深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
夕暮れの下を歩く少女は一人、赤い革の鞄を背負って、虚空に向かって喋っていた。心の中に棲んでいる友達とお喋りしていた。少女の他には誰も知らない少女だけの友達と楽しい時間を過ごしていた。心の中の友達はいつも少女を慰めてくれた。
ユカリが深い眠りから目覚めると、夜の帳はまだ乾いた風に揺らめき、悪しき物事は青黒い紗の向こうに身を潜めていた。何もかもを洗い清める白い夜明けが迫るのを感じるが、夜の女王は空の桟敷に鎮座して祈り無き荒れ野を眺め、輝く微笑みを浮かべていた。
ユカリは痛みを訴える身を起こし、己に振りかかった種々を思い返す。いずれ起こりうると想像していた出来事が到来した。
魔導書を手に入れるために善き人から盗む。悪しき人を殺す。
望んでいなくとも起こりうる。それが事を為す上で最低限覚悟すべきことだ、と。ユカリは覚悟しているつもりだったが、足りていなかったようだった。殺そうとして殺したわけではないことは、己に対して少しの慰めにもならず、むしろユカリはより一層の罪悪感を覚えた。
彼がそれに値する人間だったとしても、私はそれに値する人間ではなかったはずだ、とユカリは心の中で涙を流した。
耳の端にユカリの名前を呼ぶ声を聞いて、そちらに顔を向けるとすぐ目の前でパディアがひざまずいていた。大きな体を見上げる。引き締まった肉体に一見怪我らしきものはないが、彼女の手に乾いた血がついていることにユカリは気づいた。
「どうしたんですか? パディアさん。これ。この血、怪我をしたんですか? 治せないんですか?」
「ああ、返り血よ」パディアはユカリを安心させるように微笑みを浮かべ、両手を繰り返し握って開いて言った。「誰の血か分からないけど、少なくとも私の血でないのは確かよ。私はまあ、少し頭を打たれたけど大丈夫。素人に打たれて痛みを感じるなんて、現役の頃の私では考えられないわ。私も少し鈍っているみたい」
ユカリは改めて、すがりつくようにパディアの大きな手を両手で握り、涙声で言った。「ごめんなさい。一人で何とか出来ると思ったんです。パディアさんを巻き込んじゃいました」
「巻き込んだ? 馬鹿言わないで。逃げようと思えば逃げられたわ。私が望んで渦中に飛び込んだのよ。泥濘族が私たちの制止を振り切って飛び出したから、その後に続いた。隊商は傭兵含めて逃げ出したようだけどね。だから誰一人として巻き込まれたりはしていない。いい?」
「はい。ありがとうございます」そう言って、ユカリはぎこちない微笑みを浮かべた。「それでどうなったんですか? そういえばビゼさんは? 泥濘族の集落は?」
「ビゼ様も無事よ。私とユカリのために身を隠す魔術を使ってくれた」そう言って、しかしパディアは残念そうに首を振る。「泥濘族の戦士が全て討たれて、最後の最後にもまだ二百人くらいの盗賊が残っていたわ。泥濘族の集落は滅ぼされた」
ユカリは何かを訴えるようにパディアを見つめ、周囲を見渡し、またパディアを見つめた。手の先に冷たい何かが流れ込み、意思に反して小刻みに震え始める。許しがたい恐怖が胸の底にわだかまっているのを感じる。
皆が死んだのだろうか。戦士も、男も女も族長も子供たちも、ユーアも。
「私が、私のせいで」ユカリは細い声を漏らす。
パディアはユカリの揺れる瞳を捕えるようにじっと見つめて、首を振る。「違うわ。ユカリはやるべきことをやった。最も強い魔法を使える貴女が出来ることの中でも最も勇敢な選択だったと私は思ってる。貴女にもそう思って欲しい。それより、私たちの制止を振り切って、まるで何かに取り憑かれたように戦士たちが丘を駆け上がっていったの。あれこそがバダロットの持つ魔導書の力なのかもしれないわ」
パディアの慰めは聞こえていたがどこにも届いていなかった。自分がやったこと、やらなったことを探すようにユカリは辺りを見回した。
今いる場所は丘の下だが、集落はどこにも見えない。地形から推察し、丘を挟んで集落とは反対側にいることにユカリは気づいた。
その丘を登っている人影がある。それはビゼだとすぐに分かったが、他には誰もいないし、何もない。罪も罰も、死さえも。
「あの、パディアさん。亡骸はどこですか?」
「亡骸? 屍の盗賊たちはどこかに去っていったわ。失われた手足もすべて回収して行ったようね。屍使いの術を使えばあれも元通りにできるのだと思う。泥濘族の戦士たちは丘のこちら側まで攻め込んでいなかったはず。ビゼ様が様子を見に行っているわよ。ほら、あそこ」
ユカリは頷く。そしてゆっくりと身を起こす。
「みんなを、埋葬しないといけませんね」
「もう動いても大丈夫なの? 痛みはない?」
「はい。大丈夫みたいです。かすり傷がちょっとあるくらいで何も問題はないみたいですね」
東の地平線から白い空が立ち上がり始め、無垢な朝は地上の蛮行に関心を持たないままに全ての罪を晒し、血に濡れた丘に輝きをもたらす。
「グリュエーが助けてくれたの?」とユカリは風に囁く。
「ううん。守護者のおじさんだよ」とグリュエーは答える。
「あの人、おじさんなんだ。おじさんっぽいけど。後でお礼言わなきゃ」
ユカリとパディアはビゼを追い、しばらくして追いつく。ビゼは疲れたのか膝に手をついて一息ついている。
パディアがビゼの横顔を覗き込む。「大丈夫ですか? ビゼ様」
「ああ、パディア、大丈夫。おっとユカリさん、起きたんだね。どこにも異常はないかい?」
「はい、大丈夫です。それにありがとうございます。ビゼさんが私たちを助けてくれたんですよね、身を隠す魔術で」
「ああ、気にしないで。確かに、何も遮るもののない荒野に隠れるのは大変だったけど、君の魔導書の力をちょっと借りたんだ。こちらこそ、ありがとう、だ。さて、とにかく向こうの様子を確かめなくてはね」
ビゼはは丘を見上げ、そのまま立ち尽くした。その視線の先にユカリも目を向ける。丘の上に、とても小さな人影があった。ユカリは反射的に駆け出し、駆け上がる。
丘の頂に、佇んでいたのはユーアだった。黄色の嘴の少女の人形を強く抱きしめて、滅びた街を吹き抜ける風のように悲し気な口笛を吹いて、来る朝を全身に浴びている。
ユカリはユーアを人形ごと抱きしめた。瞼を固く閉じて、涙を堪える。強く抱きしめて、それが動く屍でないことを確かめる。小さな体の奥に熱い血が流れている。心臓が確かな鼓動を打っている。耳元にか細い口笛が聞こえる。
ユカリは涙に濡れた声を絞り出す。「ユーア。助かったんだね。良かった。ユーア。私、ごめんね。ごめんなさい」
震えて滲む言葉にユーアは消え入りそうな口笛で返すだけだった。昨夜の音色と同じ物悲しい響きだ。
追いついたビゼの足音がユカリの隣で止まった。そしてビゼは呟く。「馬鹿な」と。
その言葉の響きに引っかかりを感じ、ユカリは目を開く。涙で滲んでなお、ユーアの肩越しに広がるその光景に目を奪われる。
パディアに聞いていた惨劇とは、ユカリが想像していた有様とはまるで違う。丘のどこにも戦場の跡はなく、血に濡れた亡骸はない。朝日に照らされた泥濘族の集落で、平和で落ち着いた朝の活動が始まっている。家々のそこここから長い時を延々と守られてきた営みの煙が立ち上る。生活の音、集落を刷新する挨拶の声が聞こえ始める。人々は変わらない毎日の、何の変哲もないある一日と同様に、それぞれの朝の仕事に取り掛かっていた。
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