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寿司子が稽古に来ぉへん。 そんなん、今まで一回もなかった。
午後の浅草。 養成所の稽古場は、いつもより妙に広う感じた。 笑い声が反響せえへん空間は、こんなにも寒いもんなんやなって、初めて思った。
「……まだ、来てへんの?」
思わず口にしてしもた自分の声が、やけに浮いて聞こえる。 返ってきたんは、同期の芸人たちの気ぃ遣うような視線やった。
「寿司子、体調悪いとか?」
「昨日、渋谷のあと連絡あった?」
みんな優しい。 せやけど、その優しさが逆に胸に刺さる。
寿司子は、休まへん。
どんなに天気が悪ぅても、ネタが上手く作れへん日でも、
「ちょっと早めに来て、もう一回やろ」
そう言うて、誰よりも先に稽古場におった。
お笑いに関してだけは、寿司子はほんまに頑固やった。 陰キャやけど、芯だけは誰よりも太い。 それを一番よう知ってるのは、相方のウチのはずやのに。
スマホを取り出す。 LINEの画面には、「寿司子」の名前。
――「大丈夫?」
――「今日、来れそう?」
頭ん中で文章は浮かぶ。 けど、指が動かへん。
今朝、猫田さんに相談した。
「このままやと……しんどいかもしれへん」
最後にそう言うた自分の声が、まだ耳に残っとる。
あの時、寿司子の顔、思い浮かべてたんやろか。 ウチは、自分のことばっかりやったんちゃうか。
送られへんまま、スマホを伏せる。 芸人として弱音を吐いた自分が、今さら相方に何を言うっちゅうねん。 そんな意地が、邪魔をする。
「リコ、今日のネタ見せどうする?」
同期の一人が声をかけてくる。 その一言で、はっと我に返る。
「……一人でも、やるで」
そう答えた自分の声は、思ったよりも強がってた。
ネタを一人で声に出す。 本来なら寿司子がおるはずのボケの位置に向かって、 「え? エンガワが脂っこすぎる? 知るかいっ!」 そう聞き返すみたいに一人二役で声を張っても、全然しっくりこぉへん。
当たり前や。 イナリズシは、二人で一つや。
ネタの途中、ふと寿司子が言いそうな即興のボケが頭に浮かぶ。 それが可笑しくて、でも同時に胸が苦しゅうなる。
「……何してんねん、ウチ」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞かれへんかった。
後悔は、ほんまに小さい。 せやけど、確実にそこにある。
渋谷の帰り道、もう一言、寿司子のことを考えて言ぅとったら──
猫田さんに相談する前に、ちゃんと寿司子と話せてたら──
でも、芸人としての意地も、確かにある。 逃げへん。 一人になっても、舞台に立つ覚悟だけは、持っときたい。
気がつけば稽古は終わっていた。 結局、LINEは送られへんままやった。
けど、帰る前に。 スマホをポケットから出して、もう一回画面を見る。
文章は、短くてええ。 格好つけんでええ。
――「今日は来んかったな」
それだけ打って、しばらく止まる。 深呼吸して、続ける。
――「ウチは、ここで待ってるで」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が少しだけ軽なった。
寿司子がどう思うかは、分からへん。 返事が来るかも、分からへん。
それでも。 イナリズシの相方として、 芸人としての意地は、ここからや。
空っぽの稽古場は、まだ寒い。
せやけど、春は、きっと来る。
――続く