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ロシア連邦、モスクワ。
クレムリン宮殿の奥深く、重厚な赤レンガと冷たい大理石に囲まれた大統領執務室。
窓の外には降りしきる雪が赤の広場を白く染め上げているが、室内の暖炉には薪がくべられ、パチパチと爆ぜる音だけが静寂を破っていた。
巨大な執務机の向こう側、革張りの椅子に深く沈み込んでいる男がいた。
ウラジーミル・ボグダノフ。
この広大な凍土の帝国を鉄の拳で統治する、「ツァーリ(皇帝)」の再来と呼ばれる男である。
彼の手元には、ウクライナ戦線からの戦況報告書が積み上げられていた。
泥沼化する戦線、西側の経済制裁、そして兵士たちの消耗。
頭の痛い問題ばかりだ。
だが、今の彼の思考を占めているのは、西の戦線ではない。
東だ。
極東の島国から漂ってくる、奇妙で、そして不吉な「死の匂いのなさ」だった。
「……入れ」
重いノックの音に応じると、扉が開き、二人の男が入室してきた。
一人はロシア連邦保安庁(FSB)長官のアレクセイ。
もう一人は、参謀本部情報総局(GRU)長官のミハイルだ。
二人とも顔色は悪く、極度の緊張と疲労が見て取れた。
彼らはここ数日、眠っていないのかもしれない。いや、眠ることを許されなかったのだ。
「座れ」
ボグダノフは短い言葉で促し、手元の書類を脇に追いやった。
そして、氷のような青い瞳で二人を射抜いた。
「報告を聞こう。
裏社会で囁かれている『噂』についてだ。
……アメリカ軍が『死ななくなった』というのは、本当か?」
アレクセイ長官が、ハンカチで額の脂汗を拭いながら口を開いた。
「……はっ。
当初は、戦場における錯乱、あるいは西側のプロパガンダによるデマゴーグだと判断しておりました。
『撃たれても立ち上がる』『傷が一瞬で塞がる』など、ゾンビ映画の話に過ぎないと」
「結論を言え」
「……事実です」
アレクセイは震える手で、タブレット端末をデスクの上に置いた。
「これは中東の友好国、および民間軍事会社(ワグネル)の生き残りから極秘裏に入手した、シリア北部での戦闘記録映像です。
相手はアメリカ陸軍のレンジャー部隊。
見てください」
動画が再生される。
荒涼とした砂漠の廃墟。
待ち伏せ攻撃を受け、蜂の巣にされるアメリカ軍の車両。
本来なら全滅必至の状況だ。
実際、映像の中のアメリカ兵は腹部を撃ち抜かれ、血飛沫を上げて倒れ込んだ。
だが、次の瞬間。
ボグダノフの目が細められた。
倒れた兵士が、懐から灰色の何かを取り出し、自らの腹に突き立てた。
すると、どうだ。
出血が止まり、苦悶の表情が消え、兵士は何事もなかったかのように立ち上がったのだ。
それどころか、獣のような雄叫びを上げ、人間とは思えない速度で突撃を開始した。
「……なんだ、これは」
ボグダノフが低い声で呻く。
「麻薬(ドラッグ)か?
PCPやアンフェタミンの類か?
痛みを感じなくさせているだけだろう」
「いえ、大統領。
よくご覧ください」
GRUのミハイルが映像を拡大し、コマ送りにした。
「傷口です。
……塞がっています。
物理的に、肉が盛り上がり、再生しているのです。
わずか数分で」
「…………」
ボグダノフは言葉を失った。
映像の中の兵士は、再び撃たれた。今度は腕だ。
だが、彼は止まらない。
走りながら再び注射を打ち、また回復する。
まるでテレビゲームのキャラクターだ。
『HP回復アイテム』を使って、無限に戦い続けるアバターそのものだ。
「……不死身の兵士(イモータル・ソルジャー)」
ボグダノフは、その非現実的な単語を口にした。
「アメリカは、いつの間にこんな技術を手に入れた?
バイオテクノロジーか?
それともサイバネティクスか?」
「調査の結果、出処が判明しました」
アレクセイが、一枚の報告書を差し出した。
そこに記されていた国名は、ボグダノフにとって予想外のものだった。
「……日本だと?」
「はい。
アメリカが独自開発したものではありません。
日本政府から同盟国への『供与品』として渡された、特殊な医療用ナノマシン製剤……通称『バンドエイドMK3』です」
「日本……。
あの、平和ボケした島国がか?」
ボグダノフは椅子に深くもたれかかった。
日本。
経済大国ではあるが、軍事的にはアメリカの属国。
憲法9条という鎖に縛られ、牙を抜かれた国。
ロシアにとって、日本は「北方領土問題で金をせびりに来る小うるさい隣人」程度の認識でしかなかった。
ウクライナ侵攻以降、対ロ制裁に加わってはいるが、軍事的な脅威とは見なしていなかった。
「我々は……見誤っていたのか?」
「はい。致命的に」
ミハイルが悔しげに唇を噛んだ。
「ウクライナでの『特別軍事作戦』にかかりきりになっている間に、極東のパワーバランスは劇変していました」
「東京駐在のSVR(対外情報庁)要員は何をしていたのだ?
寿司を食ってウォッカを飲んでいただけか?」
ボグダノフの静かな問いに、アレクセイが縮み上がった。
「そ、それが……。
東京の支局長は『日本は相変わらず遺憾の意を表明するだけで、特異な動きはない』と……。
経済指標や政治家のスキャンダルばかりを報告してきておりまして……」
「無能め」
ボグダノフは吐き捨てた。
「粛清だ。
東京の担当者は全員、配置換え(シベリア送り)にしろ。
目が節穴の無能者に、国家の耳目は任せられん」
「は、はっ!
直ちに!」
アレクセイが青ざめた顔で敬礼する。
ロシアにおいて「配置換え」が何を意味するか、彼らは骨の髄まで知っている。
「……それで?
その『バンドエイド』とやらを巡って、何が起きた?」
ボグダノフは先を促した。
単に日本が薬を作っただけなら、まだいい。
問題は、それが世界情勢にどう影響しているかだ。
「事態は深刻です」
ミハイルが世界地図を広げた。
中東、そして東アジアに赤いマーカーが引かれている。
「まず中国です。
彼らは我々よりも早く、この情報の臭いを嗅ぎつけていました。
MSS(国家安全部)は、アメリカ軍に配備されたMK3を強奪するため、シリアで大規模な傭兵部隊を動かしました」
「ほう。
あの慎重な李総理が、そこまで露骨な手に出たか。
それほどまでに欲しかったということか」
「はい。
ですが、結果は……惨敗です。
先ほどの映像の通り、150名の傭兵部隊は、たった12名のアメリカ兵に一方的に蹂躙されました。
不死身の兵士相手には、数の暴力も通じなかったのです」
ボグダノフは眉間の皺を深くした。
中国の失敗は、ロシアにとっても他人事ではない。
通常戦力で勝てない相手が誕生してしまったということだ。
「その後が問題です」
ミハイルは続けた。
「激怒したアメリカのウォーレン大統領は、北京とのホットラインで『全面戦争も辞さない』と恫喝しました。
『次に手を出せば核を含むあらゆる報復を行う』と。
……本気でした。
アメリカは今、不死身の軍隊を手に入れて、強気になっています」
「それで?
中国は引いたのか?」
「はい、即座に。
懸賞金を取り下げ、工作員を撤収させました。
……ここまでは、よくある大国間の小競り合いです。
ですが、理解不能なのは『その後』です」
ミハイルは困惑した表情で、一枚の外交文書のコピーを提示した。
「中国政府は突如として対日政策を180度転換しました。
『日本保護区構想』です」
「……保護区?」
ボグダノフは耳を疑った。
中国が日本を保護する?
侵略や威圧なら分かるが、保護とはどういう意味だ?
「表向きは『東アジアの安定のため、日本の安全を中国が保証する』という不可侵条約の提案です。
ですが実態は、日本への『求愛』です。
関税撤廃、レアメタル市場の開放、そして日本企業への優遇措置。
中国側が一方的に譲歩する形で、日本を自陣営に取り込もうとしています」
「気でも狂ったか、あの龍は」
ボグダノフは嘲笑した。
だが、その目は笑っていなかった。
中国がプライドを捨ててまで日本に擦り寄る理由。
それは一つしかない。
「……薬か。
アメリカから奪えないなら、源泉である日本から貰おうという腹か」
「その通りです。
日本政府は巧みに立ち回っています。
アメリカには『同盟国の義務』として薬を渡し、中国には『将来的な譲渡の可能性』をちらつかせて寸止めにする。
両大国を天秤にかけ、操っているのです」
ボグダノフは立ち上がり、窓の外の雪景色を見つめた。
かつての小国、アメリカの属国に過ぎなかった日本が、今や世界のキャスティングボートを握っている。
それも、ナノマシンという魔法の杖を使って。
「……そして、我々ロシアは?」
ボグダノフは背中を向けたまま問うた。
「……」
アレクセイとミハイルは顔を見合わせた。
言いづらい事実だ。
「……蚊帳の外です」
アレクセイが絞り出すように言った。
「日本政府からは、何のコンタクトもありません。
アメリカには実物を、中国には約束を。
ですがロシアには……何も。
まるで、眼中にないかのように」
ダンッ!!
ボグダノフが窓枠を拳で殴りつけた。
ガラスが微かに震える。
「舐められたものだな!」
彼の怒りは、アメリカや中国に向けられたものとは質が違った。
無視されたことへの屈辱。
かつての超大国、核保有国であるロシアが、極東のゲームのプレイヤーとしてすら数えられていないという事実。
「ウクライナで手一杯だと思って、我々を侮っているのか。
それとも、制裁国家には用はないということか」
ボグダノフは振り返った。
その顔には、冷酷な決意が張り付いていた。
「だが、待て。
中国国内の状況はどうだ?
あの独裁国家が、そんな弱腰外交をして、国内の反発はないのか?」
「そこが、もう一つの謎です」
ミハイルが報告する。
「確かに、軍部や保守派からは不満の声が上がっています。
『弱腰だ』『日本に媚びるな』と。
……ですが、それらの反対派は、驚くべき速度で『沈黙』させられています」
「沈黙?」
「はい。
ここ数週間で、中国国内で数千人規模の党幹部、軍人、活動家が逮捕、あるいは失脚しました。
彼らは地下組織で密談をしていたり、国外へ資金を逃そうとしていた者たちですが……。
MSSは、彼らの居場所をピンポイントで特定し、踏み込んでいます」
ミハイルは、北京の地図上に無数に打たれた×印を示した。
「まるで『壁の向こうが見えている』かのような摘発劇です。
中国国民の間では、『政府は国民全員の行動を監視する新しい目を持った』という噂が広がり、パニックに近い状態になっています」
「……壁の向こうが見える目」
ボグダノフの脳裏に、一つの可能性が閃いた。
アメリカもまた、最近国内のテロリスト摘発率が異常に上昇しているという報告があったはずだ。
中国とアメリカ。
対立する二つの国で、同時に起きている「治安の劇的な向上」と「監視社会化」。
「……繋がったな」
ボグダノフは唸った。
「日本だ。
日本は『薬』だけじゃない。
『眼』も提供しているんだ」
「眼、ですか?」
「そうだ。
アメリカにはテロ対策、中国には反乱分子の粛清。
それぞれの指導者が最も欲しがる『監視システム』を売りつけ、恩を売ったのだ。
……恐ろしい国になったものだ、日本は」
ボグダノフは戦慄した。
薬で命を握り、監視システムで秘密を握る。
日本は兵器を使わずに、世界を支配しようとしている。
これは新しい形の帝国主義だ。
静かで、見えなくて、そして逃れられない「技術帝国」。
「……大統領。
いかが致しますか?
このままではロシアだけが、不死の兵士も、万能の眼も持たぬまま、取り残されます。
いずれNATO軍全員が不死身になり、我々の国境に押し寄せてくるかもしれません」
アレクセイが悲痛な声で訴える。
悪夢のシナリオだ。
核の均衡すら意味をなさなくなるかもしれない。
ボグダノフは執務室の中をゆっくりと歩き始めた。
皇帝の歩調。
彼は決断を下さねばならない。
国家の生存をかけた、大転換を。
「……ウクライナは、もういい」
彼は呟いた。
「えっ?」
「あの泥沼にかまっている暇はないと言ったのだ。
戦線を凍結しろ。
休戦だ。停戦協定でも何でもいい、適当な理由をつけて時間を稼げ。
西側に『ロシアは疲弊した』と思わせておけばいい」
ボグダノフは地図の東側、日本列島を指で叩いた。
「主戦場は変わった。
西ではない。極東だ。
日本の『東京』こそが、これからの世界の中心だ」
彼はアレクセイとミハイルに向き直った。
「総力を挙げろ。
SVR(対外情報庁)、GRU(情報総局)、そして特殊部隊『ザスローン(Zaslon)』。
使える駒はすべて日本へ送れ」
「目的は?」
「探れ。
そして奪え。
日本が隠している『魔法の杖』の正体を」
ボグダノフの目が、猛禽類のように鋭く光る。
「まずは情報だ。
『新木場』とかいう埋立地に、何かがあるらしいな?
そこを探れ。
アメリカや中国が手を出しかねているなら、我々がリスクを冒す価値はある」
「しかし、新木場の警備は鉄壁です。
マクドウェルの私兵や、日本の公安が目を光らせています。
正面からの潜入は不可能です」
「正面から行くなと言っている。
搦め手を使え。
ロシアにはロシアのやり方がある」
ボグダノフはニヤリと笑った。
かつてKGBのスパイとして鳴らした頃の、冷酷で狡猾な表情だ。
「ハッキング、買収、脅迫、ハニートラップ。
そして……『拉致』だ。
技術者を一人攫えば、口を割らせることはできる。
家族を人質に取れば、どんな堅物でも協力者になる」
「……伝統的な手法ですね」
「古い手ほどよく効くものだ。
ハイテクに頼りきったアメリカや、金で解決しようとする中国には真似できない、泥臭く確実な手だ」
ボグダノフは指令を下した。
「工作員を増やせ。
観光客、ビジネスマン、留学生……あらゆる偽装を使って、東京に人を送り込め。
街全体をロシアの耳目で埋め尽くすのだ。
たとえ日本の監視システムが優秀でも、アナログな『人の目』と『紙のメモ』までは監視できまい」
「はっ!
直ちに『東方計画(ボストーク・プラン)』を発動します!」
ミハイルが敬礼する。
「それと、もう一つ」
ボグダノフは付け加えた。
「日本政府にも接触しろ。
ただし、アメリカや中国のような下手な態度は取るな。
『エネルギー協力』を持ちかけろ」
「エネルギー……ですか?」
「ああ。
日本は資源がない国だ。
いくら深海からレアメタルが出たと言っても、石油や天然ガスは喉から手が出るほど欲しいはずだ。
サハリン2の権益維持、あるいは北極海航路の開放……。
これらを餌にして、日本の懐に入り込め」
ボグダノフは知らなかった。
日本がすでにテラ・ノヴァから、硫黄の混じらない最高品質の原油を無尽蔵に手に入れていることを。
そして、彼の切るカードが、もはや日本にとっては「あってもなくてもいい程度のもの」に成り下がっていることを。
だが、その認識のズレこそが、今後の悲劇と喜劇を生むことになる。
「日本よ。
我々を無視した代償は高くつくぞ。
北の熊は、一度抱きついたら骨が砕けるまで離さないのだ」
ボグダノフは暖炉の炎を見つめた。
揺らめく炎の中に、未来の戦場が見える。
それはミサイルが飛び交う戦場ではない。
情報と技術、そして人間の欲望が交錯する、影の戦争だ。
◇
その頃。
東京湾、晴海埠頭。
夜闇に紛れて、一隻の貨物船が入港していた。
船籍はパナマだが、乗組員たちは全員、スラヴ系の顔立ちをしている。
彼らは観光客を装って下船し、闇の中へと消えていった。
彼らの荷物の中には、最新鋭の通信機器と、トカレフ、そして神経ガスのアンプルが隠されていた。
ロシア最強の特殊部隊『ザスローン』の先遣隊だ。
彼らの目的はただ一つ。
日本の「秘密」を暴き、それをロシアの物とすること。
東京の地下で、アメリカ、中国、そしてロシアの諜報員たちが入り乱れる、仁義なき情報戦争の幕が上がった。