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少しずつ、僕の心の中が変化していくのを如実に感じる。まさか、また出版業界に戻ることにしただなんて。自分でもちょっとビックリしているくらいだ。
そして、この変化は白雪さんがいてくれたかたからこそ。 いつの間にか、白雪さんの存在は僕にとって、とても大きくなっている。
「は、早く新しい職場が決まってくれないと、体が持たない……」
今はいつもの肉体労働の仕事が終わって、アパートに帰る途中の僕である。ゾンビ化しながら。死んだ魚の目をしながら。これはもう、お決まりのようなものだ。
転職活動と並行しての労働は、思っていた以上に疲れる。面接がひとつ決まったとはいえ、まだどうなるかは分からない。ある意味、未知数。なので、どんどん履歴書なりを作って送らねばならない。
疲れてはいる。けれど、充実感はあった。それもこれも、全ては白雪さんのおかげだ。彼女は今頃、僕のアパートで必死に原稿を描いていることだろう。コタツで寝ていなければね。でも、そっちの方が頑張りすぎていた頃よりもずっと良い。
「ふう……ただいまー」
「あ、響さん! お帰りなさーい!」
アパートに着いて玄関を開けると、とたとたと、ニコニコ笑顔でコチラまで出迎えてくれた。いつもよりも、テンション高く。
「どうしたの白雪さん? なんか良いことでもあった?」
「んふふー、分かります? 今日はなんか原稿の調子がすごく良いんです。なんでだか分からないけど、なんか漫画の神様が私に舞い降りてきたって感じです」
「おお、それは良かった。そっかあ、神様が降りてきたか」
「はい! それはもうたくさん!」
この現象、漫画家なら誰でも一度は経験したことがあるはずだ。不思議なこともあるもので、急に筆の進み具合が速くなることがある。でもね白雪さん、漫画の神様ってそんなにたくさん降りてくるものじゃないと思うよ? 一人だと思うよ? まあ神様の世界も分業制が進んでいたり、シフト制だったりするかもしれないから、それなりに人材は確保してるのかもしれないけど。
うん、考えるのはやめよう。なんだかご利益がなくなりそうだ。
ちなみに。原稿を描き始めた当初、白雪さんは鬼気迫る感じで筆を走らせていたわけだけれど、その理由について。それは漫画のラストシーンにあったのだ。どうやら白雪さん、ラストはクリスマスを舞台にしてネームを切っていたらしい。それで勝手に、クリスマスまでに原稿を完成させるのだと、自分で自分の締め切りを設けていたのだとか。白雪さん、本当に真面目な子。
それに、白雪さんの描くスピードは一気にアップしていた。Gペンの使い方のコツを掴んできたらしい。最初はあまりにも悩み込んでいたから、僕は代替案として他のペンを勧めたのだけれど、一蹴された。『漫画を描くといったらGペンじゃないですか!』と。彼女なりのこだわりだったみたいだ。
でも、白雪さんは進化した。努力の賜物意外の何ものでもない。
だけど、少し気になることが。
白雪さんはラスト4ページのネームを頑なに僕に見せようとしないのだ。まだ悩んでいるからと言っていたけれど、本当だろうか。結構な日数が経っているので、もう描き終えているはずなんだけれど。
それが、ちょっと引っかかっていた。
* * *
「「いただきまーす」」
今日の晩ご飯は、白雪さん特製のシチューだ。大きなジャガイモがごろごろしていて、とても家庭的な味がする。あー、なんて美味しいんだ。
「やっぱり寒い日はシチューに限るね」
「ほんとですね。コタツでぬくぬくしながら食べるシチューは格別です。あ、おかわりたくさんあるのでいっぱい食べてくださいね」
そう言って白雪さんは美味しそうに、口いっぱいにシチューを頬張った。白雪さんが食べるところを見てるだけで、僕は幸福感でお腹いっぱいだ。
「白雪さんにはいくら感謝しても足りないくらいだよ。こんなに美味しい晩ご飯を毎日作ってくれて、本当にありがとうね」
「と、とんでもないです。こちらこそ、い、いつもありがとうございます」
僕の言葉に照れてしまったみたいで、頬っぺたが真っ赤っか。本当に照れ屋さんだな、白雪さんって。でも、それがいい。そこがまた白雪さんの可愛いところであり、魅力である。まさに救いの女神様。
「そ、そういえば響さん。もう少しで面接ですね」
照れ隠しなのか、白雪さんは話題をすり替えた。しかし、そうなのだ。僕の人生が一変するかもしれない面接が、もう目の前まで来ていた。
「そうだね、なんとかして受かりたいよ。難しいかもしれないけどね」
「きっと大丈夫ですよ、信じましょう。響さんがまた漫画の編集に携われることを、私は願ってます。面接、頑張ってください。心の中で応援してます」
「受かったらお祝いしてね」
「もちろんです! 盛大にお祝いしましょう! パーティーしましょう! 響さん採用おめでとうパーティーです。私が腕を振るってご馳走をたくさん作りますから」
白雪さんは腕まくりをして、真っ白で細い腕にぐっと力を込めた。白雪さんのご馳走か、食べたいなあ。こりゃ是が非でも受からなきゃいけない。
「じゃあさ、白雪さん。そのときはたくさんウインナー焼いてね」
「あははっ、響さんってほんとウインナー大好きですよね。お子ちゃまだなあ」
「それは僕のセリフだ、お子ちゃまの十七才め」
「ぶー、響さんの意地悪。十七才はもう大人です。来年はもう成人なんですからね。そしたら結婚だってできちゃうんですから」
ぷくりと頬を膨らませてる白雪さんだけれど、でもそうか。白雪さんは来年成人するんだ。そしたらお子ちゃま扱いもできなくなるな。
しかし結婚、か。
白雪さんは将来、どんな人と結婚するんだろうな。チクショウ、まだ見ぬそのお相手に嫉妬してしまう。こんなに可愛い天使と結婚できるだなんて、羨ましすぎる。こちとら二十七才になっても童貞だというのに。一体、僕は前世でどれだけ業が深かったんだよ。……違うか。ただ僕がヘタレな上に、イケメンじゃないからか。
それにしても。白雪さんのウエディングドレス姿、とっても綺麗だろうな。
* * *
「白雪さん? 白雪さーん?」
食事を終え、片付けを済ませたところで、白雪さんは再度原稿に取り掛かった。
だけれど、数分もしない内に白雪さんは原稿に向かいながらゆらゆら船を漕ぎだした。そしてぱたんとコタツに突っ伏して、そのまま寝てしまったのである。まるで電池が切れてしまったように。
「よっぽど疲れてるんだな。頑張り過ぎだよ、白雪さん」
「すーすー」と気持ちよさそうな寝息を聞きながら、僕は寝室に行って毛布を持ってくる。それを彼女に掛けてあげた。少しだけ、眠らせてあげよう。一時間もすれば目を覚ますだろうし、それなら帰りもさほど遅くならないで済む。
それにしても、可愛い寝顔だな。ずっと見ていても飽きない。それどころか、動画を撮ってしまいたくなる。いや、さすがにそれはデリカシーがなすぎるからちゃんと自重するけれど。
熟睡中の白雪さんに、僕は顔を近付ける。そして間近でまじまじと見た。あどけなさが残る顔立ちの中に、どこか大人の色っぽさを感じる。今の白雪さんは、大人の階段を上っている最中なのだろう。
僕は彼女を起こさないように気を付けながら、その寝顔を見守った。自然と顔がニヤけてくる。やっぱり動画撮ってしまおうかな。
「え!? し、白雪さん!?」
白雪さんは寝ぼけているらしく、すぐ隣にいた僕にガバッと抱きついてきた。そして口を「むにゃむにゃ」とさせる。こ、コラ、白雪さん! 僕は抱きまくらじゃありません! 急に抱きついてきたらビックリするじゃないか。
「うーん、どうしようかな……」
身動きが取れない。というか、ちょっとドキドキしている僕がいる。当たり前だ。こんなに可愛い女子高生に抱きつかれて平然としていられる男なんていないだろう。抱きついてくる彼女の体温。それが優しく、体いっぱいに伝わってきた。
「……むにゃ」
小さく、何か寝言を言っている。聞いてはいけないと思いつつも、僕は彼女の声に耳を傾けた。白雪さんは今、どんな夢を見ているのだろう。幸せな夢だといいな。
しかし、違った。
彼女が見ていたのは、幸せな夢ではない。
「ごめんなさい」
ハッキリとした、白雪さんの寝言。寝ぼけたまま、彼女はギュッと僕の体を抱きしめる。
「離れたくない……」
彼女の寝言は、とても悲しい色をしていた。
「白雪、さん」
「嫌だよぅ。ずっと一緒にいたいよぅ……」
一筋の涙が、彼女の頬をつたった。その涙の意味に。寝言の意味に。この時の僕は気付いてあげられなかった。
* * *
「――あれ、私、寝ちゃって……」
「おはよう、白雪さん」
あれから一時間程で、白雪さんは目を覚ました。まだ頭がハッキリしていないようで、両手でこしょこしょと目を擦ってから周りをキョロキョロしている。まるで子猫のような仕草だ。
「す、すみません、私いつの間にか寝ちゃってたんですね。あ、毛布」
「うん、熟睡してたよ。疲れてたんだね、白雪さん」
「い、いびきかいてませんでした?」
やっぱり女子はいびきを気にするんだな。でも白雪さんのいびきだったら、僕はヒーリングミュージックの如く癒やされる自信がある。
「ううん、いびきはかいてなかったよ。すーすー気持ち良さそうに寝息を立ててた。白雪さんの寝顔、可愛いかったよ」
「ね、寝顔まで見られちゃったんですね。恥ずかしい……」
余程恥ずかしかったのか、赤面した頬に両手を当てた。僕は寝起きの白雪さんを眺める。そして思い出す。さっきの寝言について。
「夢、見てたでしょ? お母さんの夢」
「え? お母さんの夢ですか? な、なんでですか?」
子犬のように、そして不思議そうにして小首を傾げた。
「寝言でそう言ってたから」
「ね、寝言!? わ、私、寝言言ってたんですか!? ど、どんな!?」
「離れたくないとか、ずっと一緒にいたいとか。きっと、お母さんと離れ離れになったときの夢を見てたんだなって思って」
「あ……」
白雪さんは表情を強張らせ、僕から視線を逸らす。だけれど、それは一瞬だけ。すぐにいつもの白雪さんスマイルに戻った。
「そ、そうなんですよ。私たまに見ちゃうんですよね、お母さんの夢。寝言聞かれちゃったなんて恥ずかしなぁ、あはは」
言って、彼女は笑いながら頭を掻いた。
そりゃそうだ。白雪さんはもう一年以上もお母さんと離れ離れなんだ。寂しいに決まっている。『離れたくない』というあの寝言は、お母さんが急にいなくなってしまった時の、悲痛な胸の内だったのだろう。
もし白雪さんがプロになれたとしよう。果たしてお母さんは、ちゃんとその漫画を描いたのが自分の娘だと気付いてくれるのだろうか。だから僕は念の為、白雪さんのペンネームに『うらら』という名前を残したんだ。
いくら蒸発したからとは言え、娘の名前を忘れることなんてないだろう、と。
「ひ、響さん。今日は私、もう帰りますね」
言うが早いか、白雪さんはやたらせかせかとリュックの中に私物を詰め込んで帰り支度を始めた。時間はまだ夜十時。普段ならもっと遅い時間までウチにいるのに。
「いつもより帰るのがやたら早いね。それにまだ寝起きでボーッとしてるだろうから、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「い、いいんです。たまには早く帰らないと。それに、響さんもお仕事でお疲れでしょうから。今日は一人きりでゆっくり休んでください」
僕のことを常に気遣ってくれるのはありがたいのだけれど、僕はもっと白雪さんと一緒にお喋りをしたかったけれど。彼女と一緒にいると、本当に楽しいんだ。
「そ、それじゃ響さん、また明日!」
「ちょ、ちょっと待って白雪さん!」
「え? な、なんでしょうか」
僕は慌てて呼び止めた。原稿がコタツの上に置きっぱなしになっていたから。
「あ、あわわわ! す、すみません!」
白雪さんは慌てて原稿を集め、それを焦りながらハードケースファイルにしまい込んだ。一体どうしたんだ? いつも肌身離さない、命よりも大切な原稿を忘れて行くなんて。何か、違和感を覚える。
「お、お邪魔しました!!」
そして、白雪さんは一礼した後、ピューッと帰っていってしまった。
やっぱりおかしい。
寝言の話をしてから、いつもの白雪さんの様子とは違って見えた。やたら焦っているというか、今すぐにこの場から逃げ出したがっているというか、そんな感じを受けてしまった。
何かが引っかかる。白雪さんが見ていた夢。そして寝言。あれはお母さんに対してのものではなかったのだろうか。本当は全く違う夢を見ていたのでは……。
僕の杞憂であってくれればいいのだけれど。