞いた時、遥は即座に”伝える”と答えたのだ。迷いはない。ただどこから話すかを、今夜ここへ帰ってくるまでの間ずっと考えていた。
「話がある」
遥が言うと、小夜は何も返さず膝の上のスケッチブックを脇へと置き、少しだけ姿勢を正した。それが彼女なりの聞く態度だということを、彼は知っていた。
「九条迎賓館……という組織がある」
遥は静かに紡ぎ出す。説明的にならないよう、必要なことだけを選んで話した。京都にある、完全紹介制の高級サロンが表の顔であること。その実態が、国家レベルの依頼を受ける暗殺組織であること。警察との癒着があり、公安も迂闊に手を出せない状態にあること。小夜が黙って聞いているのを見て、遥は続けた。
「慧と凪が調べた結果、ベラドンナの大元がそこだということが分かった」
小夜の目が微かに動いた。
「ベラドンナは父さんと母さんを奪った組織の、末端の一つだ」
フロアランプの光が変わらず部屋を照らしている。窓の外の風が少しだけ強くなり、電線が低く唸る音が静かな室内に届いた。
まだ小夜は何も言わなかった。遥は返事を待った。急かさなかった。妹が言葉を持つまでの時間を、ただそこにいることで埋めるのだ。
「……確かなの」
やがて小夜が言った。声は平坦で震えてはいないが、その凪いだ波の底で、何かが静かに、しかし確実に燃え始めていることが遥には分かった。
「まだ確定とまで言えないが、状況証拠から――慧の言葉を借りれば、幾つもの状況証拠が合致していると」
「……そう」
小夜は膝の上で手を重ねた。黒い爪の指先が、自分の甲の上に静かに置かれた。
「束ねてるやつの名前は」
「鳳耀。九条迎賓館の頭目だ」
小夜はその名前を繰り返さなかった。しかし口の中で一度だけ転がしたような、わずかな間があった。
「強いの」
「強い。何より組織の力として、今まで俺たちが相手にしてきた連中とは格が違う」
「……遥でも」
「今すぐ動けるほど、情報が揃ってない。慧にも言われた」
小夜は遥を見た。その目に責める様子はない。むしろ、彼の内心を推し量り気遣うような色を孕んでいた。
「……いつ動くの」
「情報が揃ったら。慧とソフィアと凪が、今それを進めてる」
「あたしは」
遥は少しだけ間を置いた。
「今まで通り待っていてくれ」
小夜の目が一瞬だけ揺れる。揺れる、というほど大きな変化ではないが、その黒い瞳の奥で何かが静かに動いた。それは諦めでも了解でもなく――全てを遥に委ねるという、この少女の根っこに住む感情だった。
「……分かった」
小夜はそれだけ言った。遥は息を吐く。もっと何かを言うべきかもしれない、と思った。しかし妹に対して余分な言葉を重ねることが、兄には昔からうまくできない。言葉にしなくても届くものを、言葉にすることで逆に薄めてしまう気がしたからだ。
しばらく二人は黙っていた。フロアランプの光が変わらず部屋を満たしている。やがて小夜がゆっくりと立ち上がり、脱いでいた靴下を履き直すとキッチンへ向かった。そのまま小夜は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで戻ってくる。遥の前にそれを置いて、また自分のソファに戻った。
「……飲んで」
小夜の細い指から遥がコップを受け取る。麦茶は冷たかった。一口飲むと、今夜初めて、自分が喉を乾かしていたことに気づいた。
「サンキュ」
「……うん」
小夜は再び閉じたスケッチブックを膝の上に乗せると、その表紙を眺めていた。遥もそれ以上何も言わない。二人分の沈黙がランプの光の中に静かに溶ける。窓の外では風が鳴り続け、電線が低く唸り、冬の夜が進んでいく。
ややあって、小夜がぽつりと零した。
「……遥」
「ん」
「終わったら」
コップをテーブルに置きながら、遥は小夜を見た。
「全部終わったら――どこか、行こ」
彼は少しだけ目を細める。小夜がそういうことを言うのは、珍しかった。未来の話を小夜は普段あまりしない。今ここにある体温だけが確かなものだと、どこかで思っているような生き方をしている。そんな小夜が”終わったら”と確かに言った。
「……どこに行きたい」
「どこでも」
「どこでもって、どこだ」
「……遥が決めて」
遥は少しだけ考えた。
「海でも見に行くか」
「……冬の海?」
「悪いか」
「シンプルに寒い」
「じゃあ春になったら」
小夜は少しだけ間を置いた。
「……春になったら」
繰り返した声はいつもより僅かに柔らかい。それが約束として機能しているのかどうか、遥には判断できなかった。ただ小夜がその言葉を口にした時、閉じたスケッチブックの上に置かれていた指先が、ほんの少しだけ、力が抜けたのを見た。
淡く優しい光が二人の輪郭を照らし続ける。
今夜もまだ、冬だった。